第2話 シ

 金曜日。七月十三日。

 もう一時間以上もこうしている。あの子のくれた手紙を捨てるかどうか。悩み続けても答えを出せずに、ベッドから起き上がってはごみ箱の前まで行き、しばらくしてからまたベッドに戻って横になる。できない。この手紙を捨てるなんて、僕にはできる訳がない。でも正直邪魔だ。こんなのがあっても困るだけだ。ならばさっさと捨てればいい。でも、できない。今一度手紙を眺める。

 そこには、大村凛太郎くんへ、と書かれている。

 僕を先程から延々と悩ますこの手紙は、ある女の子からもらったものだった。内容は僕に対する想いを綴った情熱的で甘い、要するにラブレターだ。

 自分で言うのもなんだけど、僕はそこそこモテる。おとなしめの文学少年でキャラを貫いてきたのだが、まあ、ちょっと顔が良かったせいか、おとなしさはクールととられ、本を読むことは賢いと見られ、結果としてそこそこモテた。今は中学生になってまだ半年も経っていないが何人かの女の子が寄ってきた。友達からも「〇〇ちゃん、お前のこと気になるって言ってたぜ」と何度か密告を受けたこともあったし、モテると言ってもナルシスト扱いはされないだろう。

 それでも思い切って告白してきたのはあの子が初めてだった。足立真凛さん。小学校も同じだった子だ。

 ある日の放課後、彼女は僕に手紙を渡し、この手紙の返事は三日後の放課後に教えてくれと言って去っていった。その時は別に迷惑だとは思わなかった。告白されたのは初めてだったので、少し嬉しくもあったかもしれない。でもそれは本当に少しだけであった。

 足立さんは残念ながら顔面偏差値が低い、つまりブスだった。その上性格は決して良いものとは言えなかった。気に入らない女の子の悪い噂を流してはクラスで孤立するように仕向けている、という噂もあった。とはいえ噂とは名ばかりで、ほとんど事実であったことを僕は知っている。小学生の時のある日の放課後、仲の良い子たちと一緒にどんな噂を流してやろうかと相談しているところを偶然見かけたことがあった。一度や二度ではなかったと思うので、僕以外の生徒も分かってはいたはずだ。

 そんな足立さんからの告白は、当然断ることにした。

 手紙を渡された三日後、僕は一人で彼女の元へ向かった。彼女を教室に見つけ返事をしたいと言うと、一時間後に中庭に来るよう言われた。放課後と言っても生徒たちはすぐに帰る訳ではない。他人に見られるのは恥ずかしかったのだろう。特に予定もなかったので宿題を終わらせながら時間をつぶし、一時間後に一人で中庭に行った。

 中庭に現れた足立さんも一人だった。下手すれば取り巻きの女の子たちが一緒に来るのではないかと危惧していたので安心した記憶がある。

 この前はありがとう。でも、残念ながら君のことは好きじゃない、告白してくれたのは嬉しいけど、付き合うことはできない。ごめん。

 こんな感じの台詞だったと思う。そんな僕の返事を足立さんは黙って聞いていた。中庭に現れた時からずっと、黙っていた。僕の返事を聞いてからもしばらくは黙っていた。特に動きも見せず、どうすればいいのかと僕は少し戸惑った。そんな僕を救うように(と言うのはおかしい。僕を困らせているのは誰であろう足立さん自身なのだから)足立さんが小さく「なんで」と呟いた。

「え?」

「なんでダメなのよ。理由を教えてよ。なんで?私のどこがダメ?」

「いや、えっと……」

 非常に迷惑に感じた。その問いに対する答えなど全く考えていなかったし、そんな問いが出ること自体考えていなかった。普通にごめんなさいの一言だけじゃいけないのか?

「ねえ、言ってよ。私のどこがダメなのか。そしたら私、そのダメなところを直すからさぁ」

「いや、その、何て言うか……」

 顔がかわいくない、性格が残念だ、人を貶めようとするところがどうしようもなく嫌いで。理由ならいくらでもあった。でも言葉にはできるものではない。

「ねえ、聞いてる?言ってくれたら私がんばるから。認めてもらうようにするから」

 別に君が変わっても好きにはならないよ。ってか何なんだこいつ。理由理由ってうるさいな。何か、無難なものないか。何か、例えば……何か。

「正直に言っていいから。教えて。私、凛太郎君のこと好きだから。がんばるから」

 足立さんが僕の腕を掴んでくる。反射的に引き剥がそうとする。やめてくれ。触らないでくれ。本当に正直に言うぞ。

「ねえってば」

 もう一度腕を掴み直され、僕は揺さぶられる。やめてよ。本当にやめてよ。うるさいよ。

「正直に言って!」

 本当にうるさ「ねえ!」……。


「うるせぇ!ブスだからだよ!」


 時間が止まった。酷い静寂が訪れた。僕は、逃げるように走り去っていった。

 今思えば、我ながら最悪な対応をしてしまったと思う。彼女にとって最悪な人間ベストワンになっただろう。これは人づてに聞いた話だが、その時の足立さんはその場で夜中まで泣き続けたらしい。


 それから三日後、彼女に言ってしまった言葉を酷く後悔していた僕にもう一通の手紙が来た。その手紙も足立さんからであった。内容はまたも呼び出し。金曜日の深夜三時に八坂神社の二本杉に来てくれ、という内容だった。

 始めはすごくうんざりした。八坂神社というのは僕らの中学の地区にある大きな神社なのだが、そこの二本杉と言うと男女を結ぶ聖地とされている(地元だけで)。

 二本杉はその名の通り二本の杉が並んで立っている。それだけなら珍しくはないのだが、お互いから一本ずつ、まっすぐ伸びた枝が交差している。その姿が手を取り合う男女に形容され、聖地と化した。神社の入り口から見て右が男杉、左が女杉となっている。

 そんな場所に呼び出された訳だから、それはもううんざりした。彼女に抱いていた申し訳なさも一度は消えかけてしまう程だった。それでも、やっぱりちゃんと会って謝るべきだ、その上でもう一度、しっかり断ろうと決めた。そうすれば罪悪感も消える、いや、そうしなければこの罪悪感は消えないだろうと思った。

 そういうわけで決意をしたつもりだったが、金曜日になった今、僕は悩んでいる。おじけついたのだ。いっそのこと手紙を両方とも捨ててしまって彼女から逃げてしまいたい。ただそんなことをすると罪悪感はより酷いものになるだろう。それ故、さっきからベッドとごみ箱を行ったり来たりしているのだ。

 ふと、時計を見る。午前一時二十分。いつのまにか十二時を回っていた。よく分からない悪寒の後、鳥肌が立つ。なんだって足立さんは午前三時なんて時間を選んだんだろう。最初は午後三時の間違いかと思った。だから一応午後三時にも二本杉まで行ってみたのだ。しかし、足立さんはいなかった。ともすれば間違いではないということになる。では何故足立さんはこんな時間を、中学生ならどんな威張り屋でも出歩かないだろうと思われるような時間を選んだのだろう。僕自身そんな時間に一人で外に出たことはないから不安だし、何より足立さん自身危ないのではないか。女子中学生が一人で真夜中に神社に向かうなんて、どう考えても危険である。まさか、襲ってくるような危険な人が世の中にはたくさんいることを知らない訳ではないだろう。では彼女は何がしたいんだ……。

 あっ、という言葉が頭に浮かんだ。そう思ったのではない、まさに文字という形のイメージが浮かんだんだ。

 もしかしたら彼女は僕を絶対に二本杉まで来させようとしたのかもしれない。万が一、用事があって来られないなんてことを避けるため、心配させることで僕がおじけついて来ないなんてことが無いように。だとしたら僕はまんまと彼女にしてやられたことになる。現にこうやって、絶対に僕は行ってあげなくてはいけないことに気づいたのだから。

 それならば、と持ち前の諦観で二本杉に行く決意を固める。こうなったらハッキリと拒絶の意思を示してやろう。それはもう、流るる川の清水よりも清らかに、拒絶するのだ。

 こうして、ようやく僕の意思は決定した。後は約束の時間まで暇をつぶすだけだ。これは簡単、と僕は本棚から一冊の本を取り出して読み出した。僕の父親は相当な読書の虫だったようで、なぜか僕の部屋にある彼の本棚は一千を超える本が納められている。その影響が大きかったのか僕もかなりの本好きに成長した。だから暇をつぶすと言えば読書、これが僕の常識になっている。よく読むのは敬愛する太宰治の本である。今回も例に漏れなかった。

 ちなみに、父親が読書の虫であることに推定の語を用いたのは、今現在僕には父親がいないからだ。お母さんに聞いたところによれば、生まれたばかりの僕とお母さんを置いて蒸発してしまったらしい。その時の僕は、まだ髪の毛もろくに生えていないくらいだったので、当然一切父親に関する記憶は無い。どういう訳か写真もないので顔も分からないのだ。


 約束の時間の三十分前に僕は家をこっそり抜け出した。何だか家出をするような気分になって異様に心臓が高鳴った。お母さんの寝室の気配を探りながらゆっくりと玄関まで向かうのは、ある種冒険のように思えた。

 心臓がおかしくなる前に家を出て真夜中の住宅街を歩き出す。三十分も余裕を残して家を出たが、八坂神社まではゆっくり歩いても十五分で到着する。先に待ち合わせ場所に着いていれば彼女のペースに持ってかれないで話を進められるだろうと思ったのだ。

 話の主導権を握るにはどう話せばよいかを考えながら真夜中の街を徘徊する。普段は人が絶え間なく歩いている道路には何もいない。静寂さえもそこには無いようだ。信号はいつも通り働いているが意味をなしていない。普段は考えもしないのに道沿いの家を気遣って足音を抑えてしまう。本当に誰もいない。

 初めての真夜中の外出はいろいろと考えてしまって本来の目的のことを忘れてしまう。神社の入り口に着いてやっとこれから起きるであろうことを思い出した。それと同時に軽い焦燥に襲われる。腕時計を見ると約束まで残り十五分。大丈夫だ、こちらから先に謝ってしまえば何とでもなる。会ったらまずは謝ろう。

 とりあえず神社に入って辺りを見回す。夜の神社はさぞかし不気味だろうと思っていたが、実際は何も見えない。スマホの明かりを点けてみても、足元くらいしか照らしてくれないので怖いとは思えない。僕は目で見なければ信じないタイプなのだ。

 二本杉は境内を裏に回って二分程歩いた所にある。境内に座って待ちたかったが指定された場所があるので従うしかない。と言うかもう足立さんは僕を待っているかもしれない。だとしたら心の準備をして行こう、となるべく足音を立てながら歩き出す。急に現れるよりも相手が心の準備をできるだろうという僕なりの配慮だ。

 境内の裏に回ると、少し先にほのかな明かりが見えた。そちらにスマホを向けわざとらしく足音を鳴らしながら歩き出す。そうすると僕に返事するように二本杉の方から枝を踏む音が聞こえてきた。

 やはり足立さんは先に来ていたんだ。覚悟を決め直そう。先に謝るんだ、そして、はっきりと拒絶の意思を見せて、しっかり諦めてもらう。

 挨拶して、この前はごめんね。頭で何度も反芻しながら明かりに近づいていく。大丈夫だ。咳払いをして、二本杉のある少し開けた所に出る。

「ん?」

 そこで僕が見たのは違和感だらけの光景だった。地面に落ちた懐中電灯。ライトが点いている。少し離れた所には倒れた脚立。その手前には、白い封筒。どういう組み合わせなのか。

 はっきりしたことはよく分からないが、何よりも足立さんがいない。一番の違和感はそれだ。左右を見ても誰もいない。ではこの懐中電灯のライトは何を照らしているのだろう。明かりの刺す方へ、視線を向ける。

「……うそ、お、う…。…嘘だろ……」

 ライトが照らしていたのは、紛れもなく足立さんだった。二本杉の枝が交差している付近、女杉の枝に足立さんは吊られていた。首と枝に、太いロープを結んで。

 顔には既に血の気が無い。それが足立さんは生きている人間ではなくなったことを指すのか、単に光の当たり具合でそう見えるのか。僕の立っている位置からは判断できなかったが、しばらくはそのことばかり考えていた。他のことは考えてはいけないと、僕の中の何かが言っているようだった。


 倒れていた脚立を使い足立さんを地面に降ろす。彼女からは体温が奪われ、力も奪われていたので一切の抵抗が無い。それはまるで、重過ぎるマネキンを扱っている感覚だった。

 午前三時という時間なんて気にしないように彼女は制服を着ている。そんな彼女の死に装束の胸ポケットには白い紙がある。遺書というやつだろうか。ほとんど自然に、僕はその紙を手に取る。

〈大村凛太郎くんへ。私はあなたのことが大好きです。小学生の時からこの気持ちは変わっていません。本当に想い続けてきたんです。だから、あんなフラれ方した時は本当に悲しかった。余りにも酷いと思った。泣きました。フラれてから一週間、何度も泣きました。それでもまだ悲しみ足りません。我慢できません。生きていけません。私が死ぬ理由はあなたにあるんです。それを忘れないでください。さようなら。足立真凛〉

 読み終えたと同時に涙が出始めた。音をたてない、静かな涙だった。

 涙の理由は哀しいからではない、怖いからだ。僕が彼女を自殺に追いやった。僕の言葉が、確実に。手紙はかわいさを意識した丸文字で書かれていたが、哀しみと、それを超える怨念が込められていることがまざまざと伝わってきた。僕が彼女の自殺の原因であることを理解するには余りにも充分過ぎる程に。僕の恐怖を煽るには拳銃よりも適役に。

 このままでは自殺させた張本人として扱われてしまう。告白を断ったというのは法律的には何も問題ないだろう。でも、断り方が最悪だ。どんな風に断ったか知られても、それでもまだ罪には問われない。しかし、社会的に終わりだ。みんなに避難される。みんなに怒られる。まるで僕が殺したかのように扱われる。そう考えると怖くて涙が止まらない。

 恐怖で身動きが取れないまま、足立さんだったモノを見る。青い。制服から突き出た肌が、どこまでも。そして、白い。こんな物体の存在理由が分からない。視覚的にただ不快感を与えるだけじゃないか。邪魔だ。では、消さなくては。

 そんな風に、僕が最初に決めたことは彼女を隠すことだった。

 神社には倉庫があり、その中にはたくさんの物がしまわれている。お祭りなどの行事に使う物が、例えばシャベルなんかも。

 涙を止めるよりも先に倉庫へ急ぐ。何よりも人に見られてはいけない。今は午前三時三十分。こんな時間に人は神社には来ないはずだ。それでも、急げ。

 お祭りに参加した時に位置を覚えてしまったシャベルを取り、急いで穴を掘りだす。人が来るまでに穴を掘って彼女を入れて穴を埋めなくてはいけない。時間を設定しよう。そうだな、五時までだ。

 そう決めると無我夢中で穴を掘りだす。こんなに一生懸命穴を掘ったのはいつ以来だろう。幼稚園に通っていた時に似たようなことをしたかもしれない。その時は穴を掘ることに意味は無かった。ただその行為が楽しかった。でも、今は違う。道具も小さなスコップからシャベルに変わり、何よりも意味がある。絶対に穴を掘り上げる。

 そんなことを考えながら何かに取り憑かれたように穴を掘った。掘って、掘って、三十分後には足立さんがすっぽり入っておつりがくるくらいの大きさの穴ができた。

 手紙とロープ、足立さんを穴に入れる。そういえば、と白い封筒の存在を思い出した。穴を掘る時に邪魔だと端に除けた封筒の中身を確認すると、一万円の束が入っていた。驚いて数を数えると十五枚。つまり十五万円。足立さんのものだろうか。だとしたら何の金なのだろう。

 すこし考えにくいが、遺産、ということなのだろうか。自殺する人間が用意した金と言えばそのくらいしか思いつかない。しかしそれが何であろうと関係ない。お金を封筒ごと穴に入れる。ここにあった物はなるべく処分しておくに限る。

 再びシャベルを手に取ろうとして、思いついたように足立さんを見る。首にはまざまざとした縄の痕。いつもより全体的に白い。そして、授業中に寝ているのと変わらない顔で一生の眠りに就いている。一度だけ、と弁明するように手首に触れてみる。冷たさは何も変わらない。ごめんなさい、ごめんなさい。静かに、はっきりと呟く。

 そっと手を放しシャベルを手に取る。腕時計を確認し、仕上げに穴を埋めだす。掘るのよりも時間はかからず、最後に顔に土をかけて終わった。すみやかにシャベルと脚立を倉庫にしまい、今一度二本杉の所を見回して、不自然でないことを確認するとその場を去った。時刻は午前四時二十分。空も少し明るい。早く帰らなきゃ。一気にいろいろとあり過ぎたせいで、帰り道はそんな単純なことしか考えられなかった。もちろん帰っても眠れはしなかった。


 月曜日。七月十六日。夏休み直前のみんなの雰囲気は、なんだかそわそわしている、はずだった。日曜日、つまり昨日の内に広まった足立さん失踪のニュースは、みんなの心を浮足立たせることを良しとしなかった。とは言え、今はまだ家出程度の扱いになっている。今の子たちが家出なんてしようと思うのは、本当に珍しいことだということを親たちは分かっていない。ましてや足立さんの性格ではそんな大それたことなんてできない、と僕は思っている。なんにせよ、真実を知っているのは僕だけだ。

 僕はこの土日をほとんど寝て過ごした。起きているといろいろと考えてしまう。すべては足立さんに関することである。それを拒むかのように眠気が襲ってきたんだ。お母さんには少し心配されたけど夏風邪だと言っておいた。

 正直に言うと、今日は学校に来ないつもりだった。足立さんがいないことを意識してしまうから。しかし、足立さん失踪のニュースが広まってしまい、怪しまれる行動は避けないといけなくなったから仕方がない。いつも通りを貫き通すべきだ。

 そういう訳で平常心を保つように努めているのだが、先程から何かおかしい。真偽の程は分からないが足立さんと仲の良かった女子たちが僕を睨んでいる気がする。中には明らかな敵意を感じ取れるような行動を取る人もいる、ような気がする。

 何なんだこれは。どうしてこんなに視線を感じなくちゃいけないんだ。彼女たちに真実が分かる訳はない。昨日のことは確実に誰にもバレているはずはない。だったらどうしてこんなに嫌な空気を感じるんだろう。僕の思い過ごしか?

