第6話 触手剣豪シラノ(後)


 三歩を挟んで二つの影が立つ。

 半身に構えた眼帯の男は両手を柄にやって地擦りに構え、対するシラノは右を一歩踏み出し触手を握った。

 身体に隠れ、魔剣の刀身は見えない。

 しかしここは死線である――一息の内に男が踏み込めば、シラノは容易く両断されよう。


 頬を冷や汗が伝う。ひょう、と風が哭く。土埃が舞う。


「……」


 一瞬にも永劫にも感じる土煙の中でここ数日の日々を想起し――やがて土煙が失せるとそれも消える。

 間違っていた、とシラノは思った。間違えていたのだ、自分は。

 そのことに気付かなかった。だからこうして、死線に身を晒すことになっている。

 これは間違えのツケだ。間違えは、その身で正されなければならない。その血で贖わなければならない。死なねばならない。

 即ちは、これが死地。


 如何に意気を込めようと、手は震える。頬が冷える。胸元が痺れ、舌が乾いてくる。

 こうして向き合っていると、気を抜けば逃げ出したくなる衝動に晒されるのだ。腰が引けようとする。死にたくないと本能が叫ぶ。

 理性は限界だと告げた。感情は逃避を薦めた。記憶は走馬灯を与え、思考は纏まりを失った。死にたくないと心情は怯えた。

 死にたくない――――


 喉がごくりと鳴った。

 向き合うのは剣士。立ちはだかるは魔剣。相手立つのは悪党。

 勝てる筈がないと理屈が聞こえた。逃げた方がいいと反論を覚えた。死にたくないと悲嘆を感じた。

 死にたくない――――。死ぬのだ。これで終わりだ。終わりにしろ。


 鼻息がうるさい。

 高校生の白野孝介も。触手使いのシラノ・ア・ローも。

 。ここが自分の最期である。

 一度は死んだのだ。何故、二度目を恐れる必要がある。

 もう一度死ね。死んで、生まれ直せ。生まれ変われ。

 即ちここが死地である。


 走馬灯は不要。昨日までどう生きたかに答えはない。

 恐怖感も不要。明日からどう生きられたかに答えはない。

 即ちは死地。ここにこそ答えはある。


 理性の言葉は必要ない。感情の音も必要ない。本能の声も必要ない。

 必要なものは意思だけだ。――――

 意思とは即ち一刀。一刀こそが意思。

 その極地にこそ死があり、生があり、答えがある。


 いざや死地。

 触手使いのシラノ・ア・ローは、これにて死して幕切れとなろう。


 顎先を汗が流れ、落ち葉の上へと零れ落ちる。

 意識したのはどちらだったか。互いに、同時だったのか。

 そして果たして、ここに血戦の幕が上がった。



 眼帯の男が有する魔剣の銘は〈風鬼の猟剣モルドデュール〉。数多の業物を輩したとされるカインザック窟のドワーフが作り出した最高傑作。唯一無二の魔剣である。

 罠に嵌めて前の使い手から奪ってからというもの、これは男の手に馴染んだ。己の手足の一部どころか、肉体のどこよりも適切に男と結びついた。

 その意だけで魔刃を伸ばし、籠めた魔力を風として噴出させる。刃が当たりさえすれば、この世に断てぬものはなし――その称賛に偽りなき大業物であった。


 その、蒼光を帯びた刀身から蒼白の魔力線が伸びる。蜘蛛の巣めいた光の線が、刃の先端に触れた地面で網を作る。

 そして、切っ先が弾けた。

 地から天へと振り上げられる刃。弧を描く蒼銀の閃き。これこそがまさに必殺の型。地摺りからの逆唐竹割りである。

 集中して噴射する暴風が剣を極限まで加速させ、同時に切っ先痕から敵対者の足元まで伸びる蒼き光は一撃が致死級――まずはその股ぐらから身体を縦に両断し、魔風に斬られた肉体が息を引き取るより先に次いだ魔剣が更に分かつ。

