第2話 恐るべき触手しんじつ


 偉い人が言っていた――「運動部はモテる」。

 本当のところ、その言葉に期待していなかったと言ったら嘘になる。

 モテる、とはつまり人間的に何かしらの魅力があるということ。何かに熱中したり、優しかったり、強かったり、輝いていたりするということ。

 モテるかモテないかで言えば、モテる方が断然いい。

 漫然とただ生きているだけの人間にとっては、何か光るものがある人間というのはそれだけで眩しく好ましいものだった。

 努力は人並みに苦手で、頑張るというのも人並みに苦手だ。そんな自分が運動部に入って一年を過ごしたのは、まぁ、それなりにノリ気になれていたのだろう。

 その結果、練習中の持久走で――なんと観測史上最高の炎天下での練習だ――見事に熱中症になって車道めがけて倒れ、黒塗りの高級車に轢き潰されたというのは何とも笑えない。

 高校デビュー。ヤンキーがモテるか、運動部がモテるか……秤にかけた結果がそれだった。


「君……願いがあるだろう? うん? 『違う』? 『無い』? いいや……遠慮せずとも良い。ああ、分かるとも。

 異性に好まれたい……ふふ、ほう、色欲か。『違う』? いや、いいとも。ここはとりあえず色欲ということにしておこう!

 実に素晴らしいな! 素晴らしい! 祝福しようじゃないか! それは丁度いい話だ!

 天に呼ばれるには功が足らず、地に誘われるには罪が足りない! ああ、君は実に丁度いい!

 『違う』? ハハ、確かに本当は違うなあ! だが別に構わないさ! なあに、喜べ、願いは叶うのだ!」


 闇に包まれた白い塔の上で、顔の見えないスーツの男とそんなやり取りがあった気がする。

 そして、死んだと思ったら魔法世界に生まれ変わっていた。

 それもモテるとかモテないとかと、そういう話は愚か真っ当な道に縁がなさそうな呪われた触手使いに。

 ……実際ショックだ。

 触手縄――百神一刀流・一ノ太刀“身卜シンボク”と言うらしい――から降ろされても、中々衝撃は抜けきれない。

 王道は許されない。そう言われると、やはり男心としてはやりきれないものがあった。


(もっとこう……桃園の誓いとかないのか……劉備や関羽は来てくれねえのか……。宋江に梁山泊へ誘われるのでもいいけど……)


 ……と。

 半生を振り返る白野孝介しらの こうすけ改めシラノ・ア・ローは今、


「――という訳で、この世界は狙われているんだよ。分かって貰えたかな?」

「はぁ」


 その触手使いの先人から、ありがたいお話を聞いていた。

 当のフロランス嬢は片目を閉じて、どうだと鮮やかに笑っている。

 正当後継者の彼女に対し、過去に二分された流派の逆側――つまり柳生如雲斎を擁する尾張柳生に対する柳生宗矩や柳生十兵衛の江戸柳生のようなもの――の後継者に当たるのが、シラノ。

 故にこの世界の母から伝えられなかった触手使いの真実を知ることは急務であり、


「ええと、纏めると……この世界にはエルフだのドワーフだの何だの含めた人間……人類種ではどうにもできないものがある――ってことっスね?」

「うん、そうだね」


 死したる竜母神の遺骸が大地となったという伝承のある竜の大地ドラカガルド

 シラノが生まれ育った地球という小さな星の日本という小さな国とは異なり、この世界には様々な不可思議な物がある。

 怪物、竜、魔物、魔法、亜人、獣人、魔剣……挙げてみればキリがない。

 だが如何に魔術が栄えようと、如何に魔剣が使えようと――それを操るのは人であった。

 例え村々を付け狙う魔物を駆除できようとも。

 例え国々を焼こうとする竜を討伐できようとも。

 如何に武器や技術が強力無比になろうと、それを操る人間の精神というものには大きな変わりがないのだ。


「そう。使う武器や技術が如何に進歩しても、操る側の心までが進化する訳じゃない。

 精神を魅力することに長ける淫魔という悪魔はそこに付け込んだ。そして起こったのが――」

「淫魔大戦……」


 魅了、誘惑、懐柔、破戒――――淫蕩なる淫魔たちに操られた人々によって巻き起こった騒乱。

 邪悪な意思に引き起こされた同胞殺しの闘争。

 この大地に繁栄を誇った全盛の古代帝国の落日。

 それが淫魔大戦である――そう、フローは言った。


「そんな淫魔たちに対抗できるのはボクたち触手使いだけだ。なんたって、魅了される正気を失っているんだからね!」

「正気を失っている」


 それは胸を張って言えることなのだろうか。シラノは訝しんだ。


「そして、触手には淫魔の特技も通用しない……淫魔にできるのは人間を蕩かすことだけさ。別の生物を魅了することもあるけど、常識の外にいる触手には通じない」

「なるほど」

「そして……触手の力なら例え淫魔が相手でも問題ない! そう、淫魔の得意舞台で彼女たちを倒すことができるんだ!