 ふと、普段話をする男友達に目をやる。すると、彼は嗤った。目は違う方を見ているし他の友達と話しているのだが、はっきりとこちらに嗤いかけてきた。間違いない。どういうつもりなんだ、彼らは。

「おいっ、凛太郎。聞いたかよ、足立さんのこと」

 背後から別の男子が話しかけてきた。隣のクラスの子だ。こいつも嗤っている。

 本当は驚きの余り、体全身で飛び上がりたいのだが、なんとか耐えて黙って頷くと、彼は機関銃の如く喋りだした。大人たちは家出って言ってるけど絶対違う、俺には分かる、何かの事件に巻き込まれたんだ。俺には分かる。そんな内容のことを休み時間いっぱいに話し続ける。明後日になっても帰ってこないようなら俺たちで探しに行った方がいいぜ、絶対。お前も一緒に探そうぜ。みんなにも話しておくよ。彼は話し続けた。

 どうしてそんなにも絶対なんて言いきれるんだろう、と思いながら曖昧に頷く。足立さんはすぐに戻ってくるかもしれないよ、と言おうとも思ったができなかった。喉が渇き過ぎて声が出なかった。そんな僕を尻目に見ながら彼はどこかへ行った。僕は、いつのまにか大量の汗をかいていた。


 ずっと圧迫感に悩まされながらも放課後になった。僕は部活に入ってないのですぐに学校を出る。今日は本当におかしい。みんなが僕を見て嗤っている。僕が殺した訳じゃないのに、彼らには分かるはずもないのに、みんなが責めてきている気がする。今日は帰って早く寝よう。寝ている間は余計なことを考えなくて済む。

 赤信号で立ち止まる。信号機は色を変えるのを忘れているんじゃないか、と思う程に色が変わらない。早く変わってくれよ、早く帰りたいんだ。

 隣に買い物袋を持ったおばさんが立った。知らない人だ。でも、何かを睨んでいるような気がする。視線の先には僕しかいない。

 ハッと顔を上げて周りを見回す。乳母車を押すおばあちゃん。買い物帰りの主婦。下校中の小学生の集団。みんなが僕を睨んでいる。話したこともないはずの僕を睨んでいる。夏の暑さが原因でない汗が止まらない。

 大丈夫だ、気のせいだ。これは、僕の気のせい。だいたい誰も知らないはずだ。そうだ、彼らは足立さんがいなくなったことすら知らない人たちだろう?恐れなくていいはずだ。

 隣に立つおばさんを見る。まだ睨んでいる。ダメだ。我慢できない。

 車用の信号が赤になった。それから歩行者用の信号が青になるのを我慢できなくて、つい走り出してしまった。家へ、僕の家へ、急ぐ。汗は止まらない。もう何の汗かは分からない。

 やっとの思いで帰り着く。急いで鍵を開け、僕の部屋に飛び込む。鞄を投げ、布団を被る。呼吸を整えようとするが上手くいかない。汗も止まらない。違うんだ、走ったから呼吸が乱れているだけで、布団を被っているから汗は止まらないだけなんだ。

 窓から射す西日が蒼い。急いでカーテンを閉める。もう寝よう。お母さんが帰ってくるまで寝るんだ。そう自分に言い聞かせて目を閉じるが、さっき見た西日の蒼が目から離れない。

 その色は徐々に紫になり、やがて紅くなった。それはまるで、血の色のようだ。それでも僕は目を閉じた。逃げるように目を閉じ続けた。ようやく色が消えて視界が真っ暗になったのは、二時間が過ぎた時のことだった。


 水曜日。七月十八日。未だに圧迫感は緩まない。むしろ強くなって、脅迫感と呼べる代物へ成り代わっていた。最近は寝てばかりいるのに寝た気になれない。ずっと疲れている。

 昼休み、いつか話しかけてきた男友達がやってきた。わざとらしい音を立てて僕の前の席に座る。

「おい、聞いたか?ついに警察が動き出したらしいぞ。大人たちも流石に家出じゃないと判断したってよ。遅いよなぁ、俺たちは始めから分かってたのに」

 警察、という言葉に緊張が走った。一瞬、息をするのを忘れる。「そうだね」と返事をしたが、声がしゃがれた。

「どうした、風邪か?クーラー点けっぱなしで寝たんじゃないだろうな。俺にはうつすなよ。ところでさ、この前俺言ってたじゃん、足立さん探そうって。大人たちが動き出したんだ、俺たちも黙ってられねえよな。ってな訳で今日の放課後から足立さんの捜索を始めようと思うんだけど、凛太郎も来てくれね?部活入ってないから暇だろ?」

 この瞬間僕は恨んだ、部活に入らなかった自分を。部活に入っていないことで、今以上に僕を苦しませる状況になるなんて思いもしていなかった。最悪だ。どうにか断らなくては、耐えられなくなるかもしれない。ど、どうしよう。どうすれば。どうなっちゃうんだろう。どうすれば……。

「ん?なに、用事でもあるの?」

「え、いや、無いけど…」

「じゃあ参加決定な。がんばろうぜ。また放課後に呼びに来るから。それじゃ」

 彼は僕の捜索参加を強制的に決定して去って行った。まるで嵐のようだと思う。そして、取り返しのつかないことになった状況に頭を抱える。足立さん捜索が今日一日で終わるわけない。これから、見つからなくても当分は探し続けるはずだ。目立つ行動はダメ。途中で抜けるなんてできそうにもない。つまり、これから毎日罪悪感の渦中に立たされる日々が続くのだ。果たして、僕に耐えられるのか。

 そう考えると吐き気を催してきた。午後の授業は吐き気と闘いながら、ひたすら長い時間寝ようと努めた。でも、一睡もできなかった。


 放課後、それは、苦痛の始まり。

 僕の吐き気は治まってなかったが、呼びに来た男友達と外に向かう。集合場所は中庭らしい。よりによって足立さんの自殺の原因を作ってしまった場所だ。余りにも酷い仕打ちだ。

 その日集まったのは合計十八人だった。平日でみんな部活があったり塾がある割には多い方かもしれない。僕にとっては迷惑なだけでしかないのだが。

「とりあえず今日は学校の周辺を探してみようよ」

「じゃあ建物は探し終えた後にスマホのマップに印を付けて共有していこうよ」

「いいね。もしかしたら道を歩いているところを見つけるかもしれないから、その時はみんなに連絡しようぜ」

「ってか誘拐とかの可能性は無い?そうだったらもし見つけても危なくない?」

「その時はまず警察に連絡よ。その後みんなを集めて一緒に行動しましょうよ」

 驚くべきスピードで決め事が作られていく。実際は他の台詞もあるのだが、僕にはこのくらいの会話速度に聴こえる。僕は元からおとなしい方なので無理に会話に入ろうとしなくても良いことが幸いだったと言えるだろう。

 結局、三人一組で学校周辺を捜索することが決まったらしい。僕は他クラスの男子二人組と神社と同じ方向に行くことになった。最初に軽い挨拶だけをして、話しかけられない限り無口を貫くことにする。

 捜索はゆっくりと進んでいった。主な原因としては、僕が敢えてそうしたからというものが挙げられるだろう。神社の方向は簡単に進ませてはいけない。神社を探したからと言って見つかるとは思えないが念のためだ。

 今日は二時間くらい捜索しようという提案があり、今は一時間を少し過ぎたところだ。学校から少し離れた空き家の周辺を探している。誰も空き家に入る勇気は出なかったのだが、なるべく時間を稼ぎたいので庭に入り込んでみた。僕の後を恐々と二人が付いてくる。

 まるで本当に心配しているかのように足立さんの名前を呼んでみる。そして残念そうな表情を浮かべ、また探し始める。そんなことを繰り返していると二人組の内の一人が話しかけてきた。

「ねえ、大村君って足立さんのことどう思ってるの?」

「はい?」

 突拍子もない質問に一瞬頭が混乱する。

「え、どうしたの急に。どう思ってるって、具体的には?」

「ああ、ごめん。実は足立さんが君のこと狙ってるって噂聞いたことがあってさ。その、女の子としてどう思ってるのかなって」

 女の子としてって、そんなの言える訳がないじゃないか…。僕と彼女の間に何があったか知らない者は、無遠慮な質問を吹っかけてくる。落ち着け、平常心を保って普通に答えるんだ。平凡な答えを出すんだ。

「別に、ただの友達だよ。それ以上の感情は抱いたことがない」

「ふーん、やっぱりそうなんだ。まあ、そりゃそうだよね」

 彼は少しいたずらっぽく笑う。もう一人の子と笑い合って、話し出す。

「何聞いてんだよ、お前。大村君が足立さんを好きな訳ないだろ。だって、あいつの顔ヤベえもんな。すんげえブス」

「何てこと言うんだ!」

「え?」

 ブス、という言葉に対して思わず怒鳴ってしまい、その直後に我に返る。しまった、つい反応してしまった。

「あ、いや、だってそういうのは良くないよ。だって、人は外見だけじゃないんだからさ。大事なのは中身って言うじゃん、ね」

「お、おう。そうだな」

 異様な反応を見せた僕に二人は多少引いているようだった。でも仕方ない。彼女をブスだなんて言ったからだ。それは僕が今一番気にしている言葉なのに、罪悪感を煽ってくるようなことを言うなんて。やっぱりおとなしくしておくべきだ。早く家に帰って寝たい。夢の世界にできるだけ長く浸っていたい。僕の罪から、逃げたい。

 ずっとそういう風に考えながらその日の捜索を終えた。僕が怒鳴って以降、一緒にいた二人は何も話しかけてこなかった。


 土曜日。七月二十一日。休みの日なんてお構いなく捜索は行われた。おまけに終業式は昨日で、今日から晴れて夏休みなのだ。僕はちっとも心が湧きたたないが、みんなはアホみたいにウキウキで、これからの捜索は各自で、みたいな話になるものだと思っていた。そんな僕の予想は見事に裏切られ、夏休みは午前組と午後組に分かれて毎日捜索を行おうという話になった。僕の想像以上にみんなは清く、優しかったのだ。自分が犯人でなかったら楽しいんだろう、と何かの漫画の主人公が言っていた気がする。僕の場合は楽しい、ではなく気分が良いとかになるのだろうけど。

 とりあえず、今の気分は最悪なのだ。僕は午前組に参加したのだが、蒸し暑い日差しの中、最早生きてはいないと分かっている人を探すのは苦行でしかなかった。しかも自分はその人の死を自分の都合で隠匿したのだ。罪悪感はとめどない。

 なんとか捜索の苦行に耐え、ようやく僕の部屋のベッドで横になることができた。一刻も早く眠りに就きたい。

 それなのに、足立さんのことが頭に浮かぶ。今なら正直に言えばどうにか許してもらえるだろうか。法的にはその可能性もある。少年院まで行かなくても済むかもしれない。だからと言って社会的にそんなに上手くはいかないだろう。自分を好いてくれた女の子を自殺まで追い詰め、さらにはその自殺を隠したクズ。こんなレッテルを張られるのだろう。そうなったら次は僕が生きていけなくなる。

 ああ、辛い、苦しい。さっさと寝て一時逃避してしまいたいが全然眠れない。暑い、熱い、気持ちが悪い。こんな罪悪感を与えるくらいなら早々に罰してくれればいいのに、神様はいじわるだ。寝転がっているベッドの上が鉄板のように焼けてくる。

 なんたって僕は確実に罪を犯したんだ。彼女に酷い言葉を浴びせ、無かったことにしようと隠した。あの時は穴を掘るのに夢中で気づかなかったが、僕は自分の罪を隠したかったんだ。きっとそうだ。今なら分かる。

 でも彼女も多少は悪いところがあるよ。男なんてこの世に呆れるほどいて、呆れるほど愛に飢えている奴らばかりなのに、一度フラれただけで人生を諦めるなんて。あの程度のショックぐらい乗り越えていってもらいたかったな。そうすればもっといい人が現れたかもしれない。お互いを愛せる丁度いい相手が見つかっただろう。きっとそうだ。

 勉強机の上にはプリントの束。勉強なんてやる気が起きるわけない。喉が渇いた。水を飲みに行くのもしんどい。椅子が、カーテンが、部屋の隅に転がるサッカーボールが、みんな赤紫色に見える。汗も出る。早く寝たい。


 しばらく自分の呼吸の音を聴くのに意識を集中させていたら、いつの間にか辺りは暗くなっていた。どうやら少し眠れたらしい。安堵感が湧く。

 部屋のドアをノックしてお母さんが入ってきた。時刻は夜の八時、いい加減起きてご飯を食べなさいと言う。久しぶりにお腹の減りを感じた僕は素直に部屋を出ていく。

 食卓に並んでいたのはビーフシチューだった。肉色の濃厚そうなスープからは湯気が上がっている。明らかに季節感を間違えている。でも、おいしそうだ。

 お母さんとの他愛ない会話をしながら席に着く。スプーンを取ると、なんだか不気味に光った。よく分からないが、変なことは気にしない方がいいと食事を始める。ビーフシチューの中にスプーンを突っ込む。

 最初に取りだしたのは主役の牛肉だった。その姿を見た時、急に僕の手は止まった。

 これは牛の肉だ。生きていたのを、殺して獲った肉。冷たくなった足立さんに触れた時のあの感触が蘇る。死んだ、肉。肉塊。耐えられなくなりスプーンを落とす。

 お母さんが驚いた顔で僕を見る。愛想笑いを浮かべて急いでスプーンを拾うが、二回も落とし直してしまう。

 なんだ、おかしいぞ。こんな感覚初めてだ。あの日以来様々な異変を感じてきたが、今の妙な感覚はどれとも違う。まるで、この世の全ての人の罪悪感を背負ってしまったようだ。

 食卓の上には白いご飯。その横にはちりめんが袋ごと置かれている。その全てと、目が合った。死体の山だ。この死体たちを、僕は今からこの白いご飯にかけて噛み潰していくんだ。それは、なんて恐ろしいことなんだ。

 そう思うともうダメだった。今日の夕食が全部死の塊に見えて、食べられるものが無くなってしまった。かろうじてビーフシチューのスープを飲んでみたが、死者たちが浮いている汁を飲んでいるようで一口啜っただけで止めてしまった。これ以上はもう、罪を背負いたくない。罪悪感を刺激しないでほしい。僕の頭にあるのはそんなことだけだった。

 結局、お母さんの心配も無視してその日から三日間、部屋に閉じ籠った。その間口にできたのは水だけだった。


 火曜日。七月二十四日。久しぶりに日の光を浴びた。太陽はこんなにも痛いものだったのか、と家を出て気づく。急いで帽子を取りに戻る。

 今日家を出たのは、再び足立さんの捜索に参加するためだ。閉じ籠っていた三日間、同級生たちには風邪をぶり返したと説明しておいた。彼らは無理をしなくていいと言ってくれたが、部屋の中にいる間に僕がたどり着いた考えは贖罪を行うことだった。足立さんを探し続けてあげることで罪を償うことになるかもしれない。そんな想いに駆られたのだった。

 おかしなことを言っていることは心のどこかで分かっている。隠したものを探すふりをすることの何が罪滅ぼしになるだろうか。何の意味もありやしない。でも、意味が無いからこそ、僕はその行動を続けるべきなんだと思う。どこかの国では囚人に穴を掘らせ、埋めさせる。そしてまた掘らせ、埋めさせる。こんなことを繰り返させるらしい。もちろんその行為には意味が無い。だからこそ最高の罰となっているらしい。この三日間で読んだ本に書いてあったことだ。