 計、四つ。そんな肉片となり、相手は無残に死するのみである。


 その、絶対の構え。

 シラノ目掛けて疾走する魔力の航跡から吹き出した高圧の風は、攻め込まんとするその気概を削ぐ。

 如何な触手の技も射線に入った時点で死に体。これこそ即ち、魔剣の放つ必殺の一閃。

 男は勝利を確信する。

 否、確信するまでもない。魔剣が勝つのは世の道理。天の自明。

 たかが触手風情。たかが触手使い風情。この技を見せるのも上等すぎるほどの下賤の敵。せめて一太刀、魔剣の真の刀法を目の当たりにして散ることを名誉と知れ。


 絶死を与える風の魔剣、その真なる魔戯の先端がついにシラノの足を捉えかかる。

 同時、既に打ち放たれし斬撃――光を弾く一閃は、如何なる防御も縦に切り裂く。

 風の狼牙に捉えられたシラノ・ア・ローは死ぬ。

 いや、事実として死ぬのだ。触手使いのシラノは、なすすべもなくここで死ぬ。

 故に、


「イィィィィィィアァァァァァァァ――――――――ッ!」


 轟、と。

 断たれた。真っ二つに断たれた。遅れて音が響いた。

 猛き風と、蒼き断片が砕け散り宙を舞う。蒼白の破片が曇天に咲く。

 触手使いのシラノ・ア・ローは死んだ。触手使いは、なすすべもなくここで終わった。

 だからこそ、超えたのである。シラノの放った超音速の一閃は己の死線を断ち、そして己の死地を割った。

 触手使いでは敵わなかった。故に、シラノはその称号を差し出した。

 そして得たのは、ただ一つの技。


「――――触手、抜刀」


 シラノの言葉に合わせて、振り上げたその手から紫色の触手刃が淡い燐光として消える。

 繰り出す魔剣ごと胸当てを断たれた男が、ずしゃりと倒れ込んだ。



 ◇ ◆ ◇



 今にも雪が降ろうかという濁った曇り空の下、胸から血を流し眼帯の男が喘ぐ。

 致命傷には至らなかった。実際のところ、男とその魔剣が放った牽制としての風の牙はシラノの攻撃の勢いを殺していたのだ。

 いや、この場合は……そもそもシラノに殺す気がなかったというのが正解だろう。


「て、てめえ……何を、何をしやがった…………!」


 半ばから叩き斬られた〈風鬼の猟剣モルドデュール〉の柄を片手に、完全に狼狽を隠せぬまま眼帯の男が叫ぶ。

 対するシラノは血まみれで、肩で喘ぐ。

 折れた背中側の肋骨を庇うように息を絞り出し、言った。


「『水鉄砲は穴が小さいほどよく飛ぶ』……前にそう聞いたことがある。触手も同じだ。太くすれば鈍く、細くすれば速くなる……だったら、より薄く鋭い刃を作ればいい」


 シラノが思うに、触手というのは固体と液体の両面の性質を持っているものだ。

 少なくとも触手召喚の発現に際しての速度の変化など、流体の法則と似通っている。

 フローは言った。直径を倍にしたなら速度は四分の一に――直径が倍なら面積は四倍になるから。直径が三倍なら速度は九分の一へ――直径が三倍なら面積は九倍になるから。

 前世で教わった覚えがあった。流体力学――断面積と流体の速度は反比例の関係にある。つまり、

 ならば、ペットボトル大――腕ほどの太さの触手を、刃と同じ薄さで召喚したらどうなるか。


「『薄くすると動かせなくなる』……思えば、俺は間違えてた。触手は触手として使ってはならない……そう思ってるのに不完全だった。触手である事に拘ってたんだ」


 ――

 そんな単純なことに気付いていないと言ったが、それでもまだシラノは囚われていたのだ。

 触手を触手と思ってはならない。動かせるものだと思うことが――己の意思の下に動かそうとすることが間違いなのだ。


 触手を動かす必要などない。

 これは、思った通りにありとあらゆる形で作り出せる物体――そう思う事が正しかった。

 細くなると素早いが、操作が利かなくなる。

 それはなんら欠点足り得ない。操作の必要などなかった。そのまま攻撃に使用すればいいだけであったのだ。


