第15話 白地図に線を引け
「……」
自信満々と言い切ったのだが、後々冷静に考えるとかなり大胆なことを言ってしまったのではないか。
何とも言えない面持ちでシラノは髪を掻く。
フローとまるで視線を合わせられそうにない。なんということなのだ。この自分が。許されない。なんてことだ。
そのまま暫く無言が続いて、いい加減その沈黙すらも気恥ずかしくなってきた――そんな頃だった。
「……悪いわね。お待たせ」
「話は済んだんスか?」
「ええ、入って貰える?」
扉が開き、アンセラが顔を出した。シラノやフローに聞かせられない取り調べとやらは、十分に完了したらしい。
結論から言うと――と両手を縛られ宙吊りにされたセレーネに目線をやってアンセラは溜め息を漏らした。その様子だけでシラノにも何となく察しがついた。
「……誤解だったわ。いくらかカマかけたんだけど、まったく変化がないの……嘘の匂いがしなかった。あいつらなら興味持ちそうな情報にも興味ない……まるで動じてないのよ」
「なるほど。……ちなみにその信頼度ってのは?」
「絶対確実。あたし相手に嘘つくのは、人間なら不可能よ」
さらりと答えるアンセラからは、裏打ちされた自信が垣間見える。そう言われてしまうとシラノからは文句のつけようもない。
嘘発見器。
魔術にしろ何にしろ、アンセラはそのような特技を持っている……らしい。
「……で、話は振り出しに戻ったわけね。てっきり護衛でも立てて運び込んでるのかと思ったんだけど……本当に夜は何も見なかったの?」
「ええ。……まあ、幾人かあまり作法がない方に声をかけられたぐらいで」
「そっかー……ハズレかぁ……ハズレねー……ハズレかぁ……」
盛大な溜め息と共に肩を落とすアンセラを見ると、何ともご愁傷さまという奴である。
しかし、こうなるとどのような手段で食料を集めているのか。一層謎だ。
そも、魔術というものがどういうものかをシラノは碌に知らないのだ。この中で頼りになるのは、その辺りの知見に明るそうなフローかアンセラ……順当に言うならアンセラだが、
「となると当初の予定通り……やっぱり地道に外で治安維持のお仕事かなぁ」
その彼女にこう判断されてしまうと、いよいよシラノから言えることは何もなかった。
……と。おもむろにセレーネが手を上げているではないか。両手を後ろ手に縛られてるのに。なんたる器用さだろう。
いや、単に手を何度かぴこぴこ動かしてるだけなのだが。
「その……専門ではないのであまり詳しいことは申し上げられませんが――――それは、夜襲をかけて一族郎党を根切りにしては不味いのでしょうか」
「うわ、シラノくんと同じこと言ってる」
「うわってなんスか、うわって。しかも俺は
口だけの提案で寝てるところを焼き討ちにすればいいと言っただけで、なにも一族郎党をひっ捕らえて大根のように首を落とせだなんてシラノは一言も言ってない。甚だしい誤解であり冤罪であった。
「ふふ……気が合いますね、シラノ様」
「そっスね……」
にぃと口元だけを吊り上げるセレーネ。
美人に微笑まれているのに嬉しくなかった。何もしてないのに首筋に刃物を突きつけられている気配がある。怖い。
「……うん、そういう剣狂い二人の暴力的な方法は置いといて。で、ここは当初の予定通りに周辺地域の安定化ね。要するに野盗退治や魔物退治って事だけど……」
「アンセラさん、一ついいっスか」
「何? というかアンセラでいいわよ。あたしもシラノって呼ぶから」
「ども。……じゃあアンセラ、具体的にはどうするんだ? 場当たり的に倒すのか?」
どの程度湧くか判らない敵を、ただ目標もなく倒す。倒し続ける。
それは余りにも無謀な話である。素人のシラノでも判るほどだ。
やれやれと溜め息をついたアンセラは――――おもむろに床に砂をブチ撒けた。砂だ。小瓶から取り出した砂を、木造の床に撒いている。
「……何よその目、失礼ね。乱心とかしてないわよ。地図よ、地図」
「地図?」
「そ。見なさい? ここの赤いのがあたしたちのいるこの街」
何たることか。これもまた魔術の一品。如何なる仕掛けか、床の上で砂が自動的に地図を形づくった。
撒かれた砂の中央ほどに、赤い色の砂が塊となっている。
西と東を分かつような、上下にやや伸びた五角形の城壁。城塞都市という謂れも頷ける。
「で、少し東のところに湖があるでしょ? ここが塩湖……王宮の直轄領ね。質のいい塩が取れるの」
