第5話 触手剣豪シラノ(中)
始まりには七本の魔剣があったと、賢者は云った。
――――昏き幽谷深山の奥に眠る〈
――――白雪深き湖底に横たわる〈
――――鉱山窟の奥床に埋もれた〈
――――天に程近き山嶺に刺さる〈
――――水底の石柱都市に沈んだ〈
――――地下の墓標に封じられた〈
――――そして、言うも憚られる〈
それらが今の〈表の世界〉の元になった、と賢者は語る。
あらゆる剣は七本の魔剣を模して作られ、今や全土で共有される統一魔術は七本の魔剣を紐解いて作られたのだと。
そう。
始まりの七本。剣というのが、この世界の夜明けを告げた。
であるが故に、この世界において魔剣や――或いは剣士や剣術という言葉そのものが大きな意味合いを持つ。
“魔剣使い”――。
その二つ名は、決して伊達や酔狂であってのものではないのだ。
「魔剣……」
呟いたシラノの口腔は乾いていた。唇は痺れ、手足は己のものでないように冷えていく。
たった今目の前で巻き起こされた現象に、感じたのは紛れもない焦燥だった。
ちゃぶ台返しなどという次元ではない。
あれこそが魔剣。世の条理を覆す魔なるものなどではなく、世の条理の礎そのものとなった超常なる剣。
後世に作られた
飛来した丸太を触れただけで端切れ以下に分解したのである。
そんな尋常でない光景を見せられて、如何な文句をつけられようか。
己は触手使いの半端もの。
対するは魔剣。世の摂理。その根幹。
びゅう、と風が哭いた。三十歩の向こうには、蒼き燐光を放つ魔剣使いが立つ。
肌が粟立っていた。気温が数段落ちたという錯覚すら抱き始める。
「シラノさん……笑っているの?」
「……笑ってる? 俺が?」
エルマリカの言葉に震えた手をやれば、頬はいびつに歪んで吊り上がっていた。
立ち向かう為に、怯えぬ為に歯を食い縛りながら無理に息を吐こうとすればこうもなろうか。確かに、笑いには見えなくはない。
笑えない状況だ。だが、どうやら己自身はまだ諦めていないらしい。
歯を食い縛っているというなら、少なくともシラノ・ア・ローにはまだ抗う気があるという事だ。
――――百神一刀流・一ノ太刀“
――――百神一刀流・二ノ太刀“
――――百神一刀流・三ノ太刀“
――――百神一刀流・四ノ太刀“
切れる札は欠けたる四つ。
対するは頂点たる一つ。
「……やるしかないってときは、退くべきときじゃない。ああ……そうだな」
退くなと己に言い聞かせて、シラノは強張った息を肺から引き摺りだした。
エルマリカは逃さねばなるまい。
フローの
ならばいざ、今は恐れに屈するべきときではない。
泣こうが喚こうが助けは来ない。それは前世の死から変わらない。ならば――――立ち向かうのだ。それしかない。
拳を固く握り締めた。
「イアーッ!」
叫んだ。即ちは、戦の合図だった。
◇ ◆ ◇
三十歩。つまりは三秒。心臓の拍子にするなら幾ばくになろうか。
――長すぎる。あまりに長い。
戦闘挙動においては、三秒などは停止と同じだ。一流の剣人なら、幾十度相手を屠る機会となろう。それほどまでに致命的な間だ。
「イアーッ!」
叫びと共に虹色の召喚陣を抉じ開けた触手が眼帯の男を目指すが、対する男に焦りはない。
対処は容易だと、男は剣を下段に下ろしたまま、重圧など無きようにゆるりと立ち尽くす。
だが、それは油断に非ず。
魔剣使いに構えは要らず。魔剣使いが構えを取るのではない。魔剣が、
地擦りの構え――片手で行う変則的な脇構えであり、即ち男にとって必殺の型であった。
しかし、男は瞠目する。
突如、迫る触手の先端が半ばから切り離された。そのまま空気抵抗に飲まれる先端を、断面を見せる触手が追い越した――――瞬間、
「イアーッ!」
シラノの
これこそが――――百神一刀流・二ノ太刀“
刀で糸を断つかの如く触手を自切し、そして触手そのものを触媒に更なる触手を召喚する――たとえ射程距離外であっても――術であった。
本来なら力を込めて踏ん張った相手に使う崩しの技。だがシラノは、これを攻撃に転じた。
既に一定の速度を持つ物体からの更なる射出である。必然、その速度は加算される。
男の目測とは違う。
倍近い加速を経た触手の先端は、握った剣を振りかぶる余地すら与えず男目掛けて叩き込まれた。
「な――――!?」