「……刃でよかったんだ。初めから、剣を志しておけばよかった。操る必要なんてない……厚みが違う触手は弧を描く……刃としてように作ればいいだけだ」


 片方のオールの力が強いボートは自然と曲がり始める。

 そのように、左右で不均衡な力というのは回転という運動の形に向かう。

 ならば、刃の片側により勢いをつけてやればどうなるか――。

 一方は峰。一方は刃。厚みにより召喚の速度が変わる触手は、必然と弧を描く動きとなる。つまり、日本刀の如き刃を作ることそのものが、強烈な弧の斬撃を生むのである。

 それが、触手抜刀であった。

 触手を操る触手使いであることを捨てた。触手使いとしてのシラノは死ぬ必要があった。

 触手をただ剣として使う、それが故の触手抜刀。

 これこそが――――シラノの為せる最速最強の一閃だ。


「は、触手剣士ってか? ……触手使いが、剣士気取りなんてな……!」


 嘲り笑いを吐き捨てる男の言葉も、もはや何の気にもならない。

 既に証明は済んだのだ。

 己は、シラノは、触手は――――魔剣に通用する。魔剣を断てる。


「いいや……俺は触手剣豪だ。この力は剣士を超えた。この力で剣士を超える」


 この世の、この竜の大地ドラカガルドの条理たる魔剣。

 それを切り崩せば、これまで触手使いに与えられた悪印象を少しは緩和できようか。

 ……生まれてこの方こちらの母にはなんの恩も返せなかった。彼女は母として受けられる平凡な感動すら得られなかった。それは、転生者たるシラノが奪ったのだ。

 触手使いの名誉を挽回すれば、少しは彼女への手向けになるだろうか。

 そして、あのフローの嘆きのように――。

 ただ触手使いに生まれついたというだけで……たったそれだけのことで……万人の望むごく当たり前の生活が、そんな幸福が手に入らないと言うなら――。


「俺の為にも、何よりも俺以外の全ての触手使いの為にも……二度と触手使いを不名誉な呪われた血なんて呼ばせねえ」


 砕け散った男の魔剣を見る。

 ひとかどの魔剣だ。大した魔剣だった。だが、触手は負けてはいない。

 勝てる。勝てるのだ。

 今日シラノが成したのは、その第一歩だった。


「“呪われた”と……お前のように触手使いを見下す全てを、俺はこの剣で斬り伏せる。――俺が触手剣豪だ」


 我が二つ名は触手使いに非じ。

 剣士を超える触手の剣士――即ち、触手剣豪である。




(……にしても痛ぇ。随分と……やられたな……)


 額から垂れてきた血を左手で拭う。そんな傷に気付かぬほど全身が痛む。特に右腕は酷いざまだ。

 刃の断面積は、通常の触手の断面積の数十分の一以下だ。断面積に反比例して速度が増す以上、必然的にその斬撃速度は音速を超える。

 それを握っていたなら、どうなるかという話だ。マッハ斬撃は伊達ではない。

 手から抜けぬ飛ばぬように触手に鋭い突起を設けて突き刺し骨に絡ませたが、よく腕ごと肩から千切れ飛ばなかったと思う。

 それほどまでに鮮烈な攻撃だった。自爆技に等しい有様には、改善の余地がある。


「……おかげで勉強になった。そこだけはまぁ、感謝しておく」


 打ち身に切り傷、抉り傷に脱臼……おまけに骨折や筋断裂。

 随分と傷を負ってしまったが……授業料だと思えば、まぁ我慢はできる。

 いや……。


『てめえら触手使いなんざ、隅っこで肩を竦めて申し訳なさそうに這い蹲って生きてりゃいいんだよ』


『ボクだって本当はね、こんな力なんて欲しくはなかった……こんな技なんて覚えたくなかった……ボクだって人並みに友達とか欲しかったし、幸せにお嫁さんとかになりたかった……』


 ……ああ、やることが残っていた。



 ◇ ◆ ◇



「おいなんだてめえ……おい、なんのつもり――――あっ! やめっ、やめなさい! 違う! やめっ、やめてください!

 あっ駄目、駄目よ! 寒ぅい! 駄目、駄目ですよそれは!

