第1話 お前のかーちゃん○○○○


 死んだ。

 死んだと思ったら、おぎゃあと産まれていた。いや、おぎゃあとは言ってないが。

 それだけでも十分に問題なのだが、我が身に降りかかった問題はそこではなかった。

 耳障りな這い動く音がする。粘着質の音がする。

 産道を通り世界の眩しさに圧倒された目で、見上げた先の助産婦の姿というのが――――


「――――――――――――――――――!?」


 赤子の自分を取り上げた助産婦は――いや、はてらりと光った。うごめき、おののく。

 虚空から湧き出した膿のような青紫色の蔦。

 虹色の穴から幾本も幾本も飛び出した蔓状の物体は互いに触れ合い、擦れ合い、絡み合いながらもその身を波打たせていた。

 そのたびに、ぐちゅと、心の鳥肌を立てるようにおぞましい音が響く。

 未だかつて見たことがない、あまりにも常軌を逸した光景。

 青紫の膿の如き斑模様の表面に、星々の光を飲み込む暗黒の銀河じみた怨念質の光沢を蓄えた異形が、天めがけて歓びに打ち震えているのだ。

 ああ! ああ! なんたる事だろう! なんと冒涜的なのだろう! それは紛れもなく恐るべき生誕への祝福であり、悍ましき魂の歓喜であったのた!


 一目で生理的嫌悪感を抱かせる悪魔の蔦。

 脳髄を蕩かし、神経を侵食する狂人の譫妄せんもうめいた写し身。

 常識という世界の網から亜空間へと零れた堕とし仔。


 つまり――


(――――――触手!?)