 得意分野で負ける淫魔の顔……ボクは見たことないけど、きっと見モノだと思わないかい?」

「うす……」

「だから――この技術は伝えなきゃいけないんだよ! この世界の平穏の為に! そう思って、ボクたちの家はいくら嫌われても先祖代々ちゃんと教えを守ってるんだ! わかったかい?」


 どうだ凄いだろうと、フローは拳を握り締めた。

 確かに凄い。

 最初はかなりミステリアスな女性だと思ったが、話してみると意外に愉快なサイドの人間だったらしい。

 小柄に不釣り合いな胸を仰け反らせて、すごいドヤァという顔をしている。


「さあ、だからボクに師事して――――立派な触手使いに! 百神一刀流の使い手になってよ!」


 そして、フフンと右手を伸ばしてきた。

 捲れた裾から覗いた白い肌を見るに、無骨なコートの下は長袖ではない。相当な薄着らしい。

 少し震えている。冬だし。……貧乏なのだろうか。

 それはさておき、


「……あの、一ついいですか?」

「何かな? それと言葉の前と後には『うやまい』と『そんけー』を込めて師匠と付けるんだよ? それか先輩でもいいよ?」

「ああ、はい。うす。ええと……それ、歴史書に載ってたり広く伝わってたりするんスか?」

「む、だから言葉の前と後に……まぁいいや、ボクは寛大だからね。

 それはいい質問だ。『歴史書に載っているか?』――答えは否だ。自分たちが性的に魅了されて殺し合った……そんな話を歴史に残したい人間がいるかい?」


 確かに。あまりにも間抜けすぎる。

 色ボケの果てに死んだというのは、記憶にも記録にも残したくない代物だ。

 そういう意味では筋が通っているが……


「あと二つ、質問いいスか?」

「何かな? ああ、それと……言葉の前と後には師匠と付けるように。あ、先輩でも構わないよ? むしろ先輩って呼んでくれていいからね」

「はい師匠……それ、具体的に何年ぐらい前に起こったんですか?」

「ええと………………その、大昔だね。ボクたちのお爺さんのお爺さんが生まれるよりも前だ。五百年ぐらい前って聞くけど……正確にはちょっと……」

「……」


 まぁ、歴史に刻まれてないならそれも無理もないのだろうか。

 そこまではいい。ここまでは筋が通る。

 だが、シラノが最も聞きたい事は違った。むしろ、それ以外の質問はどうでも良いと言っていい。


「これが一番大事なんですけど……」

「うん、何かな。……あと、そろそろ先輩って呼んでくれていいんだよ」

「あ、はい。ええと……その、淫魔って――――んですか?」


 使。そう聞いた時点で引っかかってはいた。

 もしも淫魔が実在するならば――そんな明らかに強力で致命的すぎる存在がこの世にいるなら。

 果たして人は、その唯一の対抗策をそんな風に嫌うのだろうか。それしか対処法がないというのに。


「え、ええと……」

「……」

「そ、それは……」

「……」

「う、ううううう…………」


 そして、シラノの琥珀色の瞳で見詰められ続けたフローは、


「…………………………………………いません」


 コートの裾をくしゃくしゃに握り締めてそう答えた。若干涙目だった。


「今はいない上に……歴史書にも載っていない。いると主張するのは嫌われものの触手使いだけ……」


 顎に手を当てて鼻息を漏らす。

 こう、並べ立ててみると……内容がだいぶ胡乱だ。


「で、でもほら! それには理由があるんだよ! 淫魔に魅了されてた人間が、後ろ暗くて触手使いを貶したんだ!