 僕には足立さんを探すことが意味の無いこと。だからこそ自分への罰となる。おかしなことを考えているものだ。でも、理屈は通っている気もするのだ。

 背負っているバックから水筒を取り出し、一口飲む。この三日間で僕はすっかり水のとりこになってしまった。僅かながら甘みと塩気を感じるようになってしまっているのだから、どうかしてると思う。それはそれで、水だけでおいしいと思えたら幸せなのではないだろうか。またおかしなことを言っている気がする。

 友達に今日は参加できると連絡し、学校に向かう。聞くところによると学校周辺は隈なく探し回ったらしい。夏休みになって参加人数は四十人を突破したので、おかしくもない話だろう。

 学校に着くと既に十九人が集まっていた。午前組は二十三人が参加予定のはずだから、僕を入れたら後は三人。みんなのやる気が少し怖くなる。

 学校に着くとすぐに二人の男女が寄ってきた。僕を捜索に誘った男の子と、黒髪の眼鏡をかけた女の子だ。二人はそれぞれ男女のリーダーらしく、まずは僕の体調を気遣い、学校から二十分程の距離にある公園付近を探してくれと頼んできた。僕は一人だけでそこを探すらしい。好都合だと思った。まだ誰とも話したりはしたくない。心が不安定なんだ。

 近くにいた足の長い女の子が一人、一緒に行こうかと言ってくれたが丁寧に断った。その女の子は少し満足したように頷いて離れていった。足立さんに対してもこんな風な対応ができれば良かったなと、少しだけ思った。

 僕が着いてから三分後に全員が揃った。時刻は午前九時、みんなの眩しさが、僕の罪悪感を刺激する。耐えがたくてすぐに学校を後にした。

 とりあえずは公園に行ってみよう。そこを一周して見て回って、見つからなければ公園を中心に昼まで歩いてみよう。できれば道行く人にも目撃情報を訊いて、ダメだったらまた明日だ。いや、今日の午後の捜索に引き続き参加してもいいかもしれない……。

 犬の鳴き声に立ち止まる。耳を劈くような声。立ち止まった一瞬で僕は正常な思考に戻る。

 足立さんは見つからない。死んだんだ、僕のせいで。そして僕が隠した。あんな場所、誰も分かるはずがない。そんな所に隠したんだ、僕が。

 いつの間にか自分のしたことを忘れようとしていたことに嫌悪感を抱く。酷い、醜い、なんて奴だ。本当に嫌気がさす。自分に対して嫌悪感を抱くのがとてつもなく辛いことだと、僕は初めて知った。自分が相手だと逃げることはできないのだから。

 ここ最近は治まっていた吐き気が再び襲いかかってくる。胃の中は空っぽのはずなのに、それでもやってくる。目的地の公園へと走り出した。

 十分もかけずに到着した公園で顔を洗う。吐き気が治まると、一発自分の顔に平手打ちをくらわせてみた。その行為によってシャキッとするみたいなのがよくあるが、実際は何も変わった気はせず、痛みだけが残った。

 ため息をついて公園を見わたす。孫らしき子どもと遊ぶ老人、バス停のベンチに座り猫を撫でている少年、僕がいる所とは別の水道で靴を洗うおじさん。僕とは住む世界が違い過ぎる人たちがたくさんいた。

 その様子を眺めていると、急に全てがどうでもよくなって(そう思いたいだけかもしれない)、何かの儀式のように公園を一周して、後は日陰でのんびりしようと思った。鼻でため息をつき、ゆっくり歩き出す。

 老人と子どもが遊ぶブランコの前を通り過ぎ、公園のフェンス沿いに進もうと思った時、

「おう、そこの兄ちゃん、今日は何をしとんのや」

 靴を洗っているおじさんが話しかけてきた。

「えっ、僕ですか?」

「そら当たり前や、あんたの他にどこに兄ちゃんがおんねん」

「いやまぁ、そうですけど…。ちょっと、なんて言うか、行方不明の友達を探しています」

「行方不明ぃ?そら難儀なもんやなぁ」

「……はい」

 急に話しかけてきたおじさんは関西弁で喋った。ここら辺とは違う場所の出身らしい。

「おっちゃんは今何しとんのやと思う?」

「えっと、靴洗いですか」

「そや、大正解や」

 おじさんは満面の笑みを浮かべる。濃度がまちまちの無精髭が目立つ。その瞳は意外にも純粋な色をしていて、僕には直視できるものではなかった。

「俺な、たまにこうして靴を洗うんや。でもな、真っ白にはしたくないねん。ほどほどに使ってる感が欲しいねん。真っ白にしたら逆に使いづらくなるやろ」

「はあ」

 このおじさんはなんで僕に話しかけてきたのだろう。靴を洗ってる方暇に話し相手が欲しかったんだろうか。だとしたら非常に迷惑だ、僕にはやることがあるのに。と、足立さんの捜索を都合のいい逃げるための理由みたいにしてしまったことに嫌悪する。

「あれ、兄ちゃんの靴もなんや汚れとるなぁ。おっちゃんが洗ったろか」

「いえ、さっきも言ったように僕は友達を探してるんです。そんなにゆっくりしてられません」

「その友達は本当に見つかりそうなんか?」

「え?」

 おじさんの謎の質問に少したじろいた。まるで事情を全て知っているかのような謎の質問。純粋な瞳で僕を見つめてくる。

 その時、ふと、このおじさんなら全て話してもいいかもしれないと思った。理由も何もない。例えば、逃げを求める僕の弱さがそう思わせたのかもしれない。おじさんの目に心を揺さぶられたのかもしれない。

「それは…分からないです」

「やったら一休みしていきぃ。こんな暑いと倒れてしまうでぇ」

 少し悩んで僕は頷いた。どうせ休むつもりだったんだ。何も支障はない。裸足になって、おじさんに僕のスニーカーを渡すと、にっこり笑って磨きだしてくれた。

「兄ちゃん、名前は何ていうんや」

「凛太郎っていいます」

「そら、ええ名前やぁ。おっちゃんの子どももその名前にしようやって女房に言われたことあるわ」

「へぇ。おじさんは名前、何ていうんですか?」

「サイトーって呼んでくれや」

 サイトーさんは大きな音を立てて僕の靴を磨きだした。靴が壊れやしないかと、少し心配になる。

 サイトーさんはそれから、磨き終えるまで一言も話さなかった。話し相手が欲しいのではなかったのか。心で軽く文句を言って、することが無くなった僕はサイトーさんの観察を始めた。

 彼は見る限り三十代後半から四十代前半の男性で、無精髭を生やしている。身なりは良いとも悪いとも言えない感じで、何の職業をしているのかは想像がつかない。靴への思いやりを見るに、靴職人とかかもしれない。

 サイトーさんは靴を磨き終えるとたくさんのことを僕に尋ねてきた。通っている学校はどうか、彼女はいるか、家族はどうだ、勉強は、運動は。かなりプライベートなことまで根掘り葉掘り訊いてくるサイトーさんを、僕はどうしても迷惑に思えなかった。ゆっくり一つずつ答えて、意味もなく笑いあった。その間、僕は罪滅ぼしのことなどすっかり忘れて楽しんだ。

 午前中はずっとおしゃべりをして、お昼になる前にサイトーさんと別れた。彼は最後に、明日もここにおいで、と言ってくれた。思わず頷いてしまい、どうせ足立さんを探しはしないのだからと自分を納得させた。

 そのまま学校に戻って結果報告をして、家に帰った。午後の間はずっと自分の部屋に籠っていたのだが、夕飯を食べる前に罪悪感が蘇ってきて、大好物のしょうが焼きを前に食事は断念した。


 水曜日。七月二十五日。今日は昨日の公園よりもっと遠くの辺りを探すように言われたが、少し悩むふりをして公園に向かった。昨日の老人と孫はいなくて、代わりに小学生の集団がゲームをしている。バス停に座っていた少年は今日もいて、サイトーさんもいた。サイトーさんは僕を見るなり大音量で声をかけてきた。小学生たちの一人がチラッとこちらを見る。

 サイトーさんの座るベンチにまっすぐ向かっていき、頭を下げながら挨拶をする。。

「おはようございます。本当に今日もいるんですね。お仕事はいいんですか?」

「中坊がつまらんこと気にすんなやぁ。俺は夜中から仕事開始なんや。ほんで、今日は何しに来たんや」

「えっ、何しにって、サイトーさんが今日も来いって言ったじゃないですか」

「行方不明の友達はどないしたんや」

 その言葉に、心臓が内側にめり込んでいく感覚を覚えた。なんだかこの人は、予期せぬタイミングで心を攻めてくる。

「どうせ見つかりませんよ」

「お前には見つからんっちゅうのが分かるんか」

 その問いに僕は答えない。サイトーさんがベンチに座るよう促してくる。突っ立って黙ってても仕方がないので言われた通りにする。

 ベンチに座った僕にサイトーさんは話しかけてこない。こちらが黙ったことで、再び話し出すのを待とうとしているのは彼の優しさによるものかもしれない。

 その優しさにより数分間の沈黙が訪れた。僕は地面を見つめていて、サイトーさんは空を眺めている。何か、重大なものを探すように、じっと見上げたまま動かない。その姿を見ていると、ふと思い立って口を開いた。

「彼女はもう、死んでいるんです」

 サイトーさんがやっと視線を移す。まるでそこから声が発せられたように、僕の靴を見る。

「彼女ってのは、行方不明の友達のことか」

「そうです」

「死んでいるってのが分かっていて、お前は探しているふりをしてんのか」

「そう、です」

 そうなんです。贖罪のため、自分を苦しめ続けようとしているんです。僕は大きな罪を抱えている。許されないことを、したんです。言葉にせずに、そう伝えた。

 それ以上足立さんについては何も語らずに、僕はまただんまりを始めた。そんな僕と同じ状態になることを避けるがのごとく、サイトーさんは人が変わったように急に話し始めてくれた。彼が中学生だった時どんな子どもだったのか。彼が体験した青春を隈なく語ってくれた。甲子園にあと一歩というところで届かなかった話を聞いた時には、目頭を押さえる彼につられて目の辺りが熱くなった。

 話がひと段落し、太陽は僕らの真上にまで昇ってきた。暑さはピークに向かって最後の追い上げをみせる。僕はまだここにいたいと思い、近くのコンビニでパンとジュースを買い、サイトーさんとの会話を続ける体制を作った。友達には学校には寄らずに直接家に帰ると連絡する。

 このまま話を続けてくれと頼んだ僕に、サイトーさんは嫌な顔一つ見せなかった。彼は夜から仕事が始まるらしいから、昼は寝ていなくてはならないはずなのに普通に起きている。もしかしたら昼飯を食べてから仕事まで寝ようとしていたのかもしれないと思うと申し訳なかった。お詫びに冷たいジュースを買う。

 そんな僕の気遣いはまるで関係なさそうに彼は話す。やけに笑顔だし、やけに饒舌だ。出会ってまだ一日と少ししか経ってないのでお互いのことなんてよく分からない。もしかしたら今の状態がサイトーさんの普通なのかもしれない。それでもただ、彼が嬉しそうに見えるのは、そうあってほしいと僕が望んでいるからかもしれない。

 午後は主に彼の人生論について語ってくれた。人はいつか死ぬんだし人類もいつか無くなる。そのことが分かっているのにがんばり続ける僕たちは何なのか。そこまで分かっていて働き続けるのはやはり楽しみたいからではないだろうか。何よりも楽しんだ者が勝ちだ。サイトーさんの、僕の倍以上はあるであろう人生経験を踏まえた結論はそうなっているらしい。少し乱暴な気もするが素敵な考え方だと思う。いつも笑顔で楽しんでいられるのならどんなに気持ちいいだろうか。僕もその状態に近づきたい。そう話すとサイトーさんは頭を撫でてくれた。

 その掌の中で僕は思い出す。足立さんのこと、彼女の楽しめる人生を奪ったことを。そして隠したことを。僕を撫でるこの掌は全てを知っていて、僕を握りつぶしにくるのではないかと恐怖に苛まれる。それでもその手をどけられない。サイトーさんの綺麗な瞳が笑うのが嬉しくて、でも掌が怖くて、僕はほんの少し涙を落とす。

 サイトーさんは驚いた様子で掌をどけてくれた。ほんの数滴しか涙は出なかったのだが、それでも雰囲気を壊すには充分だった。公園からはいつの間にか小学生たちの姿が消えていた。太陽は暑さのピークを過ぎ、萎れていく。帰らなくては。このままここにいては彼女に悪い。僕に悪い。

 急に泣き出して帰ると言い出した僕をサイトーさんは見送ってくれた。明日からもここにいると別れ際に告げて、大きく手を振ってくれた。ここが僕の正しい居場所なのではないかと勘違いするほど、猛烈に嬉しさが込み上げてきた。


 木曜日。七月二十六日。もちろんサイトーさんの元へ行く。


 金曜日。七月二十七日。サイトーさんの元へ行く。


 土曜日。七月二十八日。サイトーさんの元へ。


 それからもサイトーさんの元へ通い続けて一週間が過ぎた。場所はいつもの公園。やるここといえば、雑談とスマホゲーム。僕が薦めたものをドはまりしてくれて、二人で極めようとしている。蝉の抜け殻が目立つ季節、湿り気を帯びた暑い空気の中、二人は楽しい時間を過ごした。サイトーさんは楽しいかどうかは分からないが、僕は何よりも楽しく大切な時間だった。彼と一緒にいる時は足立さんを意識しないようになっていたが、別れ際には必ず思い出してしまう。不思議なことにサイトーさんが敢えて思い出すように仕向けているようにも感じたが、本来僕は彼女を忘れてはいけないのであって、そこから逃げてしまわないようにするには思い出させてくれた方が好都合だった。思い出させてくれているのかは確信できなかったが、僕はいつも感謝の念を抱きながら公園を後にするようにした。


 月曜日。八月六日。僕の学校では登校日になっていて、みんなで一緒に原爆の落とされた時間に黙祷をする。僕は学校には行かずに、ここ最近の決まりごとのように一人公園に向かった。サイトーさんはまだ来ていなかった。いつもならこの時間には来ているので少しおかしいなと思う。昼までには来るだろう、といつものベンチに座る。午前八時十五分、広島方面を見て、目をつむる。

 目を閉じている間は何も考えない。僕のような人間が戦争の犠牲者に何を想えば良いのだろうか。想えることなど何もないはずだ。ではこの目は何なのだろう。重々しくも清らかに閉じられた目は何をしているのだろう。サイトーさんが来たら尋ねてみようかな。彼なら答えを出してくれそうな気がする。だから彼が来てない今は考えない。

 中々サイトーさんが来ないまま時間は過ぎ、午前九時頃に、今日は足立さんの捜索はなし、という連絡が来た。みんな久しぶりに会う友達が多いから、今日くらいは遊びたいのかもしれない。僕も本来ならそちら側にいるはずだった。特別なことなど何もなくても幸せな中学校生活を送るはずだった。

 そんなに羨ましいならあっちへ行っちまえよ、と声がする。全部知らないふりしてさ、みんなと一緒に足立さんを探して、見つからないなーってため息ついてみたりして。そんでたまには遊ぶんだ。夏休みだもの、そのくらいは構うもんか。

 その声は男のものなのか女のものなのか、それすら分からない。意識すればどちらにも聴こえてくる。

 公園のベンチなんかに座って、君は何をしているんだ。サイトーさんを待つの?待って、彼に会って、それでどうするんだよ。足立さんのことを相談できる訳じゃない。遊ぶなら同世代の子との方が楽しいに決まっている。何かをもらえるでもない、特に大事な用があるでもない。全部忘れて普通の中学生として生きていきなよ。

 この声はやたらと僕を堕とさせようとしてくる。僕の中にあるもう一人の自分みたいな奴の声なのだろうか。漫画とか小説でよくある表現だ。だとしたらこの声の持ち主は、現実から逃げたがっているもう一人の僕ということになる。僕はそこまでおかしくなったのだろうか。

 と、いきなり大きな叫び声が聴こえた。声のした方を見ると女子中学生の集団がいた。叫んだであろう子がスマホを見て何やら叫んでいる。嬉しそうだ。

 もう学校が終わった時間なのか。それなのにサイトーさんは来ない。何か事情があるのかもしれないけど、連絡を取る手段が無いのでただ待つしかない。さっきの女子中学生たちを見て今はお昼時なのだと知った。ダッシュでコンビニにおにぎりを買いに行き、急いでベンチに戻ってくる。サイトーさんは来ていない。仕方なくおにぎりを頬張るが、二口食べただけで止めてしまった。例の吐き気がする。

 サイトーさんが来ない限りはすることが無い。そんな僕の暇つぶしをしてくれるような何かを求めて公園を見回す。誰もいない。何もない。蝉が鳴く。太陽は昇り続ける。汗も流れ続ける。いつも通りの景色。それなのに、サイトーさんは来ない。

 手元の時計を頻繁に確認してしまう。一時を過ぎた。二時を過ぎた。三時、三時半、四時を過ぎた。彼は来ない。ただひたすら僕の汗の量が増えていき、ペットボトルの中の水は減っていき、空いたペットボトルの残骸が増えていく。その繰り返しだ。

 五時を過ぎた。多分、心のどこかでは分かっている。今日はサイトーさんは来ない。理由などは分からないが、彼は来ないんだ。だからこうして彼を待っているのは純粋な無駄だ。完全な無益で、何の役にも立たない。そもそも彼がこんな昼間に公園にいることがおかしいのだ。現状が正常。そう、はっきりと分かっている。

 ではなぜ君はベンチに座り続けているんだい?再び声がする。

 早く帰って寝るなりゲームをするなり、好きなことをすればいいじゃないか。今は足立さんのことなんか考えていないんだから贖罪にもなっていない。早々に帰っちまえよ。そうすればみんなハッピーさ。

 僕は声なんか聴こえていないような顔をする。そうすればいつか声はしなくなるのだ。そうなる時をひたすら待つ。

 六時を回った。時間はあり得ない程にゆっくり感じられるのに、過ぎ去った時間はあっという間だった気もする。六時半、七時を過ぎる。空は紅くなっていくのに彼は来ない。あと一時間だけ、そこまで待ったら諦めよう。ん?諦める?何を諦めるんだろう。彼が来ないのは分かっているのに、諦めると言うのはおかしいだろう。

 ここにきて汗の量が最多になってきた。こんな状況で諦めるとか考えている自分を誰かに責められているようで、でも周りには誰もいなくて、怖くなる。

 あと三十分。また声が聴こえるようになる。帰れ、早く帰れ!見ていて気持ちが悪いんだよ。この公園からいなくなれ!今日聴こえた中で一番大きな声だ。そのおかげで誰の声なのかようやく分かる。

 足立さんの声だ。口調は男子のようだが、確実に足立さんの声なのだ。耳まで吐き気を感じているような気分になる。いよいよ耐えられなくなってしまう。

 あと十五分。早くこの場から逃げ出したい。ここにいる限り、彼女の声からは逃れられない。こんな声が聴こえることなんて無かったのに。サイトーさんがいてくれたら大丈夫なはずなんだ。早く来てくれ、僕はここから逃げられないんだ。あなたが助けに来てくれないとダメなんだ。サイトーさん!