「塩田スか」
「そ。……で、民間にも払い下げをやっている。質がいいから、当然買い手もつくわ。いわゆる高級品ね」
ほら、とアンセラの白い指が左右をなぞる。
そこから左側へと、街道らしきものが伸びていた。丁度この五角形の城塞都市の南側をすぎるような形で――そのまま西に進めば、おそらく王都などに行き着くのだろう。
「商人だって、どうせならって往路の荷車も空にしたくない。勿体ないじゃない? で、そうなったらほら……丁度いい街があるでしょ」
「それがここってことか」
「そ。今までこの街は、そうやって仕入れを行ってきた。北の山の方には鉱山もあるから、その辺りの山道を通る商人の護衛なんかもしてね」
つ……とアンセラが指を動かせば、やや北ほどにある森のその上に山脈ともいえるものが連なっている。
そこにも東西に走る道が整備されており、資源の採掘が行えているならば商人が利用するのも道理だろう。
確かに、とシラノは頷いた。北には鉱山窟。東には直轄領の塩湖。立地条件的にも城塞都市が作られるのは理にかなっている。
「……で、今は仕入れが碌にできてないってことは――」
「そう。商人があまり出歩いていない。……というのも元々この街にいた冒険者やらなんやらも戦働きに出ちゃったせいで手が足りてないのよ。おまけに、兵士崩れが野盗になってる。あちこちで死体の穢れが魔物を作ってる」
「なるほど」
防衛手の数が少ない上に、危険が増えている。そうなったら商人なんかが落ち着いて出歩けないのも無理はないだろう。
思えば冒険酒場に腕の立つ人間が少なかったのも、そういうことかと首肯する。母体数が減ってしまえば、質の高い人材というのも必然的に減る。
無理もないなと頷き――シラノには、二つほど疑問が浮かんだ。
「二つほどいいスか? どうせだったら街に居座ってるならずものを冒険者にして使えないのか、ってのと……お上の直轄領が傍にあるんだろう? なら、道中警備は上にとっても大事なんじゃないか?」
みすみすと近場にあるこの街を放置するのは、為政者にとっても損の方が大きい。常識的に考えれば放っておく理由など見当たらないのだが――。
「前に小競り合いが増えてるって言ったでしょ? 魔物も増えてるのよ、そのせいで。で……ここ見て? この塩道のもう一本下」
「道が……あるな」
「で、塩湖の近くも。村がちょっとずつあるでしょ? ……つまり、王宮にとって最低限の輸送や食料なんかは確保されてるワケ。最悪この街がなくてもやっていく分に問題はない。となると……」
「優先度が低い」
「そゆこと。……ま、本格的に村や町がどうこうされるってほど切迫してないしね」
そんなものか、とシラノは眉を寄せた。
というより思ったよりこの国は切迫しているらしい。優先度――なんてものを付けて、実際に商いに被害が出ている治安の悪化を見逃すほどには余裕がないようだ。
「……で、ならず者を冒険者にして使えないかって話は」
「……」
「少し考えてみて欲しいけど……商人とかにちょっかいかけそうなぐらいに品がなくて、おまけに別に冒険者として稼ぐ必要もない奴らがわざわざ戦ってくれると思う?」
「……なるほど」
奴らは独自に食料などを集めている。危ない橋を渡る必要はない。
おまけに街の流通が貧困なのをいいことに、あたかも権力者同然に振舞っている――ときたらそもそも協力できる筈がない。
それどころか、流通を正常に戻そうとすることへの邪魔立てすら考えられる。
思った以上に頭が痛い状況だ。アンセラが頭を悩ませて素性も知れぬシラノたちに縋ってきたのも、無理はないかと思えるほどに。
「……やっぱりこれ、夜襲でもかけた方がいいんじゃないスかね」
「そうですね、シラノ様。どうせなら二三人縊り殺して門に吊るすべきではないでしょうか。見せしめを作って怯え震えるならそれでよし、いきり立つなら口実に諸共全て滅ぼせますわ」
「……」
「何か?」
「いえ……」
そんな真剣な口調で言われたら、やりかねないと思ってしまう。というか実際にやりそう。何が恐ろしいかと言えば、彼女とその魔剣の力ならば特に苦でもなく実現できてしまうあたりだ。
セレーネ・シェフィールド……判ってはいたが、危険人物だった。
「……フローさん。この危険人物二人のお目付け、お願いね」
「任せてよ! ボクはお姉ちゃんだからね! シラノくんにおかしなことはさせないとも!」