 自分たちが何もできずに操られてただけって認めたくなくて! こう……資料とか証言とかを片っ端から闇に葬ったんだ!」

「……それ、どうせなら一族郎党を物理的に葬りませんか?」

「うぇぇぇぇぇぇ、怖いこと言うなあキミ!? なんでそんな恐ろしいことが言えるんだい!?」


 あくまで歴史的な見地に――鎌倉時代とか中国とか――基づく可能性の話だったが、フローは完全に涙目になった。

 悪いことをしてしまったと頭を掻いた。

 触手使いで正気を失っているなどと言うからには、さぞかし邪悪な人間かと思ったが……違うらしい。


「ええと師匠……まぁ、その、淫魔大戦が仮にあったとしますね?」

「仮にじゃなくて本当にあったんだってばぁ! あったって言ってるじゃないかぁ! 信じろよぉ!」

「……淫魔大戦がまぁ、あって。んで、隠したい人たちによって触手使いはすっかり悪者にされた」


 陰謀論。いや、この場合は相手が淫魔なので淫謀論だろうか。

 この時点で中々に与太話度が凄まじいが、ひとまず置いておこう。


「でもその……淫魔、今はいないんスよね?」

「うぅ……」

「触手使いの技って……その、何に使えるんですか?」

「お、女の子を気持ち良くしたり……正気じゃなくなるぐらい気持ち良くしたり、完全に正気を失わせるぐらい気持ち良くしたりできるんだよ! 男相手でもいい!」


 男相手はともかく……フローの言葉通りならそれはそれで少しは魅了的ではあるのだが、流石にちょっとそういうモテ方は望ましくない。

 シラノは、女の子と健全にお付き合いしたいのである。尊敬できる相手と交際したいのである。

 いったい正気を壊してどうするというのだ。

 瞳孔開きっぱなし、よだれ垂らしっぱなし、うめき声上げっぱなしの女の子に囲まれて何になるのか。それはハーレムの主ではなくあと二秒後に惨劇発生予定のゾンビものの犠牲者というのではないか。

 口を結び、少し考える。

 考えるまでもなかったかもしれないが、本気の勧誘にはやはり誠意が必要だろう。人として礼を失してはならない。


「師匠……」

「な、何かな! やっぱりキミも男の子だろう? 女の子に好きなだけヤラしいことができる! こう言われたらやってみたくも――」

「俺、普通に剣士になります。やっぱり男だし、勇者とか魔法剣士とか……そういうのに憧れ、ありますから」


 聖剣とか、魔剣とか。

 どうせならそういうもの使いになりたかった。凄くストレートに魅力的だ。

 そうして強敵と戦って、助けた女の子や共に困難に立ち向かった仲間と結ばれる――――多分理想的な結末と言えるのではないだろうか。

 生まれた場所は違えども死ぬときは一緒……お互いにそう思える莫逆の友にも出会えるなら、なおいい。すごくいい。

 世の悪政に逆らうために天然の要塞に籠もったり、滅びゆく国家に忠を尽くしたり、或いは天下御免の傾奇者かぶきものとして名を馳せたり……そこまでできたら最高だと言っても過言であるまい。


「なんで!? どんな美人でも思いのままだよ!? キミなしでは暮らせなくなるんだよ!?」

「そういうの……本当の絆って……本当の愛って、言えるんスかね」

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」


 本当の愛。

 聞いてるフローも恥ずかしくなる響きだったんだろう。思いっきり三つ編みを振り乱して髪を掻き毟られた。

 よくよく考えると言ってるシラノ自身も恥ずかしかったが、野外で触手使いと大声で叫ぶのに比べたらまだ多少は許される気がした。


「判った! キミの愛のカタチはいいよ! 判った! いいよ何を選んでくれてもさぁ!

 でもね! 今はいなくたってまた淫魔が現れるかもしれないだろう!?」

「それ、昔の人も危ないって思わなかったんスかね……功労者の触手使いを差別するなんて」

「知らないよ! 人間は愚かで邪悪なんだ! その場を乗り切ったからバツが悪くて触手使いを悪く言ったんだ!

 人間はいつだってそうやって都合の悪いことを忘れる! そうして歴史を繰り返すんだ! いつまでも進歩しない! 人類はやっぱり愚かなんだ!」

「そんな邪悪な魔王みたいなこと言わなくても……」

「どうせボクは邪悪な触手使いだよ! 悪かったね!」


 そうして涙目で膝を抱えられた。

 所謂体育座りの姿勢で、指先で土に触手の絵を描いていた。完全に目が死んでる。

 こうなってしまうと、かなり悪いことをしてしまった気がしてくる。


(……この人はまぁ、善意で教えてくれようとしてるんだよな)