 残り五分。時計の針が止まる。いや、よくよく見れば動いている。でもそれは、一周に一日をかける程のスピードだ。もちろん秒針の話だ。

 六十日が経つ。あと四分。百二十日が経つ。あと二分。最早何のためにこんなことをしているのか分からない。なぜ僕はここから出ていってしまわないのか分からない。本当に何にも分からない。

 そう考えているといつの間にか八時を過ぎていた。僕は即座に駆け出す。公園の出入り口に止まっていたタクシーにぶつかったが、そんなの気にせず家まで走った。実際の時間は十分、体感時間は二時間で家にたどり着いた。お母さんに夕飯はいらないとだけ言い残し、部屋で布団を被る。とてつもなく暑いが、今布団から出ると怒られるような気がして眠気を待った。ずいぶん長いこと待ったが、結局眠ることはできなかった。


 水曜日。八月八日。朝から空は曇っていた。この後に降り出すことを予感したが、傘も持たずに家を出た。お母さんは最近、頻繁に外に出る僕に満足しているようだ。以前は家の中でゲームをしているか、そうでなければ本を読んでいることが多かったからだと思う。外に出るからといって、元気に遊んでいる訳ではないのだがわざわざそんなことは言わない。言ったら野暮ってやつだ。

 そんなことよりもサイトーさんが来ない。昨日も一日公園で待ち続けたんだ。それでも彼は姿を現さなかった。そしてがっかりしながら、また、苦しみながら家に帰った僕はついに吐いた。お母さんが作ったカレーの肉を食べた瞬間吐いた。肉から死を連想したり、ちりめんが死体の山に見えるあの現象は最近起きていなかったのに突然吐いた。感覚としては、口の中で変に味のある粘土をこねている感じだった。噛んだらチューイングキャンディーみたいに歯にくっついてきて、何か考える前に吐いてしまった。

 お母さんは病院に行こうと騒いだが、軽い熱中症だと言い切って部屋に逃げた。不思議と流れて止まらない涙を枕で抑えながら寝ようとした。それでも足立さんが目に浮かんで離れずに眠れなかった。それに彼女はこんなことを言うんだ、「ねえ、なんで私を埋めたの?私が死んだのはあなたのせいでしょ。みんなに私の死体を見せて、僕が殺しました、って言っちゃおうよ」。これを一回言うと消え、また現れては言って消える。そんな繰り返しだ。台詞が変わればまだマシだったかもしれない。

 昨日がそんなだったのだから今日くらいは家でじっとしてればいいと自分でも思う。それでも足は公園に向く。サイトーさんに会うために。彼に会えば僕の何かが救われると本気で信じているのだ。

 彼の何がそんなにいいのだろう。相談に乗ろうと言ってくれはしないし、声はでかくてうるさいし、昼飯を僕に奢らせようとしてくる。もしかしたら彼じゃなくてもいいのかもしれない。話を聞いてくれる人なら誰でもいいのかも。それでも僕には他に話を聞いてもらえる人がいない気がする。いや、みんないい友達だ。僕が話そうと思えてないのかもしれない。きっとそうだ。

 フラフラした足取りだったがなんとか公園に到着した。最近は学校にも顔を出していない。スマホで友達とはやり取りをするだけで会おうとしていない。だから家から直接公園に行く。

 公園を一通り見回すがやっぱりサイトーさんの姿は無い。家を出る前から予想できたことだがわざとショックを受けてみる。もたれかかるようにしてベンチに座った。

 お昼までは結構短い。実際の滞在時間も午後よりは短いのだが、そういうことではなくもっと感情的な時間のことだ。午前中は、散歩する人や親子連れで意外と公園も賑わうから、視覚的にも暇しないのが大きな要因かもしれない。だから午前中だけはいつも心が落ち着いている。

 腕時計の短針と長針が真上で重なったのでコンビニへ行く。今日は前みたいに急いだりしない。僕が公園から離れている間に彼が来るならそうすればいい。入れ違いになってしまうことがあっても今なら諦めて受け入れてやる。そんな気持ちなんだ。

 コンビニの中はは叫んでしまいそうな程涼しい。地球温暖化なんて気にせず二十四時間点けっぱなしの(おそらくそんなことはないのだろうけど)エアコンの力は素晴らしいものだ。永遠にでもここにいたいと思うがそれは許されない。昼飯をなるべく時間をかけて選んで買って外に出る。その瞬間の暑さは全てのやる気を奪おうとするから厄介だ。抗うように公園まで走る。

 汗だくの状態で食べたサンドイッチの袋をごみ箱に捨て、持参した水筒を半分近く飲んで午後と闘う意思を固める。この時点で、おそらくサイトーさんは今日も来ないのだろうという諦めはついている。その状態でも彼を待つことが僕の贖罪に成り代わっているのかもしれない。だから決して無駄ではないのだ、と自分を納得させてベンチに座り直した。

 空一面の雲は容赦なく流れて行ったがサイトーさんは現れない。午後二時を回って、いつもなら僕の座っているここは日陰になるのだけどな、と無意味なことを考えた。いよいよ空は黒みを増した。

 三時に近づいた時、ついに最初の一滴が落ちてきた。周りには人がいない。お昼寝の時間だし、天気予報は雨だと教えてくれていたのだろう。テレビは見ていないが、雨くらい僕も予想していた。いつ席を立つか。今すぐでもいいのにタイミングを窺っていた。

 そうこうしている内にだんだん雨粒はその量を増やしていって、ちょっと木に隠れたくらいでは意味の無いくらい降ってきた。

 雨が降っても動かないでやろう、と決めていたのに、思わずトイレに逃げ込んでしまう。

 外からは誰かを叱るような強い音が聴こえてくる。外に出るのは怖いな、でもトイレの狭さも嫌いだ。今更になって傘を持って来なかったことを後悔する。

 結局、ずぶ濡れになりながらも帰ることにした。七時くらいまではトイレでサイトーさんを待とうかとも思ったが、案外トイレの狭さと冷たさには我慢ならなかった。


 何かを思うでもなく風呂場に駆け込んだ。シャワーのお湯を浴びた瞬間の快感と安堵感はすぐには忘れられず、三十分以上浴び続けた。

 風呂場から出ると仕事場から帰宅したお母さんと会った。雨で濡れたから風呂に入ったと告げると、逆にこっちが心配になる程、風邪を引いたりしないかと心配してきた。こんなに温かい母親にも足立さんのことは相談できない自分を惨めに思ってしまう。

 夕食に出されたのはロールキャベツだった。昨日は肉を食べたら吐いてしまったが、今日はキャベツに包まれているので大丈夫かもしれない。やおら緊張しながらいただきますを言って、箸で一口サイズに切ったロールキャベツをつまむ。

 果たして、結果は味がしなかった。完全なる無味。感触はあるが味はしない。初めての感覚に驚く。

 最初は本当に食べたのかと疑った。食べたと思っているだけで、本当は自分の舌でも噛んでいるのではないかとさえ思った。でも、確かに僕が食べた分のロールキャベツは消えていた。

 試しに匂ってみる。いい匂いがする。キャベツの青々しさとスープの豊かさが絡み合ったいい匂い。でも味はしない。不思議だ。

 最初の内はただ驚くばかりだったがどんどん不安になってきた。僕はこれから一生、味のしない飯を食べていかなくてはいけないのだろうか。ロールキャベツだけでなく、白米も梅干しも、麦茶でさえも味がしなかった。その結果、感じたのは純粋な恐怖。自分のしたことに対する罰だ、なんて考えも浮かばずにただ恐怖した。もちろん食事は途中で止め、自室に籠る。部屋の中でも片隅に、恐怖は不敵な笑みを浮かべて佇んでいた。

 布団を被って恐怖から目を反らす。奴は足立さんのことを何か言っている。それを聴くと恐ろしいという感覚は強まり、身体が震えた。八月だというのに布団を被っても寒く感じた。

 やはりサイトーさんに会わないとダメなんだ。何かを変える力を、あの人は持っているのだ。強引に決めつける。皮肉にも寒さを感じていることが良かったのか、震えている内に眠りに就いた。


 金曜日。八月十日。味覚は依然として戻らないままだ。味のしない何かを食べ続けるのは非常に不快で、例えばそう、味のしないガムを噛み続けたくない、といったあの感覚が続いているのだ。唯一変わらないのは水の味で、元から無味と言っていい程の水を頻繁に飲んでいる。腹の減りはそれで満たす。

 今朝はスマホにかかってきた電話で目を覚ました。電話の相手は足立さん探しに参加している一人の女の子だった。背は低く、代わりと言っては何だが胸が大きい、足立さんと仲の良かった子だ。電話の内容は、今日の捜索は私と一緒に行わないか、という誘いだった。意味が分からないと思った僕に、彼女は話があると告げた。声のトーンからして明るい話ではないことは容易に想像がつく。少なくとも足立さんみたいな愛の告白ではなさそうだ。寝起きながらも正常に判断し、安堵する。

 待ち合わせは学校。みんながいつも集まっている時に会って一緒に動くことになった。その子の顔は思い出せないが、声と身体的特徴は分かっているので見つけられるだろう。

 朝飯としてトースターでパンを焼き、これでもかというくらい大量にジャムを乗せたが味はしなかった。不快感が募る前に水で流し込み家を出る。

 本日は快晴なり。雲一つくらいあってもいいと思うのだが、容赦なく太陽は照りつける。背の低い女の子と会うまでに倒れないだろうか心配だ。

 夏休みだと言うから元気に遊び回っています、とでも言いたげな小学生たちが横を通り過ぎている。その光景をどこか俯瞰的に眺めながらも足を動かす。熱中症の前兆なのか、足元には現実感が無い。小学生たちは瞬く間に遠くに消えていく。

 ふらりふらりと歩きながらも、十分かそこらで学校に着いた気がする。実際のところは全く分からない。集まっているはずのみんながいないから三十分くらいかかってしまったのかもしれない。背の低い女の子が不機嫌そうに立っている。

「やっと来たね。遅れるなら連絡ぐらいしてくれてもいいんじゃないの」

「ごめん」

 やっぱり遅れてたんだ。かなり大きめの憤りを一言であしらわれてしまったからなのか、彼女はさらに不機嫌そうな顔をした。それでも僕は一切表情を変えない。それでも許されることを、僕は知っている。

「もういいから真凛ちゃん探しに行くよ。それで、大村君はどこまで探したの?」

 スマホのマップを開き適当な辺りを指でなぞる。偶然にも妥当な範囲を指さしたらしく、そうだろうと思った、といった感じで彼女は頷いた。

「それじゃあ早速行こうか」

「あれ、話ってのは何なの?ここでサッと話せる感じじゃないの?」

「何よ、そんなに急ぐことないでしょ。こんな所でサッと話す内容じゃないしタイミングも早すぎる。私たちそんなに仲いい訳じゃないんだから」

 そんなものなのか。とりあえずここは彼女に着いて行こう。

 微かな不機嫌さを残していることが分かるような歩き方で彼女は前を歩く。僕はわざと横に並ばないように歩いて行く。彼女は何も話さない。僕も何も話さない。そんなこんなでどんどん進んでゆき、いつもの公園の前まで来た。ふと、立ち止まって公園内を眺める。いつも通り、子供たちが遊んでいたり老人が犬の散歩をする中にはサイトーさんの姿は無い。分かっているのに何となく寂しくなる。僕は今日もここで彼を待つべきなのでは、という考えが浮かぶ。

 そんな僕を後押しするような風が吹き、一歩足を踏み出そうとした時、背の低い女の子から声をかけられる。不審そうに眉を寄せて僕を見ながら、寄り道なんかしている場合じゃないんだということを告げ、返事も待たずに先を歩き出す。どうもこの子とは深く関わらない方が良いという直感がした。


 サイトーさんのことを意識してからは時間が長く感じられた。なにせ今は目的地が無い。足立さんを探して歩きまわるだけで、見つからないことを知っている僕には最悪な時間だ。おまけに目の前を歩く彼女は何も話さない。仲良くなる気はないことがよく分かって、いよいよ話をしてくれるのがいつになるのか分からなくなってきた。そんなことばかりを考えている僕の頭には贖罪の意志なんてほとんどなくなっている。足立さんのことを考える時間も減ってきている。そのことはちゃんと自覚しているのに、それに対してどうかしようという気持ちにはなれない。逃げを求める僕が顔を出してきたのかもしれない。

 と、急に目眩がする。視界が歪んで、暗っぽくなって、バランスを保って立つことが難しい状態になって、電柱にもたれかかった。前を歩く女の子は、足音がしなくなったことに気がついたのか、道端の小石でも見るかのように振り返る。一瞬、酷く迷惑そうな顔をして大丈夫か、と尋ねてきた。僕は何か彼女に嫌われるようなことをしたのだろうか。会った時から露骨に態度が悪い。

 大丈夫だ、と答える代わりにどこかで休憩することを提案する。捜索を開始してから約二時間、ほとんど休まずに歩いている。最近まともな栄養を摂ってないことなど関係なく倒れそうになってもおかしくない状態だ。彼女が平気そうなのがどうも理解できない。足立さんを想う気持ちさえあれば彼女のように動けるのだろうか。

 ここでまた不満そうに僕の提案に従い、彼女は近くのベンチに座った。昼飯時だから飲食店にでも入りたいのだがそんなことを許してくれそうにもない。観念して彼女の横に座る。

「ねえ、話って何なの。そろそろ話してくれてもいいんじゃないかな」

 僕の突然な問いかけにも彼女は表情を変えない。手元に抱えたスマホの画面を睨み続けている。

 このままずっと話してはくれないのではという現実味の無い不安を感じる。現実味が無いからと言って現実には起こらないと言う訳ではないので、催促するようにもう一度話しかけようとした。すると、僕の口が動くよりも先に彼女が長いため息をつき、スマホから顔を上げて、一旦左右を確認し僕を見た。その目は貫かれそうな程鋭い。

「分かった、あんたも具合悪そうだし、そろそろ話すわ。それじゃあ早速確認だけど、あんた真凛ちゃんに告られたんでしょ?」

「え?」

 とても意外な質問だった。この女の子と足立さんは常に一緒にいると言っても過言ではない程仲良しで、まさか足立さんが告白したことを知らないとは思ってなかったからだ。それなのにこの口ぶりでは、告白のことを感づいていても知りはしなかったようだ。女の子とは分からないものだ。