 あっ、許してっ! 寒ぅい! あっダメっ、ダメです、ダメなのぉ――ぐわぁぁーッ!? ぐわぁぁーッ!? ぐわぁぁーッ!?」


 うるさいので後頭部に触手をお見舞いした。三回やったところで完全に黙った。

 それでもやはり腹が立ったので男の下半身を剥き出しにして逆さに吊るすことにした。その下にはやはり下半身剥き出しの仲間を並べて寝かせる。

 そのまま落ちれば、見事仲間の股間に『こんにちは』だ。仲間同士仲良く傷を舐め合うといい。

 違うものを舐めることになるかは知らない。“身卜シンボク”のその通り、運命というのを占って貰おうか。


 ……ともあれ、これで始末というのは済んだ。無法者の悲鳴を背景に、明日は爽やかな目覚めが期待できそうだ。

 歩き出したシラノは拳を握る。


「……あァ、そうだな。触手剣豪に、俺はなるんだ」


 色々あったが、この世界での目標は決まった。生き方は定まった。あとはその通り、進めるだけその先を目指すのみだ。

 シラノの心を爽やかな風が吹き抜けた気がした。黄金の風だった。

 ……クッソきたない悲鳴が聞こえた気がするが、まぁ、どうでもよかった。




 ◇ ◆ ◇



 びゅうと吹く木枯らしに、橙色に程近い明るい茶髪が揺れる。

 ふわりと束ねて垂らした左右の髪に丈の長い黒のスカート。純白のエプロンを纏ったひどく小柄な女性は、若草色のジトっとした半眼を更に細めた。


 口元を抑えながらさめざめと泣いて去っていく眼帯の男たちを見送って、彼女は「ふむ」と木陰から顔を出す。

 どいつもこいつも下半身丸出しだ。バカ丸出しだ。かなり寒そうだ。

 それでも肩を叩いて慰めあっているのだから、男というものは良くわからない。

 まぁ、彼女にとってそんなことはどうでもいい。バカが集まってバカをしてても、それは単なる自然の摂理なのだ。不思議でもない。


「おぃ様、終わってやがりますー?」

「あ、メアリさん……」

「そーです。メアリですとも」


 口を小さく開けて応えた金髪の彼女に、やれやれとメアリは息を漏らす。

 ようやく見つけた仕え先の少女、エルマリカの周囲は酷い具合だった。

 若木は曲がり、巨木は折れ、老木は砕けて惨憺たる有様を晒す。満腹の竜が寝返りを打ったと思う程度には荒れていた。


「……まーたやらかしやがったんですか? こんなに散らかしやがってまぁ……。しょーじき、めんどーなことはゴメンなんですけどねー」

「ごめんなさい……そんなに怒らないで……」

「怒ってると言いますか……まーいいんですけどねー。どうせ森だし。家じゃねーですし? 他人事ですし?」


 自宅でやられたら、見なかったことにして三日は休暇を取るだろう。

 別にメアリとて綺麗好きではないが、まぁ、見ていて楽しいものではない。それぐらい完全に荒れ果てていた。


「近頃毎度のことながら、よーやりますわ……ちっとは付き合わされるこっちの身にも――――……おぃ様?」


 露骨な半眼を向けた先で、こう、エルマリカの様子が違った。


「わたし、騎士様に出逢ったの」

「ハイ? 騎士?」


 目を潤ませて、ぽつりと。風邪でも引いたように頬を赤くして。

 童女はその小さな手の指先を絡ませながら、辿々しく言葉を紡いだ。


「……その方は、わたしのことを助けてくれたの。傷だらけになりながら、わたしのことをずっと庇ってくれて……逃げろって……わたしのことをね、とっても大事にしてくれたの」

「……」

「どうしよう……? ねえ、わたしは今とっても不思議だわ……。

 生まれて初めてこんなに……胸が、痛いの。でも、すごく幸せが湧いてきて……どうしよう、ああ……!」

「……」

「……あの方、きっと凄腕の剣士様なんだわ。凄いのよ? 魔剣も真っ二つにしちゃって……あれなら、竜だって斬れてしまうかもしれないわ」

「……」


 なんというか、こう……。

 メスだ。メスだった。完全にメスの顔だった。

 弱冠十一歳。数えで十一歳。色を知る年頃か――――若干驚きを隠せないメアリの前で、エルマリカが興奮気味に続ける。


「ねえ、ねえ……! わたし、あの方の前で囚われてみたいわ! きっときっと助けに来てくれると思わない!?」

「はあ」

「えっとね……ええと、あの方は助け出したわたしの手をとって口づけしてくれるの……!

 それからそれから、『怪我はありませんか、お嬢様』って……! ああ、駄目よ! 想像するだけでもう……!」

「はあ」

「そして二人は、最後に幸せな口づけをしてね……?

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!? だ、駄目よ!? 駄目よ!? 早いわ!? 早すぎるわ!?」