「……なんで俺もそっち側にされてるんスかね」
「ふふ……」
セレーネから意味深な笑みを向けられる。はなはだ不本意だった。
シラノのそれは単に現代人故に知りうる歴史的事実の観点からである。ナチュラルボーン蛮族のように扱われると、流石に悲しい。
色々と訂正したくもなったが……ぐ、と伸びをしたアンセラは最後に付け加えた。
「まぁ……アイツらが何かしでかさないか、どこから食料なんかを集めているかはこっちで調べておくわ。聞いての通り人に余裕がないから、あなたたちには――」
「街道の安全確保、と」
「ええ。その為にも魔剣使いのあなたが力を貸してくれるとありがたいんだけど……」
アンセラの赤い瞳を向けられたセレーネは、意外にも困ったように吐息を漏らした。
「……先ほども申しましたが、私の一存では何とも。今の私は敗北した……つまり生殺与奪を握られた身ですので。その命の主の許可がなければ、自由に生きることなどできませんわ」
「なるほど。……どう、シラノ?」
「……そういうことなら。その、俺からも頼めますか? この街の人たち、どうにも今危ないみたいなんで」
流石にここまで乗りかかって、素知らぬ顔で素通りなどはできやしない。
そう真剣な眼差しを向けつつ――シラノの内心には懸念があった。
見るだけなら、上品で瀟洒な女性としか言いようがないセレーネ・シェフィールド。だがその人間性は向かい合ったシラノが一番知っている。表層のどんなものよりも確かな部分で、彼女は剣鬼なのだ。
笑みを浮かべていても油断してはならない。油断、できる筈もない。
「ええ、ご随意に。……しかし、仁と義によって立つ――ですか。これではまるで真の騎士の道のようですね。なるほど、それもまた一興というもの……私の剣に深みが出るでしょう」
「……信用していいんだな?」
「ええ……生殺与奪の権利を取り戻さない限り、私に自由はありませんので。剣士が剣に誓う――と言えばお分かりでしょうか、シラノ様」
セレーネは軽い微笑を浮かべた。
だが、対するシラノは眉間に皺を寄せる。
そうだ。今までだってセレーネの言葉に嘘はない。全てが本心から零されるものだ。それは彼自身認めるところであったし、そう確信している。
だが――それとは別に、より本質的な話があった。
「……俺を斬って、とも聞こえるんだけどな」
「あら。……それを言葉にするのは無粋ではありませんか、シラノ様」
「……」
「……ふふ、大丈夫です。初めて私に勝利された殿方を、そんな簡単には殺しませんわ。どうせ貴方様と斬り結ぶなら、
意味深にフローとアンセラを見詰めてから片目を閉じて、セレーネは花が綻ぶように奥ゆかしい笑みを浮かべた。だが、その瞳は修羅の瞳であった。
ごくり、と喉を鳴らす。立ち上がったシラノはフローを背に庇い、自然と息を引き絞っていた。
向かい合う分にはセレーネは信用できる。彼女は剣に正直であり、信念を持っている。
だが、身内に入れるとなるとシラノの感覚が全力で警鐘を鳴らす。――
獅子身中の虫――いや、制御不能の爆弾だ。味方としては間違いなく最上級の戦力であるが、だからこそ扱いにくい。それがいつどの機会で破裂するか読めぬ以上、単なる敵よりなお対処に困る。
ましてや、その対象が――
「……俺はいい。だけど、俺と戦う為に俺以外に剣を向けるようなら――この場で斬る」
「あら、もう再戦ですか? ……ふふ、やはり積極的なのですね。私の人生を、感じてくれますか?」
「その戯言、斬り合った後でも言えるならな……!」
駄目だ。やはり、セレーネとは剣でしか分かり合えない。
もはや戦うしかない。シラノが眦に力を込めたそのときだった。
「……そういえば自己紹介がまだだったね。ボクはフロランス。フロランス・ア・ヴィオロンだ。よろしくね! 気軽にフローって呼んでくれていいよ?」
なんと背中に庇っていたフローが脇を通り抜け、セレーネへと右手を伸ばしたのだ。
「先輩!?」
ぎょっとして顔を向けたシラノに構わず、フローはセレーネに手を差し出したままだ。
「ええ、フロー様……ですがよろしいのですか?」
「うん? ……いや裏切るとか言われたら嫌だけど、裏切るのかい?」
「いえ……それは……」
シラノは驚愕した。あの剣鬼セレーネ・シェフィールドが、気まずそうに眼を逸らした。
意表を突かれる形で真正面から邪気のない瞳を向けられると、流石のセレーネも怯むらしい。