叩き込まれた。シラノにはそう見えた。虚を突いた。シラノはそう思った。
――――しかし、淡い勝利の感触は触手ごと十七に分割された。
俄かな期待を一瞬で冷ますほどに強烈な、耳鳴りに近い高音域で響き渡る大気の悲鳴。
腐葉土に触れた剣先から
無残に宙を舞う無数の断片は、ただの一つも眼帯の男に届かない。全てが死に体。全てが
魔剣の斬撃。風の魔刃――
「っ……イアーッ!」
だが、構わぬ。
シラノの猿叫と共に、切り刻まれて宙に舞う触手の断面が虹色に光り、そして紫電が男を責め立てる。
液体の代わりに召喚陣より電撃を放つ。
即ち――名付けて百神一刀流・三ノ太刀“
「イアーッ!」
そして、待たぬ。
途中で切り離した触手の先端にも、慣性は残る。つまり男に目掛けて飛翔している。
その表面に、数多の尖棘を発現させた。
突起を作れるというならば、それをどこまでも研ぎ澄ませばいい。鋭く長く、一つの武器にすればいい。
飛来する剣山めいた触手――丸めた触手球。
これこそが本命。即ち、百神一刀流・四ノ太刀――“
動きは止めた。
万全は期した。
二の太刀は不要。この一連の初撃にて屠る。
三段構えの必殺――これが今のシラノに持てる、最大限の触手の妙技であった。
如何な魔法の胸当てといえど、電撃までは防ぎ切れぬ。それは実証済みだ。
なればこそ、動きを止めるここがまたとない最高の好機。
「イアーッ!」
棘をその身に蓄えた触手玉の、その切断面からも更に触手を放つ。
抑えるべきは男の四肢――内二つ。狙うは剣を持つ右手と右足。
かつてこの地にあったされる、死刑囚の身体の落ち方でその共犯の生死を
この地でシラノがまず初めに味わった百神一刀流の拘束術である。
紫色の触手鞭が男の右手に絡みついた。あとそのまま棘付き鉄球めいた触手球を引き寄せ、その頭部に叩き込むのみ。
二度と機会はない。この一合が、互いにとっての必至である。
落下しながらも放電を止めぬ触手の破片に、男は為すすべもなく動けない。
そして魔剣を握る右手は抑え込んでいる。
残るは一撃。あと数瞬。その僅かな間に勝利が決まる。決まる、というのに――
「ハッ」
男の嘲笑う声が、聞こえた気がした。
そして、シラノは
さながら触手めいて、剣の鍔から空中へと延びる何本もの蒼い魔力線。そんな幾条もの線状の魔力が弧を描いて回り始めた。
教えてやろう――そう、魔剣が告げた気がした。
それは、極小の竜巻だった。それは、局地的な台風だった。
それは、万物を噛み砕く風神の牙だった。
高密度に凝縮された風の魔力刃が回転し、空間に渦を巻いて疾走する。巻き込まれた触手が微塵に切り刻まれ、そして内から嵐を吐き出すように爆発四散した。
シラノの一撃は必殺の筈だった。
――何が必殺だ。これこそを必殺と云うのだと魔剣が嘲笑する。
シラノの攻撃は万全の筈だった。
――何が攻撃だ。これこそを攻撃と呼ぶのだと魔剣が失笑する。
シラノの策は、術は、技は、その全ては――――
魔剣に型は必要なし。魔剣そのものが万物の師範となる型である。
その通りに魔剣は目の前に現れた触手というちっぽけな障害を噛み砕くと、世界目掛けて濃縮した風の魔力を解き放った。
◇ ◆ ◇
げほ、とシラノは息を吐いた。
僅かな間だが、気を失っていたようだ。
身体を大木に打ち付けていたらしい。骨をどこか痛めたのか、体を捻ると突き上げるような痛みを覚える。
目の前に広がるのは、暴風が暴れまわった後だった。
老木は砕け、裸木は折れ、常緑樹はその葉を散らしている。まるで爆弾が炸裂したか、それとも巨人の操る重機が辺りを踏みにじったかの如くに森林が荒地と化している。
空が見える。曇天の空だ。
今にも雪が降りそうな灰色の雲が目一杯に見えるほど、周囲の木々という木々は薙ぎ倒されていた。
「痛てえ……ッ」
相手のカラクリは分かった。
あの青白い光線は漏れ出た風の魔力の光であり、そしてそのまま凝縮した風の魔刃だ。
魔剣の能力は一つ。
触れることで魔力を通し、そこに風を籠める。そして――――解き放つ。
物体に当てればその内部に風を封じ込め刃として噴出させ、宙で解き放てばそれがそのまま嵐となる。
事実上、防御無効であり絶対破壊。
恐るべき相手だ。
あれこそが魔剣――フローが及ばないと語るのも頷ける。