「夜中まで泣き続けた日があったらしくてね、その日以降ずっと元気がない感じだったからピンときたの。あんたあの子をフったんでしょ?」

「え、ああ、まあそうだけど……」

「一体何て言って断ったのよ。こうやって失踪してしまう程酷いこと言ったんでしょ」

 その言葉を聞いた瞬間は、脳に酸素が無くなってしまったのではないかと思った。余りにも的確な指摘が、前触れもなく突如現れたのだから仕方がない。再び目眩がして倒れたくなる。しかし、ここで間を開けたら彼女の指摘は正しいと言っているようなものだ。強気な態度で断固否定しなくてはならない。

「そんな!僕は普通に断っただけだよ。ただ普通に、ごめんなさい、の一言で断ったんだ。信じてくれ」

「なんだか急に声が大きくなったわね」

 今度は息が詰まる。もしかしたらおかしな態度をとってしまったのかもしれない。彼女に疑われてしまったのかもしれない。案外彼女は強敵なのかもしれない。僕が足立さんに対して犯した罪は暴かれてしまうのかもしれない。

「何言ってんだよ、声も大きくなるさ。だって僕が足立さんの告白を断ったのは事実で、酷いことなんて言ってなくても失踪の動機にはなり得るものじゃないか。それを君は分かっているはずなのに、そんな、決めつけるようなこと言うから」

「ちょっ、も、もう分かったから。そんなに大きな声出さないでよ」

 僕自身はそんなに大きな声を出したとは思っていなかった。それでも彼女は周りを気にしてしまう程大きな声を出された、と言わんばかりの迷惑そうな顔をする。どうしてこの子は迷惑そうな顔ばかりするのだろう。元からこんな顔なのかもしれない。

「本当にただ普通に断ったのね?」

「もちろんそうだよ。頼むよ、信じてくれ」

「ふーん……」

 二人の間に奇妙な沈黙が流れる。お互いがあらぬ方向を向いて、どちらかが話し出すのを待っているかのようだ。僕は彼女の出方を見て言動を選んでいかなくてはならない。彼女は僕をどう扱っていくのか悩まなくてはいけない。互いが互いの行動を制しあう。

 具体的な時間は分からないが、ずいぶん長い時間(少なくとも僕にはそう感じた)が経って、静けさを壊したのは背の低い女の子だった。

「と、とにかく事情は掴めたわ。あんたは真凛ちゃんの告白を普通に断った。そして真凛ちゃんを本気で探そうとしてくれている。それでいいわね?」

 多分、それで僕には何の支障も無いはずだと判断し、小さな声で返事をする。

 そんな僕の反応を見た彼女は、溜め込んでいた疲れを吐き出すようなため息をついた。最近、誰かのため息を聴くことが多い気がする。自らのものも含めればその量は計り知れないだろう。

 これからどうするんだろう、と背の低い女の子の様子を窺おうとした時、彼女がベンチから立ち上がった。反応が遅れた僕のことなんか知らない、といった風で歩き出す。その方向は今まで歩いてきた方向だ。その姿を見ながらも僕はベンチに座ったままでいる。

「今日はもう帰るの?」

 彼女は答えない。私の仕事はもう終わった、と小さな背中で語りながら歩いて行く。そんな彼女の姿は僕には恐ろしいものに思えて、後を追わなかった。何か、僕の今後を脅かす、そんな風に見えたのだ。

 彼女は幾分か僕から離れ、振り返って僕が来ていないのを確認し、小さく手を振って帰って行った。

 一人取り残された(自ら取り残された)僕には、今日の彼女の言動の意図は分からない。突然僕の心のテリトリーに寄って来て、僕を一瞬の間に脅かし去って行った。後に残ったのは妙な不安。僕は知らず知らずの内にかいていた汗を拭う。これからどうしようか。彼女を放っておいて良いのだろうか。そもそも、僕はどうしたいんだ。足立さんに贖罪がしたいはずだ。ともすれば、僕は何をするべきなのか。

 最近罪悪感は少なくなっていたりする。思い出したように悩んで、すぐに他のことに気を取られてしまう。そんな毎日だ。良くない状態だということは理解している。

 いっそのこと、誰かに話してしまおうか。そうすれば、どっちつかずの状態から解き放たれ、精神的には楽な状態になれるかもしれない。足立さんにとってもそうするのが一番なのかもしれない。久々に声がする。足立さんの声で、逃げちまえよと延々と繰り返している。

 暑さのせいで頭がぼぅっとしていて、はっきり物事を考えられる状態でなかったことが良かったのかもしれない。依然として声は聴こえ続けるが難しいことは考えたくないので無視することができた。そうだ、サイトーさんに相談してみよう。彼ならきっと正しい進路を示してくれるに違いない。やっぱり彼と会わなくちゃ、結果ダメなんだ。

 帰りにいつもの公園に寄ってみようと決意してベンチを立った。サイトーさん、という言葉が頭から離れない。一種の麻薬のようなその言葉を反芻しながら、わが家への帰途に就く。


 土曜日。八月十一日。今日も学校に呼び出された。ただし、今回は僕だけが呼び出されたのではなく、捜索に当たっている全員に集合の令が下ったようだった。

 そんな呼び出しが原因か、今朝から頭が酷く痛い。風邪とかによる症状ではなさそうなことは自分の体なので分かる。おそらくストレスから来るもので、その点で言えば学校への呼び出しよりも昨日の背の低い女の子とのやり取りが主な原因なのかもしれない。

 おそらく彼女は気づいていない。足立さんは失踪したものだとばかり思っているのだろう。ただ一つ他の人間と違うのは、足立さんは自分の意志で失踪したと思っていることだ。他の人間はみんな誘拐や遭難の類を想像していることだろう。僕としてはその方がありがたいのだが、足立さんをよく知るせいか背の低い女の子だけは家出か何かを想像しているようだ。実際はそちらの方が真実に近い。

 家を出て、暑さに文句を言いながら学校までの道のりを歩みだすが、何も考えないでいるというのは今の僕には無理な話になってきた。深く考えすぎない方が楽でいられるのに、僕の脳はそれを許さない。そういえば、昨日の帰り道に悩んだ問題がほたらかしだ。あれはできるだけ時間をかけて考えておくべきである。

 僕は一体どうしたいのか。これからどうするのか。

 後頭部がズキンと痛む。今考えるのは得策ではないのかもしれない。しかし、思考というのは案外自分の思い通りに操れるものではないのだ。

 昨日はサイトーさんに相談するという結論に至った気がする。それではやはり心もとない。第一、彼に足立さんのことを話すのだろうか。僕にそのようなことができるのか?僕の知る僕はいざとなったら思い通りの言動ができない人間のはずだ。人に頼るのは、今回に限って避けるべきに思う。

 そうこうしている内に学校が遠くに見えてきた。思考は別のものにすり替えなければいけない。そもそも今日は何があって呼び出されたのだろうか。そのことを無理にでも考えよう。

 集合場所の中庭へ行くと、足立さん捜索に参加している総勢五十人程の人間がざわめいていた。どうやら僕が最後の一人だったらしい。

 一目見る限り、どうやら男女で大まかに分かれているらしい。これから何かを起こしてくれそうな若さのエネルギーに満ちているが、両方からは対立しているような雰囲気が窺える。事情が分からないなりに、僕は一体どうすれば良いのかとあちこちを見回していると、僕を足立さん捜索に誘った男の子が話しかけてきた。

「よう、久しぶり。なんかさ、男子たちが何人か捜索を止めたいって言い出してさ、女子の一部の奴と言い争いしてたんだ。そしたらお互いに賛同者が出てきてさ、男子対女子みたいになっちまったの。そんでみんなで今後の動きを話し合おうって言って集まってもらったんだけど」

 僕が知らない内に大きく話が進んでいたのは意外だった。どれ程僕が友達を避けて過ごしているのかがよく分かる。そして、話を聞いた瞬間に足立さん捜索が無くなるという、またと無いチャンスが巡ってきたことを理解した。ここで捜索を終わらせれば僕も少しは落ち着ける。

「凛太郎もどっちに賛成か決めといてくれよ。これからみんなで話し合う」

「うん、分かった」

 では止めたい派に賛同して捜索を終わらせてやろう、と決意した時、横に背の低い女の子が立っていることに気がついた。僕と目が合うと辛そうな様子で口を開く。

「みんな酷いよね。真凛ちゃんの目撃証言すらまだ無いのに捜索止めるなんて。真凛ちゃんがいなくなってもいいってことなのかな。だとしたら本当に酷いよね」

「あ、あ~、うん、そうだよね」

 出鼻をくじかれた(そう言うべきなのだろうか)僕は曖昧な返事で場を濁す。幸いにも全員での話し合いを始めるという呼びかけがなされたので僕たちの会話は途切れた。

 完全に忘れていた。あの背の小さい女の子にとって僕は捜索続行側になっている。それも昨日、僕の意志を確認されたばかりだった。今思えば彼女は、一部の男子から中止の意見が出ているのを知っていたのではないか。昨日のことは確認と言うより釘射しで、一人でも多く捜索続行を支持する人間を増やして中止させない雰囲気を作ろうとしている気がする。昨日の彼女の鋭い眼差し。あの恐ろしさはきっとそういうことなんだ。想像以上に警戒しなくてはいけないかもしれない。

 中庭に集まった生徒達は二人のリーダー格を囲むように円を作る。中心では僕を捜索に誘った男の子と、黒髪の眼鏡をかけた女の子が何やら話を進めている。それによると、中止派は、それぞれの時間をどう使うかは自由なのだから探したい人だけで捜索を続ければいい、という意見らしい。一方続行派は、同級生が行方不明になっているのだから見つかるまで捜索を続けるのは当然、一度参加した以上は途中で止めるなんてしないでほしい、とのことだった。なんとなくだがどちらの言い分にも頷ける気がする。

 リーダー格二人の話が一通り終わると、誰ともなく野次のような文句が飛び交い始めた。

「一回参加したら抜けられないってなんだよ。前から思ってたんだけどさ、そんなこと言うくらいなら学年の奴全員集めてこいよ。そうすりゃ早いだろ」

「そんなことできる訳ないでしょ」

「参加できない人は可能な時間に捜索してくれるって言ってんのよ。その人たちは最初から捜索に参加できるかどうかちゃんと考えた上でやってんの。参加した以上はちゃんと探してよ」

「なんだよ、なんでお前らに俺らの行動を決められなくちゃいけないんだよ!」

「なによ、決めているわけじゃないでしょ。友達がいなくなってるんだから探すのは当然でしょって言ってんのよ!」

「それだよ、当然って決めつけてんだろ。俺らに決定権はないのか⁉」

 僕はしばらくの間この罵り合いを眺めていたのだが、どちらも引かず、銘々に関係のない話を始める者たちもいて、カオスな状態になって収まりがつかなくなってしまった。そんな状態が続くものだから、当然リーダー格の二人は場を収めようとする。すぐさま持ち前のリーダーシップで言い争いを抑え、多数決という提案をする。中止派が多ければ止めたい人は捜索を止める。続行派が多ければ今後も全員で捜索を続ける。そう取り決められた。これらの一連の流れは端から見ていれば少しおもしろかった。

 しかし、おもしろがっている場合ではない。リーダー格たちは多数決を取り出した。なぜか一人一人尋ねていくという高率の良くない方法で。しかもそれぞれ理由を述べさせられている。

「えっと…僕はちょっと勉強する時間がなくなってきたので中止にしたいです」

「私は絶対続行。真凛ちゃんがいないのに私たちだけ普通に生活していくなんてあり得ない」

「私は正直どっちでもいいんだけど中止で。やっぱりやりたい人だけがやればいいと思う」

「俺はー、えー、続行で。足立さんかわいそうだし」

 思いの外みんなスムーズに意見を述べていく。その答えに対して、中止派は続行派が出るとわざとらしい舌打ちをしたり、続行派は中止派が出るとヒソヒソと仲間内で何かを話し合ってみたりする。その光景も少し滑稽でおもしろいのだろうが僕の番はもうすぐ、何を言うかまとめなくては。

「みんなで探せば絶対見つかるって信じてます。続行で」

 次の人。

「警察も捜索を続けてるんだし、僕らはそれぞれにやらなくちゃいけないこともあると思う。全体での捜索は中止にして、できるだけが人が捜索を続けるのでも充分だと思う」

 次。

「え~、ウチは~、どっちにしようかな?」

 次の人、は僕だ。僕の前で中止と答えた女の子が座り、僕が立つ。みんなの意識が僕に集まっているのを感じる。唾を呑んで、咳払いをし、声が掠れてしまわないための準備を整える。

「えーっと、僕は…中止で」

 視界の端に眉を寄せた女の子の姿を見た。あの背の低い女の子だ。僕は続行派に入ると完全に信じ切っていたのだろうから、さぞ驚きのことだろう。

「確かに足立さんが見つからないのは心配だけど、僕らにもそれぞれの人生があって、さっき言われたように警察が捜索してくれているから、僕らは足立さんが帰ってくるのを信じて待つべきだと思う。それが足立さんのためにもなる気がする」

 中止派がかたまっている辺りから感嘆の声が漏れる。続行派、特に背の低い女の子からは容赦ない視線を感じるが、僕は判断を間違わなかったと自分に言い聞かせて座った。

 僕が座ってからは中止派の優勢が続いた。僕の意見が正しいという雰囲気を中止派が漂わせ始めたことも関係あるのかもしれない。その様子を見ていた僕は、自分は正しい選択をした、とずっと頭で繰り返していた。そうしないとダメになりそうという感覚に久しぶりに陥り始めていた。

 数分後に最後の一人が座った。これで全員の多数決が終わったことになる。リーダー格たちが形式上話し合っているが結果は見えている。

 リーダー格たちの話し合いが終わり、結果が告げられる。中止派が多数だった。自分で言うのはおこがましいが、流れを変えたのは僕だった。中学生の多数決で流れを変えるのに立派な言葉はいらない。それとない感じのことを、それとなく言っておけば周りが勝手に流れを変えてくれる。中学生の僕が分析した結論というのがすこしおかしな気もするが。

 とにかく結果は決まった。これで足立さん捜索者が大幅に減ることになる。僕にとっては願ったり叶ったりだ。以上の結果を残し、そのままこの場は解散となり、多くの男子が夏休みを謳歌しに帰って行った。僕も今日は家に帰ろう、と学校を出ようとした時、またもや背の低い女の子の鋭い視線が目に留まった。ただ、それはいつものように鋭さがあるだけではなく、何か日光を反射して光るものがあった。涙だ、と思った瞬間、足が止まった。彼女はすぐにどこかに行ったが、僕は大きな違和感を抱えて家に帰ることになった。その違和感はしばらくの間消えることはなかった。


 月曜日。八月十三日。足立さんの死体を見てから一か月が経った。彼女はまだ二本杉の下に埋まっているのだろう。彼女を埋めたのは紛れもなく僕なのに、真実は別にあるという気分になってしまう。それはやはり、僕の心の弱さから起こってしまう現象なのであろうか。

 だとしたら何かしらの対処を取らなくてはいけないのだが、今一つその気になれない。正直なところ、贖罪なんて止めにして何もなかったとしてしまいたい。それがどれだけ許されないことなのかは分かっているつもりだけれど、何もかも忘れてしまえば心が楽になって踊り出してしまいそうであることを考えるとどうにもならない。そんなこんなで、どっちつかずの精神状態と行動を日々繰り返している。

 改善が見込める策は一つだけある。サイトーさんに頼ることだ。彼に会って相談すれば何かが変わるというのは僕にとっては決定的なことで、久しぶりに彼を求めて動き出そうという気になった。つまり、今日は公園に行く。

 味の無い朝食を済ませ、家から出ると天気は曇り。最近の身を焦がすような日差しが無いだけでもずいぶんと助かる。少し汚れたスニーカーで歩き出す。サイトーさんにまた洗ってもらえるといいなと思う。

 遠くで小さな、でもはっきりとした雷鳴が聴こえる。何かが起こるのだろうか、不意にそんな感情になる。そしてなぜだか、公園でサイトーさんが僕を待っているような気がして思わず駆け足になってしまう。もしかしたらそれは雷から逃げようとしたのをごまかしたかったのかもしれない。

 いつもより三分程早く公園に着いたのに、三倍くらい時間がかかった気がした。良くない天気、走っても長く感じる公園までの距離、足立さんという枷(これは逆恨み)。ストレスが溜まる要因はたくさん見つかる。現にストレスはかなりのところまで来ている。しかし、その全てを帳消しにする力が目の前に。いつもの公園のいつものベンチ。ずいぶんとご無沙汰になっていた人がそこにはいた。

「おー、凛太郎やんけ。なんや久しぶりやなぁ」

 サイトーさんは言っていることとは裏腹にいつも通りの口調で話しかけてきた。それでも嬉しく感じられたのだから、何も恐れずに言えば恋に似た状態にあるのかもしれない。自分でも顔が明るくなっていることを分かりながら、彼の名前を呼びながらベンチに走る。