 ――そう、それは紛れもなく触手であった。


 頭を、肩を、腕を、尻をその管が包み上げる。

 植物のような、海産物のような……それでいて動物的に滑らかに動きながら、昆虫的に無機質な挙動を持つ管状の物体。

 触れているその肌の向こうで、その管の奥で、何かが脈打っている。いや、蠢いている。

 己の腕ほどの――赤子の腕――その向こうに、一体何が詰まっているというのか。

 悲鳴を上げる事すらできない自分を、虹色の穴から這い出たその蔦は宙に捧げる。


「ああ、そんな……! 父なる神よ……大いなる我が父よ……!」


 視線をやったその先で、ベッドに横たわり全身に珠の如き汗を浮かべた女性が嘆きの声を上げた。

 褐色に近い暗い金髪の向こうで朦朧もうろうとした琥珀色の目が――猫の瞳のような黄色の目が、狂気に苛まれたようにこちらを見上げてくる。

 そんな彼女の胎内と繋がっている臍の緒。つまりこの女性が、事実上の母だというのか。


「ああ……! ああ……! 産まれたというのに、生誕の泣き声を上げないなんて……! そんな……!」


 そして、女性が悲しみに顔を歪めることに、悪魔の蔦が呼応した。

 何たることか。今度は身体を逆さ吊りにし始めるではないか。

 なんだ。何が起きる。いや、何をするつもりなんだ。


「ああ、お願いします……! この子に声を、生の産声を! いあ! いあ! ■■■■、■■■■、■■! ■■■、■・■■! いあ! いあ! ■■・■!」


 引き絞られた弦のように。

 或いは、今や今かと力を込められた棍棒の如く。

 邪悪質な管が、その身を弓なりに逸らし始めた。

 おい、待て。

 待ってくれ。まさか。


「ああ! 声を、声を聞かせて! いあ! いあ! ■■■■、■■■■――――」


 待て、と言うが遅いか。おぎゃあ、と言うが遅いか。

 そいつは、こちら目掛けて――――――――――――







 ――――ガツン、と。


 目が覚めるような一撃だった。誇張ではなく、本気で目が覚めたのだ。

 一体、気を失ってどれぐらい経つだろうか。

 何かで頭を叩かれたらしい。かなり強引な気付けだった。まだ額が痛い。


「ああ、起きたかな? 楽しい夢だったかい?」

「いえ……」

「ふぅん? まぁ、楽しい夢ってのも大抵起きたら忘れちゃうものだから仕方ないね」


 楽しい夢の筈がない。最悪な夢だ。そう言いたかった。

 子供の頃から幾度となくうなされ続けている。熱にやられた日には、必ずと言っていいほど目にする悪夢。

 欲求不満なのか。被虐願望なのか。

 いずれにしても真夏の寝苦しい夜のように、決まって不快な汗に濡らされるのはたまったものではない。

 ……というか、


「ええと、どちら様っスか……?」

「おはよ。若いのに反応鈍いねぇ」


 重い頭に鞭を打って何とか見やれば、手をひらひら振って笑いかけてきたのは丸椅子に腰掛けた小柄で黒髪の少女だった。

 どこか少年っぽさを感じさせる爽やかで悪戯な笑み。

 頭の片側の側面だけで結んだ三つ編みは、何となく年若さを感じさせる。

 どことなく中性的ではあるのだが……無骨なコートに包まれても主張する胸部と、漆黒の布地とはあまりにも対照的に白い肌と優雅に組まれた長い足には、青少年のなんかを色々と危うくさせる気配があった。

 具体的に言うと、つい太腿とか付け根とかに目が行く。薄目で追ってしまう。

 小悪魔的というか。完全に悪魔的というか。

 ふふふ、と裾を指でつまみながら愉快そうに片目を閉じる彼女の名前は確か、


「あの、フロランスさん……」

「フロー先生だよ?」

「はい先生!」


 反射的に答えてから気付いた。

 先生。

 いや、なんの。


「……先生?」

「そう。ボクが先に生まれたから先生。うーん、師匠なんていうのもありかな? ……それともセ・ン・パ・イとか呼んでみるかい? フロー先輩……うん、悪くない響きだね」

「あ、はい」

「うん? ふふ、何か文句があるのかな? あるのかい?」


 にぃと目尻を歪めて、楽しそうに咎めてくる。

 先輩。確かに言い得て妙だ。先生というよりは悪戯好きな年上の先輩のようである。

 だがそもそも――……彼女がどんな人なのか知らなかった。なにせ今日出会ったばかりだ。

 この世界での母にあたる女性が病で死に、そのあまりに細やかで寂しい葬儀を終えた際に唯一訪れた女性。

 確か、訪ねてきた彼女に玄関で呼び止められて……それからの記憶がプツと途切れている。


「うす……ええと、俺たちは何をしてるんですか? ……というか、俺はどうなってるんですか?」


 そう、これが重要だ。

 やたらと足がぶらつく。というか地に足がついていない。比喩表現とかではなく。

 完全に浮いている。浮かせられていた。なおおそらく両腕は厳重に縛り上げられている。

 いわゆる宙吊りという奴だった。


「ああ、百神ひゃくしん一刀流いっとうりゅうの修行だね」

「ひゃくしんいっとうりゅう」

「うん、そうだよ。百神一刀流」


 『凄いだろう?』と言いたげに片目を閉じているが、生憎と聞き覚えは全くない。


「……武道スか?」

「んー……まぁ、そうかな……確かにある意味では戦いの為の技術とも言えなくないか。うん、ある意味では……」

「なるほど……戦いの技術……」


 そう聞いたら、健全な日本男子として胸が高鳴るざるを得なかった。

 武術と聞けば、二天一流や天然理心流、柳生新陰流に小野一刀流、はたまた香取神道流に鹿島新當流に巌流に――ざっと思い浮かぶ程度には男の子である。

 そんな中で、聞き覚えのない武術。

 部活動中の不慮の事故によりこの竜の大地ドラカガルドへ生まれ変わってから十余年、違いといえば現代の利便性がなくなって中世近世近代をごちゃ混ぜにしたような不便な暮らしだけ。

 待てど暮らせど百八の妖星の生まれ変わりを探す男も来ず、何かしらの軍師や武将が来ることもない。伝説の聖剣もなければ古代の超兵器もなし。

 薬師の母の家事手伝いをしているだけで、村にも行かず里にも下りず森に入っては生活必需品を集めるだけの、ただ暮らすだけの日々であった。


(このまま木こりか仏像師か即身仏になるしかないと思ってたんスけど……そうか)