エルマリカがシラノの顔を笑っていると言ったあの時――彼女の眼が回復したと判断して離脱を申し付けていなかったら、今頃どうなっていたことだろうか。
そのことが恐ろしく、そして最も胸を撫で下ろす思いだった。
彼女の小さな体では、棒に嬲られるウサギのように凄惨なことになったに違いない。
「……そうだ。エルマリカ……!」
彼女は無事に逃げ出せただろうか。
そう、体を起こそうとしたその時だった。
「おはよう、“魔羅もどき”くーん?」
背中を蹴られた。胸から倒れ、頬が土につく。どこか甘ったるい腐葉土の匂いがした。
「お前は……!」
「おいおい、忘れてくれんなよ。寝ぼけちまったか? お前がどうしてそうなってるんだと思う? 誰がこんな偉業を行えたと思う? お前は誰に喧嘩を売ったと思ってるんだ?」
身を起そうとした背中を踏みつけられる。
眼帯の男。蒼い魔剣を肩に担ぐその男が、シラノを見下しながら嘲笑いを浮かべていた。
「判ったか? 触手使い風情じゃ、本物の剣士には叶わないんだよ。思い上がってるんじゃねえ」
「お前、この……ッ!」
「てめえら触手使いなんざ、隅っこで肩を竦めて申し訳なさそうに這い蹲って生きてりゃいいんだよ」
判れよ、と背中に乗せられた足裏の圧が高まる。
わき腹が痛んだ。押し込まれる靴裏につられて、皮膚の下の異物感が存在感を増す。そこに痛みの心臓ができたかのように、鼓動に合わせて押し寄せてくる。
首筋に脂汗が浮かぶ。きっと折れている――どこか冷静な頭で、そう思った。
「お前らは大人しく女にでも媚び売って生きてりゃいいんだ。たらし込んでりゃいいんだよ。身の程を判ったか?」
「う、が、ぐ……ッ!」
「おいおい、返事しろよ返事。首とか落とししゃうよ? 首とか」
ゾ、と首筋の毛が逆立った。
顔の横の地面。そこが、蒼白に発光している。蒼い線が、喉元目掛けてじわりじわりと進んでくる。
そこで、シラノはようやく思い出した。
今まで意識から追い出していたもの。死。それが、自分に迫っている。今、自分は死地にいるのだ。
――
「お、いい顔だなぁ……俺様はよぉ、男でも女でもその顔を見るのが大好きでなぁ……! そういう顔をされるとそいつが好きになっちまって、つい許してやりたくなっちまう」
「何を……!」
「聞けよ。……許してやらねえことはねえって言ってるんだ。素直に謝れば、お前を仲間にしてやらなくもねえ。触手使いってのは便利だからな」
便利――――愉悦が滲んだ男の顔に、シラノはフローの言葉を思い出した。
触手は本来、女を誑かす為のものだ。
シラノにはできないが、男はその事実を知らない。男にとってシラノは、喧嘩を売ってきただけの触手使い。直接戦闘には向かず女を貶めるだけの存在。
つまり、手下としてその権能を使えと……そう言っているのだ。
「ほら、言いな。三つ数えるだけ待ってやる。言うんだよ……『ごめんなさい』『生まれてきてごめんなさい』『調子に乗ってごめんなさい』って」
「ふざけ……」
「ああ、おい……話は最後まで聞きな。そうすりゃ俺たちは友達さ? お前は見所がある……仲間にしてやるよ。な?」
ずず、と蒼刃が伸びた。喉元近くに突き付けられる。
見るなと思っても、光る魔力の線を見てしまう。青白いそれは、着実とシラノの首まで近近付いてくる。
これが首の下を通ってしまったなら。
そして、籠められた魔力に地面が耐えられなくなったなら。
男が、我慢の限界に至って魔力を開放してしまったなら。その時は――――。
「言わなきゃどうなるか、判るな?」
男の言葉に、心臓がドクンと跳ねた。
呼吸が酷く荒い。鼻息がうるさい。
胸が苦しい。気を抜けば歯を食い縛れなくなるぐらい吐息が持ち上がってきて、それは吐き気を伴うほどだった。
「言えば……許して、貰えるのか……?」
「ああ。許してやるよ。三つ数えるだけ答える時間をやる……『触手使いに生まれてきてごめんなさい』『調子に乗ってごめんなさい』ってな」
「……」
言えば。言いさえすれば、解放されるのだ。
本心からでなくてもいい。とりあえず、ここは口にすればいいのだ。この場だけ凌げばいい。男の言ったことに、仕方ないと従っただけだ。
誰だって死にたくない。
ここまでは上手くやったんだ。ここまでは頑張った。だったら、これぐらいの嘘は仕方がない。