「本当に久しぶりじゃないですか、ほんと、最近何してたんです?」

「あぁ⁉そんなん仕事に決まっとんやんかぁ。俺大人やでぇ?夜に仕事があるんに昼間に公園でのんびりしとん方がおかしいっちゅうねん」

 久しぶりに聴く関西弁に懐かしさと愛おしさを感じる。

 愛おしさを感じる、そのはずだった。

「ったく、お前こそ何しとったねん。あれは、行方不明の子っちゅうんはどないなったんや。まだ見つかってないんか?」

「あ、はい、そうです……」

 サイトーさんは大きなため息をつき、「何しとんねん」とあらぬ方向を見て愚痴をこぼすように呟いた。なんだかおかしい気がする。言葉に対して矛盾している現状、間違っている気もする関西弁、どぎつく香る酒の匂い、怒鳴りつけるような声量、乱れた髪と服装、汚れ切った靴。たくさんの違和感が目につく。

 そもそも僕は彼の多くは知っていないはずだった。話で聞いたのは過去の物語。本当かどうかも分からないし、彼の現在がどうなっているのかを全然知らない。それでも違和感を感じたことに違和感は無い。むしろ昔から彼を知っていた気がして、余計に違和感は強まる。

「あの、サイトーさんは今日は何を」「お前はそれでいいのかもしれんけどなぁ、家族とか本人の気持ちとか考えたったらどうなんや。あぁ⁉行方不明って、そら絶対いいことないでぇ。誘拐かなんかとちゃうん?やとしたらこんなとこで酔っ払いと話しとるお前は悪魔やぁ!」

「え?えっと……」

 やっぱり、明らかにおかしい。そもそも何でこんな時間に公園で酒飲んで酔っ払ってるんだ。お母さんは普段飲まないからいまいちよく分からないのだが、何か良くないことがあった時に人はこうやって酒に溺れるのではないかと思える出来上がりぶりだ。

 彼はどうしてしまったんだろう。僕と会っていなかったこの一週間の内に彼の身に何が起こったのか、まずはそれを解明しなくてはならない。

「あの、サイトーさん。一つ訊いてもいいですか?」

「なんやぁ!」

「最近会えてなかったですけど何かあったんですか?」

「うるさいわ!そもそもなぁ、お前が最初から本気で探そうとしてなかったのがいけんとちゃうんか⁉俺とこんなところで楽しくお喋りしよってからに、その時間に探しておけば今頃見つかってたかもしれんやんけ。だいたいなぁ…」

 僕の問いは完全に無視して説教が始まった。とてつもない速度で僕を罵倒し続け、大きなため息をつき、また罵倒する。ほとんどが同じ内容の繰り返しで、機関銃のように、と例えた人は天才的な表現力を持っていると思わされる程よく喋った。仕方ないので自然と収まるまで話を聞き続けることにする。

 それにしても、酔っているはずなのに罵倒してくる内容は言い得ている。真実としては足立さんはもう死んでいるのだから間違っているのだが、彼女が生きていて僕は彼女を探している立場だとしたら正しく罵倒されている。今までのサイトーさんの言動を考えなければ、という条件付きにはなるのかもしれないが。

 それから、彼が二十秒以上沈黙状態を保つまでには二十分くらいかかった。酔っているとは言え、彼の怒りはどこから来るのかは分からなかったが、黙った今がチャンス、と三度同じ問いをぶつけてみた。

「あの、もう一度訊きます。僕と会ってない間、サイトーさんは何をしていたんですか?」

「ん?あぁ……せやなぁ……」

 サイトーさんは急に、人が変わったように静かになった。さっきまで白く見える程熱を持っていた鉄が、真っ黒に見える程冷めてしまったようだ。

「んぅ……実は俺な、バツイチやねん。女房と息子がおったんやけど、いろいろあって逃げてしもうたねん。あいつあの肉食うし、怖かったんや。そしたらどっかから俺を見つけ出してきて、やれ慰謝料出せ、やれ養育費出せってずっと言ってくんねんな。それがまたアホみたいに高くてな、出さなかったら裁判やとか抜かし出して、ホンマきついねん。それなのに、それなのによ⁉先週の水曜日に勤め先クビにされたんや!もーアカン、やってられへんわーってなってやな。辛くて辛くてしょーがないんや」

「そんな……」

「しかもな、息子とか言うたけど、そいつ俺の子やないねん。どっかの男と作ってきよった子どもやねん。女房ははっきり言わんかったけど、俺は分かっとるんや。それがまた、辛くてなぁ…」

 彼はそう言ってうなだれて、長めの沈黙に入った。こんな時どうすればいいのか、僕には全く分からない。酔っ払いと接することすらほとんど無いのに、こんなに重い話を誰かにされたことなんてもっと無い。ただとてつもなく気分が沈んでいくのを感じる。

 そもそもは僕が彼に相談と言うか、話を聞いてもらいたかったはずだ。逃げてしまいたくなっている僕をどうにかしてほしかったはずだ。しかし実際に再開してみると、余りにも変わり果てた情けないおじさんの対処をしなくてはいけない。この世で一番と思える程決まりが悪い。ひたすら続く静寂が、怖い程に憎い。今日は何もなかったことにして帰ってしまいたくなる。

 会社をクビになったばかりの人間の気持ちを想像する。そしてそこから、今何を言われれば慰めになるのかを考えてみる。大丈夫だと励ますのか、同情して一緒に悲しめば良いのか、明るく笑い飛ばして関係のない話をしたら良いのか。想像してみる限りどれも正解には程遠い気がする。それならば、僕には何もできない。何もしないのが一番いいのかもしれない。こうして考えは巡って、何も無かったかのような静寂に戻る。横では力無きおじさんがうなだれている。

 昼が近づいてきた公園の中、蝉たちの声がやけに通って聴こえる。はしゃぎ回る小学生や、犬と散歩する老人はいない。遠くの小学校で遊ぶ少年少女の笑い声まで微かに聴こえる。太陽は真上に、時計の針は重なった。その瞬間、サイトーさんが口を開いた。

「……金だ」

「ん?」

 不意を突かれ、僕の耳は消え入りそうな彼の声を捉えることはできなかった。それでも金という単語を使ったのは分かる。顔は反らされていてこちらからは見えない。何か言うべきだろうか。

「なあ凛太郎」

「⁉はいっ」

「やっぱりさぁ、金なんだよな、世の中。それさえありゃ生きていくのに苦労はしねえ。それも大量に無くてもいいんだ、必要最低限でも俺は満足や。それなのに全部奪われたのは何でやと思う⁉」

 彼は乱暴に僕の両肩を掴んでくる。少し痛みも感じたが、それよりも彼の関西弁が曖昧になっていることが気になる。

「分からんか?じゃあ教えたるよ。俺が悪いんや、俺が!どうしようもない俺が良くなかったんや、そうやな⁉そうじゃなきゃこんな状態にはなってない。幸せやったかもしれんのやなぁ!」

「いや、あの、ちょっと…」

 サイトーさんは明らかに冷静さを欠いている。精神状態が不安定だ。このままにしておくのはマズいことは分かっているのに、彼の迫力に気圧されて考えがまとまらない。彼は僕の肩を掴んだままひざまずく。上目遣いで、口からは酒の残り香を吐き出すようにして言葉を発する。

「そ、それでやなぁ、一つだけお願いがあるんやけどなぁ……」

 サイトーさんが僕の機嫌を窺うように口角を上げた。

「凛太郎、お前、金くれへん?」

「えっ」「少しや、必要最低限でいいんや!お前、いい暮らししてそうやもんなぁ。幸せそうやもんなぁ。お母さんと楽しくやってんのやろ?少しの金くらいどうってことないやろ?な?なぁ。お前は小遣いが減るだけかもしれんけど、俺は生きていけん状態なんや。人生が懸かってるんやで?助けてや!そうすりゃみんなハッピーやろ。な?どう、違う?」

「あ…ぼ、僕、昼飯までには帰って来いって言われてたんで失礼します!」

 無理やりサイトーさんの腕を振りほどいて走り出した。何かを叫ぶサイトーさんの声が背中越しに聴こえてきたが無視して走り続けた。そんな、今日はこんなはずじゃなかったのに。誰も聞くものがいないのに呟いた僕を、おかしな奴と自分で笑いながら家まで走った。


 お母さんが家で待っているなんてことはもちろん嘘である。僕にとっては夏休みでもお母さんからしたらただの平日。サイトーさんから逃げ出してきた僕は家で独りになる。僕が玄関に入った直後から雨が降り出したようで、外では断続的に雨の音が聴こえている。大きな雷の音。彼はあの公園で雨に打たれ震えているのだろうか。

 僕はただ相談したかったはずなんだ。サイトーさんは相談に乗ってくれるだけで良かったんだ。あんなにたくさんの、僕とは関係の無い話をして、金を要求してくるなんてことはしなくて良かったんだ。それが彼の存在意義。僕の中での彼の位置付けなんだ。

 走り去る僕に、彼は何と言っていただろう。何か支離滅裂なことを叫んでいたような気がする。金をくれなかった僕に、根拠のない暴言を浴びせ続けていたのではないか。最悪だ。あんなに楽しく話をしていたのに、僕の心の拠り所となってから裏切るなんて。なんて酷いことをするんだ。

 いや、本当にそうだろうか。実は彼が何を言っていたのか、僕は知っているんじゃないか?そうだ、知っている。この耳で、全力で走りながらも聞いていた。

『ええなぁ、お前は。いつもそうやって逃げればいいんや。見捨ててしまえるんや!どうせ、行方不明の子もそうなんやろ?めんどくなって、見捨てたんやろ?違うか?いや、違うな。本当はお前が殺したんや。お前言ってたもんな、彼女は死んでいますって。見つかりませんって。殺したもんは見つけられんのやもんなぁ。羨ましいなぁ。そんなんなのに、のうのうと生きていけるお前が、羨ましいわ!』

 しっかり、全部聴こえていた。彼は最悪なんかではない。最悪は僕なのだ。彼女を傷つけた。彼女を殺した。彼女を隠した。彼女を探すふりを続けた。彼女を探すのを諦めた。それでいて、彼女のせいで困っていると、他人に泣きつこうとしていた。頭の中ではもう何度も泣きついていたんだ。会う人みんなに、誰彼構わず助けを求めていたんだ。

『僕らにもそれぞれの人生があって』。何を言っているんだ。僕ら、じゃない、彼ら、と言うべきだろう?僕には彼女を隠したままにしておく人生なんてあってはいけないんだ。

『足立さんが帰ってくるのを信じて待つべき』。恐ろしいことを言うな。この世でただ一人、彼女は帰ってくることはないと確信できる人間が僕なのだろう?その僕が帰ってくるのを信じるなんて、閻魔に舌を三本くらい差し出しても足りないんじゃないか?ああ恐ろしい。

『足立さんのためにもなる気がする』。死ね。とりあえず一回死ね。死ね死ね死ね死ね死ね。話はそれからだ。

 薄暗い部屋の中、ベッドに横たわって布団を被る力も無く、壁の一点を必死に見つめて呟き続ける。僕はもう、ダメなのかもしれない。何かをする気力が起きない。このままでは社会の中で生きる人間として終わることは知っている。知っているけど、だからと言ってどうにかなるものではない。いつの間にか時間が経っていて、お母さんが部屋に入ってくる。夕飯に焼き鳥を買ってきたと言うけれども、僕は寝たふりを決め込む。いや、何もする気が起きない僕の様子が、結果として寝たふりに見えて、お母さんは部屋を出ていった。

 部屋の中はとうとう真っ暗になる。何時間経っても目が慣れない。いつまで経っても暗い。僕は寝たのかもしれない。だからこんなに暗いのかもしれない。世界はもっと光があるはずだ。こんなに暗いなんておかしいじゃないか。

 ようやく明るくなってきた。でもそれは、カーテンから透けて見えてきた日光の端くれで、光なんかではない。まだ動く気にはなれない。部屋の暑さは最高潮に達し、お母さんが何度か部屋に来て、また部屋が暗くなってを繰り返した。その間僕は何度か寝たかもしれない。会話もしたかもしれない。水も何度か飲んだ気もする。トイレは、いっただろうか。覚えていない。とりあえず、繰り返した。そして、時間の感覚が分からなくなった僕には見当もつかない時間が流れた。


 お母さんはたくさんの料理を作ってきてくれた。ある時はハヤシライス。ある時は三色丼。またある時はラーメンを。それでも僕は動き出すことができなかった。味のしない料理。触感だけはしっかり残っていて、その料理にどんな想いが籠っていようと不快に感じてしまうのは目に見えている。僕はただ、怖くて怖くて、何もできなかった。何も、しようとはしなかった。それでも時間は流れていった。

 雨が降った。真夏日を迎えた。日差しは部屋の中まで届いてきた。

 サイトーさんの声が、足立さんの声が聴こえる。「そこで何をしているんだ」「金をくれよ」「死ね」。何度も何度も、布団を被っても枕で耳を塞いでも彼らの声はした。たまに、僕の声もした。「足立さんのために」「僕の貯金を使おうか」「彼らを助けよう」「信じるんだ」。

 二人の声は聴いていると辛くなって、僕は赤ん坊のようにうずくまって泣いたが、自分の声を聴くと僕の暴力的な部分が顔を出し、お母さんがいないときに壁やベッドを殴った。手は痛かったし多少の血が出たりもしたが僕は止めようとはしなかった。そしていつも何かのスイッチが切れたかのように我に返り、疲れるまで泣くのであった。

 サイトーさんはどうしただろう。今頃何をしているのであろう。そんな風に思うことも何度かあったが、結局は考えただけで何もしなかった。

 足立さんのことを考えることも増えた。彼女のことを考えた時は、何かをしなくてはいけないという思いが一層強まった。それで、何度か彼女のためにするべきことを考えるのだが、何も思い浮かばない。当然何かをすることもないし、部屋から出ようとさえしないのだ。そのことに自分で気がついた時には、酷い自己嫌悪に襲われる。それはただ嘆くという行為なだけで、何かをしようとはしない。

 嘆いたり殴ったり泣いたり考えたり、要はとりあえずたくさんのことを僕はただ繰り返しているに過ぎなかった。繰り返す事柄が多いので同じことをしているという自覚は無く、自分がどれだけ愚かな状態に陥っているのかなんて気づかずに過ごしていた。いや、気づいていたのかもしれない。しかし、僕は愚かさを捨てようとはしなかった。こんな日々が永久に続くのだと思いながら生きているのだった。


 しかし、そんな中でも一度だけ、本を手に取った。部屋にある本棚を眺めていたら急に気になりだして体が動いたのだ。

 ベッドから降りて、本棚の前に立った。何か一冊だけ、眺めるだけでもしてみようという気分になる。

 ぼんやりと本棚を眺めて、直感的に目に留まった一列を左から観察していく。中村文則『悪意の手記』、太宰治『人間失格』、スティーブンソン『ジキルとハイド』。そして、次の一冊で目の動きは止まる。

 野上ユウタ『罪』。罪、という言葉に心が反応して、僕はその本を手に取る。確かな重みを持ったハードカバーは、丁寧に取り扱わなくてはいけない気にさせてくれる。適当にページをめくってみて、適当な所で手を止める。

『あなたはあなたを殺そうとしていたのだ、その手で。大きな罪を抱えてしまったあなたを、どうにか殺してやろうと息巻くあなたは今にも泣き出しそうだった。それでもあなたは、私の傍でずっと泣いていた。何故あいつは殺せないのだ、と。私はそんなあなたに口付けをしようと近付きたかったが、それは叶わなかった。私はあなたが犯した大きな罪。あなたを傷つけるくらいなら私なんて要らないと、自らの肉体を太陽よりも紅く荒ぶる焔で焼くことが精一杯であったのだ。』

 そこからの続きは読まずに本を閉じ、ベッドの上へと戻った。僕は野上ユウタの本を読んだ時、感想を言語化することを先延ばしにする。彼(作者の性別は公開されていないがおそらく男性)の書く文章は、じっくりと時間をかけて心に浸みてくるものだと僕は思っているので、いつも感想を急がない。『罪』という本は前に一度読んだことがあるのだが、未だに感想が定まっていない本なのである。今の僕なら何か答えのようなものが出るかもしれないと思ったがダメだった。心に浸み渡るのを待つために布団を被って、深い眠りに就いた。


 火曜日。八月二十一日。僕が再び引きこもってから一週間が経つことになる。時間とは不思議なもので、楽しい時間は早く、辛い時間は遅く感じる。僕が引きこもっていた時間は後者にあたるので、たかが一週間と思われるかもしれないが酷く長く感じられた。

 僕の変化は表面上に現れていた。目の下にはクマ、頬はこけ、髪には幾らか白髪が混じっている。お母さんは自身の具合が悪くなる程心配してくれたが、夕飯を食べたいと告げると泣きながら肉を焼いてくれた。