 いくらなんでも、言い方というものもあったのかもしれない。

 仮にも天涯孤独。そして引きこもり同然、山伏或いは蟄居を命じられた武将の如く人里に降りることも家から碌に出るようなこともない人間の世話を焼きに来てくれたのだ。

 なんと、親切で善良なのか。……若干は胡乱だがまぁ親切と見ても問題あるまい。

 誠意には誠意。ひとまずは謝ることから初めて、断り方ももう少し丁寧に――などと考えつつ髪を掻きながらしゃがむと、


「……ふふ、ふふふふ」


 フロランスは笑っていた。あまりに不気味な笑いだった。

 ぞわり、と背筋におぞけが走る。フロランスから邪悪なる瘴気が立ち昇っている気がする。

 そして彼女は三日月型の笑みを浮かべて立ち上がった。さながら幽鬼めいた動きだった。


「キミは触手使いの技が……百神一刀流が必要ないと言ったね……?」

「し、師匠……?」

「ああ……そうだね。確かにボクたち触手使いは日陰者だ。嫌われものだ。呪われた血だ……。

 ふふ、ふふふ……そうだよ。すっごく嫌われてる……友人もできなきゃ恋人もいない……犬にも吠えられる……ボク、何か悪いことしちゃったかなあ……」


 なんという虚無的な眼差しか。

 俯き加減の前髪の隙間から見えたのは、あまりにも虚ろな目だった。紫水晶の如き瞳は光を失い、この世すべての絶望をその身に宿したように濁っている。

 これは呪いだ。これまでフローがその人生で溜め込んできた鬱憤と呪詛が、視線に乗って世界を汚染しようとしているかの如き錯覚を受ける。


「ボクだって本当はね、こんな力なんて欲しくはなかった……こんな技なんて覚えたくなかった……ボクだって人並みに友達とか欲しかったし、幸せにお嫁さんとかになりたかった……」

「師匠……」

「なんでかなぁ……ボクだって、普通に生きていたかったんだ……駄目なのかなぁ……ボクはさ、ずっとそう思ってたんだ」

「……」

「そんなボクが……なんでこの忌まわしい技を覚えたと思う……? なんで今になってキミの前に姿を表したと思う? なんでこんなに百神一刀流を勧めると思う?」


 そして、すぅと息を吸った。

 嗤う。フロランスが嗤う。

 悲哀や哀愁を感じさせない――どこか歪な歓びを含んだ、狂気的な笑みだった。


「その答えはただ一つ! この力は血に受け継がれるんだ! 使いこなす術がなければ、キミは触手を暴走させてしまう! 周囲を無差別に触手が襲う!」

「うわぉぉぉぉあぁぁぁぁぁぁあ――――――――――――――――――――――ッ!?」

「そうなったら剣士どころか執行騎士の討伐対象だ! 望もうが望むまいが、キミはもう触手使いとして生きるしかないんだよ!」

「ぐわあああああああああああああああああああああ――――――――――ッ!?」

「あは、あはは、あはは…………あははははは! ようこそ、触手の世界へ! ボクと一緒に日陰者になろうね! あはは、あははははは!」

「ああああああああああああああああああ――――――――――――――ッ!?」


 諸行無常。

 触手がそう笑った気がした。


 ……そう。だ。

 栄えしものはいずれ滅びる。咲く花は枯れ、澄んだ水は淀み、生けるものは必ず死ぬ。

 死んで、終わる。

 鮮やかに動き出した筈の日々も記憶も色褪せる――……色褪せる前にそれは、走馬灯として脳裏を駆け巡る。

 これは、この世界で出会った母親以外の人間との記憶が、シラノの心に反響しているだけだ。


「……」


 濃い土煙。睨む己の荒い息に、前髪から汗が滴る。

 呼吸のたびに、引き攣るように背中が痛む。

 喧嘩をしたときに感じるのは、身体が思った以上に重いということだと――前世で世話になった先輩がそう言っていたことを、シラノは ふと思い出した。

 それも走馬灯。

 シラノ・ア・ローが、白野孝介であった頃の記憶。


「……ああ」


 あの日もそれを見たと、他人事のように思った。顔を轢き潰されたあのときにも年の離れた弟妹のと記憶が、なんでもない日々が、浮かんでは消えた。

 走馬灯とはすなわち死出の道筋の案内人。

 シラノ・ア・ローは、白野孝介は死ぬのだ。

 ここで死ぬのだと、一度目の死を知るからこそ強く核心する。


「……」


 ひょうと風が吹いた。土煙が、収まっていく。

 物語が始まるより前に平凡な高校生の白野孝介は死んだ。

 そしてそれから、触手使いとしてのシラノ・ア・ローは死ぬ。

 この物語はそんな物語であり、この運命は――ただの必然だった。



 ◇ ◆ ◇

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