そうだ。どんな形だって、生き延びさえすればいい。
一度死ぬことになって、二度目も死ぬ必要なんて――――。
「ひと――」
男が声を発するのに合わせて、
「イアーッ!」
シラノも負けじと大声を張り上げていた。
射程距離五メートル――この圏内において、シラノの触手は自在に発現する。
三ノ太刀“
そして、電流に震えた男の足から胴を回しながら逃れた。
不格好にむせながらも、距離を取ることに成功する。
「てめえ、何のつもりだ……!」
腕に巻き付いた触手を切り刻んだ男の顔に残忍な怒りが浮かぶ。
その気になればシラノなど容易く屠れるというその自信。それを踏み躙られたが故の憤怒だ。
男が考えている通り、シラノは――触手使いは魔剣には敵わない。容易く屠れる存在だ。
それは分かっている。だから、身体は死にたくないと震えていた。
「……聞いたよ、触手使いは呪われた血だってな。師匠もそう言ってた……こっちのおふくろも、まぁ、口にはしないけどそう思ってた。今となっては聞けもしないが、きっとそう思ってたんだろうな……」
「……わかってるじゃねえか。で、これはなんだ? てめえ、イカれたのか?」
「……」
鳴りそうになる奥歯を無理やり食い縛って息を吐く。
そして、シラノは言った。
「嫌われ者で、日陰者で、できることと言ったら女への嫌がらせだけだ……そう言われたし、それは事実だ。この世界の俺は、そういうどうしようもない血筋なんだ」
「そうだなぁ……それでてめえは何のつもりだ? いったい何をトチ狂――――」
「――――ただし、幸せを諦めろとは言われてないし……生まれてきたことを謝りながら暮らせとも、俺は一度だって言われちゃいない……! あの人たちは、あの人たち自身が“そうされるべきだ存在だ”とは一言も言ってねえ……!」
触手使いに生まれてきてごめんなさいなどと、彼女たちはそんな言葉を口にしなかった。
決して、それがふさわしい生き方などと言葉にすることはなかった。
そうだ。一度とて、そんなことは声にしてはいなかった。
ならば――。
触手使いとして後身のシラノが、触手使いとして半端なシラノが、触手使いのことを良く知ってもいないシラノが、生来の触手使いの彼女たちの想いを踏みにじるその言葉を口にすることだけは決して行ってはならないのだ。
「それなのにお前は侮辱したな……俺と、何よりも俺のおふくろと、そして俺の先輩を侮辱した。あの人たちに『幸福は相応しくない』とお前は言った……」
「あん? だからどうしたってんだ、魔羅もどき風情が!」
「どうした……だと?」
そう問われたなら、
「――抜けよ。どっちが速いか勝負しようぜ」
シラノに言えることは、その一つだった。
肺の底から空気を吐き出して、息を止める。そのまま待って、呼吸を始める。
こうすれば多少は落ち着く。触手使いとしての自分が敗れてしまったという事も、多少の冷静さで受け止められる。
「は、てめえみたいな下賤なカスが勝てると思ってるのか? お前ら愚図の触手使いが、俺に……この魔剣に勝てると本気で思ってるのか?」
男の言葉通りだ。触手使いじゃ剣士には敵わない。
それは今しがた身に染みるほど味わった。
触手使いとして戦えばシラノは死ぬ。――死にたくないと、心の声は叫んでいる。
だが、
「触手使いじゃ勝てない……か」
「あ?」
僅かに空中に呼び出した触手に手をかけ、シラノはそう息を絞り出した。
触手使いでは魔剣使いに勝てない。触手使いとしてのシラノ・ア・ローは死ぬしかない。
ならば、選ぶ未来はただ一つだった。
「……なら、だったら触手使いをやめればいい」
決断的に言い放ち、シラノは触手を強く握り締めた。
彼女たちのような無辜の人々に対する魂の侮辱には、相応の対価を支払って貰わねばならない。
蔑み、奪い、踏みにじる“理”を否定せねばならない。
一度“死”により“生”を奪われた己こそは――“奪われること”を知る己だけは、それを許してはならない。
(――――斬らなきゃいけねえ。誰でもねえ俺が、一度死んだ俺が、だからこそ“奪われること”を良く知ってる俺が――――斬らなきゃならねえ)
――――魔剣、断つべし。
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