 今日の夜中、僕は足立さんを埋めた二本杉の所まで行ってみようと思っている。急に夕飯を食べたり、二本杉に行ってみようと思ったり、僕の心にどんな変化が起きているのかは僕にも分からない。何か、特筆すべき出来事があった訳でもない。今朝、いつものように朝食を持ってきたお母さんを見た時、不意に決心したのだ。自身の体調が悪いながらも僕を心配するお母さんの姿を見たからかもしれないし、僕は食べないと分かっていながらも朝食を持ってきてくれるお母さんに申し訳なくなったのかもしれない。とにかく決めたんだ。今日は足立さんの所に行く。

 夕飯を食べた後はくだらないテレビ番組を見て時間をつぶした。くだらないとは言っているが前は大好きな番組だったはずだ。僕はどうしてこうなってしまったのだろうと、一瞬頭を過った言葉に涙が流れそうになる。急いで風呂に入ることでなんとかこらえた。

 部屋に戻ってベッドに腰掛ける。壁掛け時計はもうすぐ真上で長針と短針が重なる。家を出るのは午前二時を過ぎてからにしようと決めてスマホをいじりだして、一か月以上前のあの日のことを思い出していた。午前三時に呼び出されたあの日、時間になるまで暇をつぶした自分の過去の姿と現在の姿が重なる。あれからたった一か月ちょっとしか経っていないのに、ずいぶん僕は変わってしまった。たくさんの罪を背負った。おそらくそれは考え過ぎなんかではない。本当に罪と呼べるものなんだ。

 罪。罪とは何なのだろうか。人が生きていく上で、存在したところで誰にもありがたがられないもの。どうしてそんなものがこの世に存在してしまうのか。この一週間、部屋に引きこもり続けて、自分の罪を責め続けた僕の結論はどうだろう。まだ、これだという結論は出ていない(生涯を通して結論なんて出ないのではないかとも思う)が、一つの見解として、人の弱さ、なのではないかと思う。多くの場合罪は、人の感情など定義が難しいものによって肥大化されることが多い。一般人の殺人犯より芸能人の不倫の方が世間を騒がすことが多いのはそのためだろう。そうなると、現実に起こったことの何らかの逃げ道として罪が用意されているのではないか。もちろん、根拠の粗い雑な考え方だということは分かっている。だから僕は結論とはしなかった。これからも考え続けて、自分の中で安定した考え方を決定しなくてはいけないのだろう。

 いつの間にかスマホをいじる手が止まっていた。手元の画面は暗くなっている。そこに映る自分の顔が醜い。時間はもうすぐ午前二時だ。スマホを机に置いて、重くなり始めた腰を手遅れになる前に浮かす。玄関まで忍び足で進み、お母さんの部屋の気配を窺いながらゆっくりとドアを開ける。すぐに、中途半端に欠けた月の明かりが僕の顔を照らした。満月でも三日月でもないし、半月ですらない。不安定な中途半端な状態の月。僕みたいだ、と小説の主人公みたいな感想を抱き、歩き出す。

 深夜の世界は、前見た時と全く別物だった。誰もいないのに働き続ける信号や、警戒心を忘れた番犬。足立さんを埋めたあの日、同じものを見たはずなのに、まるで世界は違って見える。ずいぶんよそよそしくなって、その世界の主役にでもなったのではないかと勘違いさせてくれた静けさは、お客を迎えるための慎み深い静寂となった。これから僕は足立さんに会いに行く。以前と外出した目的は変わっていない。それなのに、全てが違う。

 スマホを置いてきてしまったので、神社は恐ろしい程暗かった。二本杉のある雑木林は、街中にあるには不釣り合いな大きさだ。一寸先は闇。比喩ではなく本当の話になると足がすくむ。わざわざ家から出てきたとはいえ、闇の中に自ら踏み出すのは酷く勇気が出てきてくれなくてはいけない。怖い、けど足立さんが待っているんだ。僕は行かなくてはいけない。

 固まった足をそのままに一歩ずつ二本杉の元へと向かっていく。草木を踏んでいく時の音。進んでいるのかどうか分からなくなる感覚。たまに聴こえる動物の声。僕は、次第に二本杉へたどり着けるのかと不安になってきた。辺りは密度に変化の見られない純粋な闇。境内の方は少し明るくなっていないとおかしいのだが、闇は平等に佇んでいる。これも罰なのだろうか。

 何かが足に当たった。全身を使って飛び上がって、足元を確認する。何も見当たらない。確実に何かが当たった感覚はあったのだが、どう探しても何も見つからない。実は当たったのは動物で、上の方に逃げたのではないかと見上げた時、自分が二本杉の真下に来ていたことに気づいた。

 そうか、彼女だ。足立さんが僕の足を止めたんだ。二本杉の位置からして、僕が今立ち止まっているのは彼女が埋まっている場所のちょうど真上に当たることが分かる。

 僕は自分の足元を穴が開く程見つめる。彼女が、ここに、埋まっている。ゆっくりと確認するように僕は呟いた。この手で彼女を埋めたことは確かに覚えている。あの時の感触、温度、彼女の表情も目に焼き付いている。それなのに、僕は彼女が埋まっていることを人に教わったような感覚に包まれている。本当に彼女はこんな所にいるのだろうか。思考を停止して地面を見つめる。

 そういえば、この二本杉の辺りは他とくらべてほんのり明るい。本来なら二本杉の姿すら目に見えなかったはずだ。どういうことなんだろう、不思議だ。

 理由なんて考えても仕方のないことなので、再び思考を停止して足元を見る。足立さんが、埋まっている。僕はここを掘り返して彼女の姿を確認しなくてはいけないのだろうか。その様子を想像すると、右足の辺りに何か這い上がってくるような気配を感じた。驚いて右足を振るが何もない。よく分からないがここは危ない気がする。このままここにいてはただではすまない、そんな予感がした。

 思わず逃げ出そうとした時、頭の中で声がした。あれ、逃げちゃうの?今まで散々逃げておいて、ようやくここまで来たのにまた逃げちゃうの?私を掘り起こして、僕が殺しましたってみんなに見せるんじゃないのね。哀しいわ。

 それは、紛れもない足立さんの声だった。そして、その声を聞いた時、僕はその場から動けなくなってしまった。普通に身動きは取れる。ただし、二本杉のある開けたスペースからは出られなくなってしまった。誰かが邪魔をしている?そんなことはない。サイトーさんも、足立さんも、誰も邪魔はしていない。それでも僕は動けなくなった。何度も歩き出そうとしたが、ある一定の場所からは出ていけない。何度も何度も出ようとした。二本杉周辺の開けたスペースはある種聖域のような場と化して、僕の足をその場に踏みとどまらせようとしてくる。

 そのうち僕は逆に出ていくのが怖くなってきて、とうとう座り込んだ。足立さんの真上に。そうなると無力な自分は容赦なく僕を侵食していって、絶望に似た脱力感を覚えた。いよいよ身動きも取れなくなる。そんな自分がだんだんと無様になってきて、ついに泣き出した。静かに。

 涙は勢いこそないがとめどなく流れる。その涙は地面に落ちて、足立さんのいる場所へと届いていく。彼女に僕の今の気持ちが伝わればいいな、なんて思いながら涙を落とし続ける。

 二本杉に囚われたまま、足立さんを掘り返す勇気も出ず、ただひたすら泣き続けて気がつけば空は明るくなっていた。雑木林の中でも周囲が目視できる。こんな所で一夜を明かす時が来ようとは夢にも思っていなかった。

 結局、一夜中泣いてみても何も変わらなかった。いや、良い方向に変化が起きなかっただけで、悪い方向には変化があった気もする。絶望、という感情が強まった気がするのだ。今後どうすべきかも分からないし、罪の償い方も分からない(いや、きっと償うことなんてできないのであろう)。それゆえに希望が無くなってきたのだ。サイトーさんにも頼れなくなった。お母さんに話す訳にもいかない。もちろん同級生たちにも。泣いてみても助けは来なかった。状況は最悪だ。

 とりあえず、この場からは去ろうと立ち上がる。そうだ、帰って気が済むまで寝よう。ついこの間までそうしてたじゃないか。寝ている間だけは何も考えなくて済む。幸せな心地よさに包まれているだけでいいんだ。あそこは文字通り夢の場所だ。あそこに帰ろう。

 二本杉を離れて帰りだそうとすると声が聴こえ始めた。足立さんやサイトーさんに背の低い女の子、誰か分からないが男性の声もするし人間とは思えない声もする。彼らは皆、話しかけてくるというより叫んでいる感じで、ただただ耳障りだった。でも、僕は気にしない。こいつらなんて無視して、夢の世界に逃げ込むんだ。その後はどうするかなんて考えなくていい。ただ、逃げるんだ。

 早朝の、鳥たちがようやくさえずり出した頃、目を覚ました番犬に吠えられながらわが家へと帰る。目的はただ一つ、夢の世界に逃げ込むために。


 ?曜日。?月?日。遠くに足立さんの姿が見える。僕が立っている場所は、背の高い草花が生い茂っていて、彼女がいる所は広い草原だ。背の高い草花は僕の視界や行動を制限するばかりで、足立さんのいる草原が理想郷か何かのように見える。背中を押すような風が吹いて、僕は草原の方を目指して走り出す。

 草花をかき分け、足立さんの顔がはっきり見える所まで来た。彼女の顔は僕が記憶しているよりも数倍美しい(それでも、この人は足立さんなんだと感じる)。このような女性がいたらいいのにと思い描いた顔がそのまま目の前にいる。理性とは別の場所で喜びの声を上げる。

 足立さんが微笑んだ。美しい。今まで見たもの全てを軽く凌駕する美しさだ。僕は、吸い寄せられるようにさらに近くへと歩み寄る。

 彼女を囲む草原は、焼け草だらけで作られていて茶色かった。それでも、彼女がそこにいるだけで理想郷に見えてしまう。もしかしたらそんなことは関係ないのかもしれない。僕には焼け野原が理想なのかもしれない。

 とても美しい足立さんが目の前にいる。それだけで僕の心臓は耐えきれなくなって、誤魔化すように話しかけた。

「あ、あの。僕もそっちに行っていいかな」

 爽やかな風が吹いて彼女の髪を揺らした。その嫋やかな動きは一瞬で僕を魅了し、僕の瞳は動きを止める。彼女は余りにも優しく微笑んで、一言だけそっと呟いた。

「どうぞ」

 僕はこれ以上ない程嬉しくなってすぐに彼女の元へと走り出す。

 しかし、すぐに足を止めることになった。彼女のいる場所と僕のいる場所の間には、この世のものとは思えない程深い溝が存在していたのだ。幅は大人の男性二人分くらいはあって飛び越せない。下を覗いても終わりの見当もつかない暗闇がそこにあるだけ。どうしたものか、このままでは彼女の元にはたどり着けない。僕は思い切って尋ねてみる。

「ねえ、こんな溝があったらそっちには行けないよ。どうすればいいんだい?」

「簡単よ。飛び越えてくればいいの」

「そんなの無理だよ。こんなに幅が広いもの」

「できるわよ」

「どうやって?」

 彼女はいたずらっぽく笑う。美しさが滲み出る笑顔だ。

「それはあなたが一番よく分かってるんじゃないの?」

「え?」

 さっきよりも強い風が吹いた。彼女の姿がぼやける。溝の中の深い闇は、いよいよ存在感を増して、僕の意識はその中に吸い寄せられていった―――。


 日曜日。九月二日。二本杉の所までいったあの日から、僕は毎日外に出るようになった。一日の三時間程は必ず外出して、適当に歩き回り、帰ると九時間は寝られるように就寝する。寝ている間の僕は非常に安定している。ここ最近は楽しい夢ばかり見ているのだ。楽しい夢とは、多くの場合において美しいものと触れ合っているものである。そんな時間を大切にしたくて、毎日九時間以上も寝るようにしているのだ。

 今日は夏休み最後の日。宿題はほとんど終わっていない。終わらせる気もない。今の僕にとっては非常にどうでもいいものだ。

 小学校の頃はいつも宿題に追われていた時間帯に外へ出る。今日はどこへ行こうか、と気の向くままに歩み始める。八月が終わるとは言え、暑さは猛威を振るい続けている。数分歩いただけで汗が止まらなくなる。三時間以上は外に出る、と無意味な決心をしているのだが、流石にどこかで休まないと体に悪い。当てもなくフラフラと歩いて、それでも自然と足はいつもの公園へと向かっていた。サイトーさんと会う、あの公園だ。

 公園は全く人気が無かった。夏休み最終日なのだ。当然のことだと言えるだろう。ベンチを見てみてもサイトーさんはいない。大きく安心しながら、小さく残念に思いながらベンチに座る。

 公園のベンチは後ろにある大きな木のおかげで幾分か涼しかった。ただ暑いとだけ叫んでいた脳みそも、ゆっくりと落ち着きを取り戻し出す。長かった夏休みも今日で終わる。僕はこれからどうしようか。忙しい日々の中に身を溶かし、足立さんのことを忘れようとするのだろうか。それは果たして、正しい選択なのだろうか。散々考えたはずの問いだが、一向に答えは出ない。

 頭は落ち着きを取り戻したはずなのに、急に頭痛が始まる。右側の一点だけが妙に痛い。二秒後には目眩も始まって、熱中症かもしれないと直感する。とりあえずは動かないようにしようと身を固めると、僕に近づいてくる足音が聴こえてきた。

「おい凛太郎。久しぶりやな」

 いきなり聞き覚えのある声に名前を呼ばれた。熱中症のことなんか忘れて急いで顔を上げると、眼鏡をかけ無精ひげを生やしたおじさんの顔がそこにはあった。サイトーさんだ。そう思った瞬間身体が強張る。

「あっ、サ、サイトーさんじゃないですか。その、お久しぶりです」

 よくものこのこと顔を出せたものだと思う。この前は酔っていたとは言え、中学生の僕に金を要求してきたのに、恥ずかしくないのか。

 という悪態を一瞬で頭に思い浮かべ、以前の僕なら仕事も金も無くなったサイトーさんのことをまず最初に心配しただろうとも思う。自分の残念な変化に、嫌気がさして鳥肌が立つ。

「ここ、座ってもええか」

 彼は僕の隣を指さす。僕は答えずに頷いて、ベンチの端っこへと身を寄せる。その直後に彼は遠慮ない動作でベンチに座った。妙な緊張感が漂う。

 ベンチに座ってもサイトーさんはすぐには話し出さなかった。何かのタイミングを窺うように靴の裏を見ている。たまに「汚ねえな」とか呟きながら話しかけてはこない。僕はと言うと、この前の彼の姿が脳裏に焼き付いていて、怖さを感じているのかも分からないのにビクビクしている。自分から何かをしようという気は起らず、彼の出方を待つ。

 靴の裏をいじることを飽きたように止め、サイトーさんがようやく口を開いた。

「なあ、この前は悪かったなと思ってる。本当にそう思ってんねんけど、最後に確認させてくれ。会社もクビになり、多くの人間から金を取られている俺を助けるためにお前が金を出してくれる気はないか?」

 とっさに首を横に振る。本当は、助けてあげたい気にもなったし、どうして大した金なんか出せない僕に助けを求めてくるのか訊こうとも思った。でも、その考えが具体的な何かになる前に首を振ってしまった。脊髄反射というやつだ。僕の脳が判断したのではない。もっと感覚的に身体が拒否することを選んだのだ。

「そう、か。まあそうやわなあ。ある程度予想はしとったわ」

 正直な感想を言うと、だからなんだよ、という台詞が適切な僕の感想だ。まず第一に僕なんかに助けを求めてくることが、やはり分からない。彼は本気で僕がどうにかできる程の金を持っていると思っているのだろうか。僕はただの中学生だ。バイトすらもしてないのに、そんなにまとまったお金なんて持っている訳ないじゃないか。彼の考えが分からない。

 待てよ。もしかしたら狙いは金に無いのかもしれない。本当はもっと別のことが目的で、例えば最近の若者は困った時に手を差し伸べてくれるのかという実験的な狙いがあるのかもしれない。そんな馬鹿な、でも、他に理由は思いつかない。思いつかないけど、この考え方も大きく間違っている気もする。だんだん頭が混乱していく。

 せめてサイトーさんが何か言ってくれればいいのだが、彼はまただんまりを決め込んでいる。不思議な状況だ。僕にはもちろん、彼にもどういう状況なのか分かっていないように思える。違和感が二人、お互いを変な奴だと思いながら座っているようだ。

 サイトーさんは何がしたいんだ?この状況で僕は何をすればいいんだ?誰も答えてくれそうな人はいない。目のやり場さえ定まらない。もしかして、これも罰なのか?