言い淀むセレーネを前に、フローは首肯して続けた。
「うん、裏切ったら許さないからね。ボクじゃなくて……特にシラノくんが」
「丸投げスか」
「いや魔剣相手だし……まさかボクに戦えって言うのかい!? ボクに魔剣と!?」
「いや、いいスけど……」
触手使いでは魔剣使いに及ばないと言っていた当人に戦わせる。そんな極悪非道の所業がこの世に存在するのだろうか。
シラノも流石にそこまで非人道的ではない。というかそもそも非人道的になったつもりもない。
となればまぁ……やることは限られてくる訳だ。ここまでお膳立てされて断れるほど、シラノは強情でもないと言える。
「……まぁ、聞いての通りっスよ。そっちにその気があるなら、協力して貰えると嬉しい」
「はい。……ご随意に。一度失った命ですので、もう一度尽きるまではお二人の為に使いましょう」
「いや、もう一度尽きるまでとかは…………まぁいいか。そう言うなら、そう受け取るスからね」
「ええ、言葉の通りに。剣に誓って」
ひとまず、一件落着らしい。
やはりフローには敵わないな……とシラノは内心吐息を零した。口には出さなかった。
◇ ◆ ◇
「イアーッ!」
猿叫と共に繰り出された超高速の斬撃が、魔物の胴体を上下に分かつ。
だが、押し寄せるように迫る黒い影が三つ。揺らめく焔の如く、或いは立ち上る瘴気の如く――人の形から黒い獣人さながらに変貌しつつある、人魂めいて蒼く揺らめく牙と爪を持つ異形。
構わず地を蹴った。片手には極紫色の触手刀。向かい合うは黒色の魔物。横薙ぎに払われる爪を前に踏みとどまり、一息で退くと同時に切り上げてその腕を削ぐ。
そのまま踵を踏み込んだ。腹への前蹴り。蹴りつけた反動で距離を取りつつ、常に三体を視界に収める位置に取る。
庇うように一体。そして、横合いからシラノ目掛けて飛び掛かる一体。――丁度良い。
「イアーッ!」
――白神一刀流・零ノ太刀“
切断面を操作し角度を変えた飛来する二つの突きが、重なった怪物二体の頭部と腹部に突き立ち絶命させる。
無論、シラノは待たず。跳び来た怪物の胸部を迎え撃ち、胴体への直突。柄越しに感じる衝撃と体重に踏みとどまり、
「イアーッ!」
刀身から生ずる無数の棘が、怪物を内部から爆発四散させた。
三ノ太刀“
ひゅば、と血を振って触手を光へと返す。初めて見る魔物ながら、威圧感は魔剣使いと比ぶるべくもない。そんな意味では、冷静に対応できていた方だろう。
「御見事ですわ、シラノ様。……ですが複数を相手に斬り結ぶならば、常にどれか一体を押し込むのがよろしいかと。相手の群れを一つの塊とみて、その突出した角を削るように――ですわ」
「……うす」
見れば、セレーネの歩いてきた向こうには数十体の魔物の死骸が。やはり魔剣使いというのは別格らしい。
アンセラが挙げたいくつかの地点。そこを遊撃するように二人は切り裂き動いていた。
なお、フローはお留守番である。実際のところ彼女はシラノとセレーネの治療を行い、セレーネが万が一暴れた際に対処できるように常に気を張っていたのだ。今はシラノのベッドに潜り込んで寝ている。
セレーネと二人で仕事――そのことにシラノとて警戒はあったが、案ずるほどのことは何も起こらなかった。それどころか適宜助言を繰り返し、シラノに足らぬ実戦での剣術を補う気配もある。
冴える銀髪を抑えて月を見上げていると、やはりその人となりが分からなくなる。
少なくとも魔剣を得る前から、ひとかどの剣客であった……ということぐらいか。
「何か?」
「いや……これでよかったのか、と思って。『他人の為に人を斬る趣味はない』……じゃなかったか?」
「ええ。……まぁ、
「……」
やはりよく分からない理論ながら、その本質は善人寄りだ。……それ以上にどうしようもない剣客なのだが、それ以外はおよそ害のある人格をしてはいない。
「……」
迂闊なことは言えず、シラノは押し黙った。
セレーネの面倒な部分は、本心しか口にしない――有言実行ということだ。逆に言えば、言ってしまった以上は是非ともやるべきだと考えているところがある。言ったというか、誓ったというか。
故に、おいそれと言葉にもできない。不用意な文句を零してしまってそれが彼女の琴線や信条に触れたなら、彼女は是非もなしと即断しかねないのだ。