 魔法やファンタジーなど本当にただの夢幻に思えるぐらい目にすることも耳にすることもない毎日であったというのに、ここに来て――初耳である異世界の剣術。

 健全な日本男子に心を燃やすなと言う方が無理な話だろう。


「そ、それで……刀はどこなんスかね」

「うん? あるじゃないか。……ほらほら、上上」

「上……」


 指に釣られて頭上を見上げる。

 ぎっちりと言うか。うねうねと言うか。じっとりと言うか。

 肉に喰い込まんばかりの勢いで両腕を縛り上げていたそいつは――


「ゆ……」


 細長かった。

 蠢いていた。

 鋭くなかった。

 なんというか――――どこからどう見ても触手だった。


「夢だけど夢じゃねえじゃねえかぁぁぁぁぁぁあ――――――――――ッ!!!!」


 フラッシュバックする忌まわしき誕生の記憶。

 生理的嫌悪感と宇宙的狂気と精神的混乱を煮詰めて混ぜ合わせたような魔法超生物。ファンタジーに居ちゃいけないコズミックホラー臭の凄い怪物くん。

 これは夢か? 実はまだ前世で布団の中に入っているのか? それとも既に狂気に囚われてしまったのか?

 だが縛られる痛みは本物だ。夢ではない。だがむしろ夢であって欲しかった。


「……あ、そうそう。キミのお母さんは隠してたかもしれないけど、ボクたちの家って先祖代々使だよ?」

「うわぉぉぉぉぉぉぉあぁぁぁぁぁあ――――――――――――――ッ!?」

「百神一刀流って剣技でも何でもないし、触手を使ってイヤらしいことをする為の技でね?」

「あああああああああぁぁぁ――――――――――――――――――ッ!?」

「あとキミのお母さんは、薬師は薬師でも夜の夫婦生活の為のおくすりとかおもちゃとか売っていたようだね」

「ぬうううぅぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁ――――――――――――――――――ッ!?」


 畳み掛けるような駄目押しの追撃。現実からの高速三連打。恐るべき触手真実三段突。

 憧れの王道をブチ壊された傷心の声が辺りに木霊する中、触手だけは楽しそうにうぞうぞと揺れていた。



 ◇ ◆ ◇



 俗世で身を立てるにはどうすれば良いか――と問われたとき、賢者は決まってこう答えるのだと聞く。


 一つは魔術士。

 魔法の研究、魔剣の作成、魔術学院の教師に、魔本の保全。遺跡や公共基盤の補修と――――その仕事は何処にでもある。

 発動に関わる四つの術式と、効果に関わる四つの分類。

 優れた知力でそれら統一魔術をどれか一つでも修められたならば、日々の糧に困ることはないだろう……と。


 一つは商人。

 城塞都市と城塞都市の物の流れを押さえるのは商人だ。

 食料、材料、工具に人材――それらを司る商人は、その気になれば都市の領主にも比肩する。

 運気と才能、それに度胸があるなら商人になって成功できぬことはない……と。


 一つは剣士。

 剣の実力に身分はない。必要なのは自分の身体と腰の剣で、重要なのは鍛錬を続ける心と生き汚さだ。

 警衛騎士で法の番人になるもよし。闘技場の剣闘士として名声を得てもよいし、仕事人として魔物相手に武功を立てるもよし。

 そして世に満ちし百八の序列を持つ魔剣の使い手となれば――言うにあらじ。

 肩書は剣士の最期を決めてはくれない。己の腕を信じきれるならば、剣士になって不自由なし……と。


 そして最後に決まって賢者はこう言うのだ。

 「あいにく私はどれでもないので」「ここは一杯奢っては貰えないかね?」と。


 ……で。

 さて、触手使いがどんなもの当たるかというと……その異名を並べればわかりやすいだろう。

 “外道衆”、“邪法師”、“邪なる者”、“外法の系譜”、“淫魔のつがい”、“正気壊し”、“淑女狂わせ”、“老婆よがらせ”、“人形孕ませ”、“魔羅もどき”。

 “絶技・違法チート魔羅漢マーラ”、“ブラフ男根剛直砲マーラストラ”、“この世すべての竿マラウンド・ザ・ワールド”、“真空あへあへ三段突きマーラ・イオン”――――大体これで察せられる筈だ。

 そう。

 簡単に言うとなんかウネウネした良くわからない怪異を呼び出して操る。

 色々と女の子にイヤらしい効果がある。

 生まれてこの方一族郎党がみんなそんな奴。そういう魔法だった。


 白野孝介しらの こうすけ改めシラノ・ア・ローは、そんな触手使いの一員であった。

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