「はあ」


 普段は内気なエルマリカがこうも声を大きくするなど、中々ない。そういう意味では貴重な一幕だ。

 彼女の父親や義母に見せたらどうなるか。何にもならないだろう。反応すらしまい。だが、メアリの仕事仲間はきっと騒ぐ。女はいつでも恋の話が大好きなのだ。

 春が訪れた。まぁ、それはいい。ちょっと色々と沸きすぎてる気がするが、まぁいい。


「……で、おぃ様。その分じゃまさか……やってませんね?」

「……やる? 何を?」

「『どうせだから目を封じて果し合いをしたい』って言ったのはおぃ様じゃねーですか。

 ……まさか、忘れてやがったとか言うんじゃねーですか? 後遺症残らない程度の腕の魔法使い雇うのもタダじゃねーってのに?」

「……………………あ」

「まーいいんですけどねー。何年経とうがあたしは所詮雇われなんで」

「ご、ごめんなさい……」

「いーえー?」


 ふう、とメアリは息を漏らす。

 主の意向はどうでもいい。衣と、食と、住があるから付き合っているだけだ。見返りが合わないと思ったら他所に行くまでだ。

 だが、別にそこまで嫌うほどではない。メアリ自身に被害が及ばないなら、どうとでも好きにすればいい。


「た、確かに忘れてしまったかもしれないけど……でも、わたしには運命の出会いがあったの! こ、これを褒めてくださらない?」

「はいはーい。すげーですねー。すげーすげー」

「もう!」


 頬を膨らませるエルマリカを前にやる気なく手を叩くメアリであったが、思えば歳こそ下だがメアリよりもエルマリカは発育がいい。

 色気づくのも、まぁ仕方ないのだろう。

 人間、どこに出会いが転がっているか改めて判らんもんだと思った。興味はないが。


「あのね? わたしは、あの方に助けられたいの……助け出されたいの……」

「はあ」

「塔の上に囚われたわたしのところまで、あの方は駆けつけてくださるの。傷だらけになって、何度も何度も挫けそうになって……でも、あの方は諦めない……」

「はあ」

「それでね? それでそれで、わたしを助ける為にいっぱいいっぱい傷付いて……それでも助け出したわたしに精いっぱいの笑顔を向けてくれるのよ?」

「はあ」

「そして……そんなあの方に、!」

「…………は?」


 聞き返すメアリを前に、エルマリカは僅かに目尻を下げて笑いを浮かべた。

 妖艶な微笑だった。その流し目は歳からは不相応なほどに妖しい色気に溢れ、男の耳元で仄暗い愛を囁く毒婦の気配すら漂わせる。


「うふふ、きっと凄く驚くわ……。助けに来た筈のお姫様から剣を向けられる……傷だらけになって立っているのも危ないのに、そこから魔剣の相手をしなくちゃいけない……!」


 くす、と小さな笑みを浮かべ、


「絶対に誰にも見せたことのない顔をしてくれるわ……そんな顔を見れるのは、この世でわたしだけなの……!

 裏切られたことと、騙されたこと……慌てることと傷ついたこと……怖いこと……そういうのが全部混ざった、この世で一番素敵な顔……!」


 甘い蜜のように――その慕情は破滅を望む。彼女は陶酔とそう語る。

 エルマリカという少女はおとなしく、品が良い。育ちもよいがゆえに、己が抱いた感情の名前すらも知らぬだろう。

 いや――――メアリは思った。

 エルマリカが頬を赤らめて呟く感情の名前など、メアリも知らない。児戯にも等しい憧憬と、破戒を伴う恋慕に一体どんな名を付ければいいのだろうか。


「それはね、わたしだけが見ていい特別なの……。他の誰にも見せたことない、特別な顔……。見られるのはわたしだけ……わたしだけなの。

 ああ、駄目……駄目よ……! なんて素晴らしいの……? 素晴らしい、素晴らしいわ……! 駄目よ剣士様……! いけません……いけないわ……!」


 蕩けるように、エルマリカは己を抱きしめた。顔は上気し、その吐息は甘く切ない。

 恋を――知ったのだろう。恋をしたのだ。

 その恋は身を焦がすのではなく、内から緩やかに焼き付けながらも腐り堕ちる恋。エルマリカという少女が抱いたのは、そんな恋だった。


「私だけの剣士様……ふふ、うふふ……! やだ……そんな、わたしにも特別扱いをして欲しいだなんて……あ、寝台ベッド……あっ、駄目よ……あぁ、駄目……まだ早いわ……! でも、あぁ……!」

「ああはい」


 そこは普通というか、恥ずかしがるのか。このむっつりさんめ。


「……ほんっとーに、イイ趣味してますねー」

「ちゃ、茶化さないで下さる!?」

「いや、茶化してねーです。本心です。マジです。大マジです」


 無感動な半眼のまま、メアリは気だるげに拍手をした。

 恋バナは不得手であったが、なるほど、こうも見ものな話だったのだ。普段とは違う性嗜好が白日の下に晒される。これにはさすがに感心する。

 確かにそれは確かに他人もやりたがるというものだ。花壇の石を持ち上げて虫を観察するぐらいおぞましい趣味だ。改めて感嘆した。具体的に言うと二歩ぐらい引いた。

 まぁ、どんな趣味だろうが、特にメアリには関係ないのだが――


「ったく、世に名にしおう七大魔剣――天地創世の〈竜魔の邪剣ノートゥング〉の使い手がこれなんて……世も終わってやがりますねー、これは」


 恋する乙女は無敵だというが。

 果たしてそもそも無敵なものがその恋とやらをしたらどうなるのか。


 考えたくもないと、メアリは遠い目をした。

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