言わぬが華の急先鋒のような剣客を前に逡巡し、また歩き出す。ひとまずは群れのようなものを駆除しており、日はとうに沈んだ。これ以上の深追いは禁物。あとは宿まで帰るだけ……だ。
「……私の方から一つ聞きたいのですが」
「え?」
「いえ……シラノ様もフロー様も、気にはされませんか? 眼帯でも隠し切れない醜い傷……父には、二度と見れない顔になったと言われたもので」
振り返ったセレーネは、少しばかり伏し目がちであった。
これもまた、シラノには意外であった。彼女はとにかく後悔なく、その場で最も心地よい道を選ぶ人間に思われたのだ。
「……まず、先輩は多分気にしない。というか確か……美人って言ってたな」
「あら。……ふふ、光栄ですわ」
「俺は――」
隻眼。隻眼と言われて果たして何が思い浮かぶか。
まず、言わずと知れた柳生三厳――またの名を柳生十兵衛。かの柳生十兵衛だ。格好いい。実際は柳生庄内に引き篭もっていたらしいが、それでも当代随一の剣客である。
心が惹かれる。すごい。十兵衛格好いいよ十兵衛。十兵衛が嫌いな男の子はいない。いたら斬る。
かの武田信玄の信頼も厚い足軽大将、山本勘助入道道鬼こと山本勘助。
その巧みな軍略により総崩れ状態の武田軍を建て直し、攻める村上軍を散々に打ち破ったのは音に聞こえたものである。
そして忘れてはならない歴史に名高い隻眼の人物と言えば、共和制ローマを苦しめたカルタゴの雷光。ヌミディア騎兵を用いてかの有名な包囲殲滅戦を行った――ハンニバル・バルカだ。
ハンニバルの名前を知らない奴がこの地上にいるだろうか。
いたとしたら石器時代からきた原人である。元の世界に帰りなさい。土に埋めてやる。シラノは真剣に思っている。
そして三国志の魏に名高き夏侯元譲。わかり易く言うなら夏侯惇だ。
かの曹操の副将。しかも曹操が配下として扱わぬように魏の官位を送ろうとしなかったというのだからもう素晴らしい。男ならかくありたいものである。
矢に射抜かれた片目をくれてはやらんと食べたのは事実ではなく逸話と聞くが、そんな逸話が持ち上がるぐらいに勇猛であった証明ではないだろうか。
剣客に話を戻せば丹下左膳。実在はしない隻腕隻眼の剣士あるが、口に鞘を咥えて刀を引き抜くのは実に趣深い。
……と、
「……まぁ、気にするほどでもねえんじゃないスかね」
危うくあちらの世界に引き込まれそうになった気恥ずかしさを誤魔化すように、シラノはそう言った。
まぁ、実際のところ本人がどう思うかはさておき――周りというのは、その人ほどに気には留めないものだ。気に病むのは当人ばかりという話は、古今東西ありふれている。
いや――と首を振った。周りがあたりさわりのない反応をするから、当人も気に病むのかもしれない。
「いや……なんていうかまぁ、その……俺は……格好いいと思いますよ、隻眼」
「格好いい……ですか?」
「片目を失うぐらいに戦って……それでもまだ剣に向き合うのは、素直にすげえかなって」
それだけ、剣に真摯だということだ。
彼女は確かにどこかの線が歪んでいる剣鬼であるが、剣の道への誠実さと真摯さについては議論の必要もない。その一点については、素直にシラノも見習いたいものである。
……まぁ、そう考えるならば。一行に加わったのも悪くはないと言えた。何かに本気で取り組める相手というのは、十二分に尊敬に値するのだ。
「ふふ……そうおだてられるのも、悪い気はしませんわ。存外にも、女性の扱いを心得ているのですね」
「いや……」
「ええ……そうも褒められては、想ってくださった分だけ貴方様を好ましいと思うのも仕方ありませんわ。となればやはりここは、斬り合うしかないかと」
「そのりくつはおかしい」
裏切るなって言われたばかりだろうが。
「斬り合うのに貴方以外の方に剣を向けることは致しませんわ。……でもほら、こうまで情熱的に求められてしまったら……ふふ。ええ、実に光栄で――もっと貴方様を知りたくなって」
「何言ってんスかね。いや、何言ってんスかね」
「分かり合うなら……やはり、真剣での立会が最も望ましいかと――」
言い終わるより先に、シラノは走って逃げた。
幸運なことに背後から飛ぶ斬撃は襲ってこなかったが、逃げた。ひたすらに逃げた。全力で逃げた。両手と両足をちぎれんばかりに動かして逃げた。
やはりこの女は狂人である。シラノは確信した。
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