「なあ」

 突然、僕の考えなんて無視するようにサイトーさんが声をかけてきた。そして時間をかけてこちらを向く。今にも叱りつけてきそうな目で、僕を睨む。次の彼の言葉はなんだ。目に力を入れて待つ。

 そしてやっと、彼の口が動き出す。

「お前が言うとった行方不明の子、本当はどうしたんや」

 全く違う話に切り替えてきやがった。頭の中でだけだが、つい口調が荒くなる。しかも次は次で足立さんの話を持ち出してきた。どこまでこの人は僕を困らせたいんだ。しかもこの口ぶり、何か嫌な感じだ。

「えっと、まだ見つかってないです。はい、それだけです」

「おいおい、嘘はあかんで。この前も言ったやろ、俺。お前は一度、彼女は死んだって言いよったんや。ちゃんと覚えてんねん。あれはつまり、お前が殺したゆうことやろ」

「何言ってるんですか!」

 思わず、鋭い口調になってしまった。

「そんなことある訳ないじゃないですか。あれは軽い冗談みたいな感じで、本当に彼女はまだ見つかっていないだけで」「おい、そんなに必死になって誤魔化さんでええ。俺な、見たんや」

 見た?見た、というのは一体、何を意味する発言なのか、おもしろいくらい分からない。

「確か、十日程前やったかなあ。お前、真夜中に神社におったやろ。俺はその姿を偶然見かけてなあ、こっそり陰から見てみよったんや。そしたらなんや、雑木林の中で座って一人でずっと呟きよったやん。あれはなんや、二本杉とか言ったかな。お前ずっと座っとったやろ。

 そんで呟きよった内容からある程度察してな、次の日そこにまた行ってみたんや。そしたらなんや変な臭いがするやん。そこら辺からほとんど確信したんやけど一応地面を掘ってみるとやなあ…もう言わんでも分かるやろ。所々腐っとったとだけ言うで」

 彼は悪魔がそうするように肩を組んできた。僕はと言うと、彼の言葉の意味をほとんど理解できていなかった。どうやら日本語を話しているようだが、どうも意味を持つ言葉として頭に残らない。それよりも、肩に置かれた彼の腕が重要なものに思える。

「大丈夫や、俺は何もせん。安心しいや。あれやろ、交番行ったら張り紙してあったわ。足立真凛ゆうんやなあ、あの子」

「えっ……う、うわあああああああああ‼」

 足立さんの名前が出てきた瞬間、全ての言葉が意味を持って襲ってきた。彼は知ってしまった。足立さんのことを、彼に知られてしまった。ようやくことの危険性が理解できた。と同時に全身に力が入らなくなり、文字通り崩れ落ちる(正確には地面に崩れるようにベンチから落ちた)。その様子を見ていたサイトーさんは笑いながら話を続けた。

「おいおい、だから心配すんなやって。俺は何もしないゆうとるやんか。警察にも言うとらん。彼女はまた元通りに埋めてきたわ。ほら、この時点で俺も有罪なるやろ。だから何もせんって信じいや。ほら、とりあえず座れや」

 そう言うと彼は手を握って引き上げてくれた。なされるがままに身体は動くが、脳は未だに信じられないという言葉を繰り返している。死刑を宣告された囚人はこんな気持ちになるのだろうか。

 僕をベンチに座り直させてから、サイトーさんはいろいろと話していた。これまた意味の分かる言葉に脳が変換してくれないが、一般的には優しい声掛けをしているのだろうと思う。顔がどうも言葉とは似あわない感じに見えるが、とにかくここは一旦心を落ち着かせようと思った。意識的に深呼吸をしようと試みる。その様子を見たサイトーさんはどうやら手伝おうとしてくれているようだが、今は気にしている余裕はない。

 真夏の暑さなんてかなり前から気にならなくなっていた。逆に寒いくらいに感じながらも心を落ち着かせることに尽力し、結局、サイトーさんの言葉が意味を持つようになるくらい落ち着いたのは日が沈み出した頃だった。

「そんでなあ、会社戻ったら急に呼び出されてん。ほいほいって社長の所行ったら、非常に申し訳ないのだが、とか抜かしおって君はクビだってすぐ言ったんや。あれは申し訳ないなんてこれっぽっちも思ってない顔やったわ」

 どうやら彼がクビになった時の話をしていたらしい。仕方なくその話の続きを聞こうと思って彼と目を合わせると、僕の意志に気づいたらしく、彼は今までの話を止めた。

「やっと落ち着いたようやなあ。ホンマ、何もせんって言っとんのに、人を信じられんやつやな」

「すいません……」

 僕の返事も聞かずにサイトーさんは何やら考え事をしている顔になった。僕は何だか沈んだ気持ちになっていって、暗い雰囲気がそこには流れた。

 その雰囲気をどうにか変えようと思っていると、サイトーさんに相談しようと思ってできていなかったあのことを思い出した。今の状況なら可能な相談であると思い、少し思い切って話を切り出す。

「あの、サイトーさん。この前からずっと訊こうとしていたんですけど、今が丁度いいタイミングだと思ったのでここで訊きます。僕はこれからどうしたらいいのでしょうか」

「はぁ?」

 彼はこれ以上に無い程眉間にしわを寄せて、包み隠さずに嫌な表情をした。そして僕から目線をずらし、何でもないようなことを呟くように答える。

「そんなんお前、自分が一番よう分かっとんのやないんか。罪を犯してしまった今、お前はどうするべきなんや。ゆっくり考えて言うてみ」

 僕が一番分かっている?相当悩んで、それでも分からなくて、やっと相談した結果の答えがそれなのかよ。これ以上考えてもダメだと思いつつ、一応は考えてみる。そろそろ答えが欲しい。

「おうおう、あんまり悩ますんも酷やな。ひとつ、答えを出すためのヒントみたいなもんをやろう。そうやな、お前がお前を客観的に見た時に、お前には何をしてほしい?」

 僕が、僕を客観的に見る。なるほど、今まで忘れていたことだ。僕はどうしてほしいのだろうか。いつも、殺人事件のニュースを見た時に、僕はどう思っていただろうか。人を殺めたのであろう彼らに、何をしてほしいと思っただろうか。久しく見ていないテレビを見る僕を想像する。僕は、食卓に座っていて、茶碗を持って白米を口に運びながらニュースを見る。そこには殺人を犯して大金を持って逃げた強盗のニュースが流れていて、犯人は今も逃走中。僕は彼に何をしてほしいのだろうか。僕は……。

 そうか。僕のすべきことは、そうだったんだ。何か、つっかえていたものが消えた気がした。心臓の辺りが実際に解放感を感じている。

 答えは、とうの昔から分かっていた。でも、怖くて選べなかった道だったんだ。そうだ、その通りだ。ずいぶんと前からだった。僕は、どうすればいいかは分かっている…。

「自首」

 サイトーさんは頷く。そして、

「つまり、自分の首、を」

 嗤う。

「刎ねる」

 ……え?


 ベッドの上に横たわってから、十二時間が過ぎようとしていた。まだ徹夜をした訳でもないのに、酷いクマができている気がする。頭痛もする。いや、頭痛のおまけにクマができているんだ。言葉にする順番を間違えた。なんだよ、そんなのどうだっていいじゃないか。

 僕は確か、サイトーさんを殴って帰ってきたんだ。人間とは思えない顔で嗤った彼を、渾身の力を込めて殴ったのだ。あれはスッキリした。でもその直後に不快になったじゃないか。本当に何を言ってるんだ、あれは確実に避けるべき行動だったよ。だまれ。

 そしていつも通り声が聴こえる。よくやったわ、と。今すぐ自首しろ、と。刎ねろ刎ねろ!と。

 どうしてもこの声は消えないことが、今になってようやく分かった。少なくとも生きている間は決して消えない。消す方法は死ぬだけ。あの人がいったように刎ねるだけ。簡単なことだ。まあまあな好条件だと、僕は思うのだ。

 彼女は死んだ。僕が殺したのだ。サイトーさんも、大量の鼻血が出ていた。あのまま大量出血で死んだかもしれない。そうなれば僕が殺したことになる。だったら、自分だって殺せるだろう。怖くなんてないんだ。もう二人も亡き者にしたんだ。今更一人殺すのなんて、どうってことないんだ。ナイフで背中を刺して、首を絞め続けて殺してやる。僕には、できる。僕には。君には、できるのか?

 気づくと枕が濡れていた。ほんのりとした暖かさがある。涙のようにも思えるが、これはきっとヨダレだ。汚いものだ。枕をどこかに投げ捨てる。

 ただ普通に過ごしたかったんだ、巻き込まないでほしかった。頭の中で声がする。よくもそんなことを言えるわね。真凛ちゃんを殺したくせに。本当にお前はクズやなあ。やっぱり首、刎ねえやぁ。

 彼らを否定するために目を閉じると、次は彼らの姿が思い浮かぶようになった。小さくはなったが声も聴こえる。逆効果だ、目を開こう。それがいい、と目を開く。すると、涙が出てくる。ヨダレのような涙だ。なんだこれ。どうしたって気持ち悪い状態になるじゃないか。こんなの酷い。

 ああ、そういえば明日から学校だ。既に日付は変わったようだから、もう今日だ。学校に行くのは本当に気が重い。宿題を終わらせていないことは全く関係ない。授業を受けることは、あながち関係ないとは言えないな。とりあえず社会と関わり合いたくないのだ。人たちの塊と、多くの規制があるあの集まりと。考えただけでも吐き気がしてくる。

 いっそ死んでしまった方が?楽にはなるかも。今だってこうして声は聴こえ続けている。その声が生活の一部として慣れてしまうのが先か、僕がおかしくなってしまうのが先か。結果は火を見るより明らかだ。そうなると僕は……。

 何てことだろう。こうなるまで自殺なんて考えたことが無かったなあ。絶望が形となって現れたのか、徐々に視界が暗くなって、野上ユウタの『罪』の一節が蘇る。『あなたを傷つけるくらいなら私なんて要らないと、自らの肉体を太陽よりも紅く荒ぶる焔で焼くことが精一杯であったのだ。』

 焼くことが、精一杯……。脳裏に見たこともないはずのリアルな映像が浮かぶ。そしてそれは、映像だけでなく感覚となって、僕は灼熱の焔に焼かれる感覚に襲われる。世界のどこにも逃げ場がない感覚。全身が、四次元的に焔で包まれている。終わりはない。そんな状態でも悲鳴は上げてはいけないと、誰にも褒められない我慢をしながら、ただひたすら呻き続けて朝を迎えた。


 月曜日。九月三日。始業式。たくさんの人がいる。

 中学の全校生徒、全教師。それらみんなが集まっているのだ。いないのは足立さんだけ。それなのにどうして、僕はここにいるんだろう。まだ身体は焔を感じている。吐き気も治まらない。死は、目の前に見えているのに、僕はどうして、ここに。

 それだけではないのだ。今朝から会う人みんながお面を被っている。それも足立さんの顔のお面だ。表情は様々で、固定されたまま変わらない。会話の内容と表情が嚙み合っていない。気持ち悪い。

 時にはサイトーさんのお面を被った人もいた。その人はずっと、刎ねろ刎ねろと僕に向かって囁いてくる。

 始業式が終わったのか、周りの足立さん顔した奴らは一斉に校舎の方へと歩き出した。まるでその姿は、彼女にはこういう風に普通に学校生活を送る未来があった、と言っているようだった。最後の一人が動き出すのを待って僕も付いて行く。

 久しぶりの教室は賑やかだった。夏休みに何をしただとか、宿題が終わってないだとか、夏休み明けの生徒の常套句を必死で並べている。その姿もまた、足立さんはこのような夏休みを送るはずだったのだと語っているようだ。僕はすぐに教室を出た。

 校舎内を歩き回っても、どこにだって足立さんのいた未来が見えて、どうしても僕の居場所はなくなっていく。身体は依然として熱く、燃えながら歩いている自分の姿が思い浮かんで、僕が触れれば校舎が燃えてしまうと思いどこにも触らないように注意して歩く。それなのにドアを開ける時は仕方がないと言ってその手で触った。その程度の矛盾は今の僕にはどうってことない。図書室、体育館、運動場。どこにだって足立さんの未来はあったのだと感じる。

 結局、学校からも出ていった。そうすればどこかに居場所を見つけられるのではないかと歩き回るが、そんなことしても無駄なのである。あっちに行こうよ、こっちに行こうよ。頭で聴こえる僕の声に導かれるまま歩を進めるが、どこにいこうとダメなのである。身体も熱い。

 確実に居場所となってくれるであろう自宅にも帰ってみた。でもそこは、最早僕の家ではなかった。お母さんが子どもと過ごす為に用意しているマンションの一室。それ以下でもそれ以上でもなく、僕の居場所ではない。他人の物を盗む時のような申し訳なさを感じながら麦茶を一杯飲んで、その家からも出ていく。


 デパートに行った、動物園にも行った。お寺にも行ったし、ゲームセンターにも行った。近所の観光地にも心霊スポットにも、ついにはサイトーさんと過ごしたあの公園にも行った。それでも、どこにも僕の居場所は感じられなかった。赴いた要所要所で、違う、という明確な拒否感を感じるのみであった。

 しかし、それでも徘徊し続け、ようやく居場所になれそうな所を見つける。それは、八坂神社二本杉の真下、彼女が埋まっているあの場所だ。そこで楽な体勢で座ると、少し心に充足感が生まれることを知ったのだ。

 何かが許す限りこの場にいたいと思うが、頭で聴こえる声は他にもっといい場所があると語りかけてくる。本当に?と尋ねてみても答えてはくれないが、とにかくずっと他の場所を探せと言ってくる。その声を無視するのはかわいそうに思えてくるので仕方なくその場を離れ歩き回るが、どれだけ他の場所に行ってみたところで居場所は見つからない。あの場所しかない、と結論に至ってしまうのだ。

 最終的には思いつく場所も無くなって、午後八時くらいからずっと足立さんの元で座っていた。お母さんには友達と夕飯を食べて帰る、と嘘の報告をしている。ある程度は遅くなっても怪しまれない状況にはなっているが、雑木林全体が暗くなってくると流石に心配されそうになって、逆にこっちが心配になってくる。それでもこの場所は居心地がいい。下には僕が殺して隠した女の子が眠っているのにどうしてこんな気持ちになるのだろうか。最近うすうす感じていたのだが、僕は異常な感覚を持って生まれてきたのだろうか。あれだけ優しくてしっかりしたお母さんの息子なのだから大丈夫なのかもしれないとも思うが、それはどこか気休めで、遺伝などには関係なくおかしな自分が存在している気がする。きっとそうだ、他の人には頭の中に声なんて聴こえない。

 腕時計に目を落とすと午後十時を回ろうとしていた。そろそろお母さんが何か言ってくるかもしれない、戻らなきゃ。戻る?あの家は僕の居場所ではないのに、戻るという表現はおかしいだろう。じゃあ向かう、でもいいよ。最近は変に細かいことが気になるんだね。僕の声して、変なものだ。

 頭の中の声と他愛ないやり取りを交わしながら腰を上げる。土の下にいる足立さんに明日も来ることを約束してその場を去ろうとするが、中々歩き出せない。好きな人に近づきたいのに近づけないような自分を、鼓舞するように大声で叫んで走り出した。

 神社から出た瞬間に思い出した、あの燃えるような感覚を感じながら走る。今では熱さはほとんど感じない。常に温かさに包まれた体感の中に、時たま鋭い痛みを感じながら燃えているだけだ。


 家に着くと、お母さんは心配したと語りかけてくるような顔で僕を迎えてくれた。そこは僕の居場所ではないのに、少し安心した気持ちになる。

 しかし、それは長くは続かなかった。僕の二歩手前を歩きながらリビングまで歩き、ご飯を食べてきたならシャワーでも浴びてきたら?と振り向いたお母さんの顔には、他の誰でもない僕の顔のお面が張り付いていた。一瞬、声を上げそうになったがなんとかこらえる。

 そのお面の表情は、僕が無邪気に笑った顔で固定されていて、お母さんが何かを話すたびに、その後に何かしらを呟いてくる。刎ねろ、だとか、燃えろ、だとか。その言葉は多くが一言で、明るい笑顔とは似合わない残酷な言葉を浴びせてくる。そのせいで、お母さんの言葉は頭に入ってこず、適当な返事をして息子用の部屋に逃げ込む。

 それでも安息の余地は無い。今いる部屋には多くの見知った物が置かれているし、何度も使った気がするベッドも置かれているのに、ここは正しい居場所ではない。足立さんを隠してから、この部屋が唯一の逃げ場であったはずなのに、圧迫感の漂う場所になってしまってもう戻らない。自然と涙が垂れてくる。

 それでも朝まではそこにいることに決めた。部屋を出ても僕のお面が死を持ちかけてくるだけだし、外に出てもお母さんに心配をかけるだけだ。それに、二本杉の所以外はどこに行っても同じだ。暗い内に再びあの場所に行ってしまうと、もう戻る気力がなくなりそうで怖い。あの場所以外はいても辛いだけのはずなのに、それでも戻れなくなるのは嫌だ、というおかしな考え方を持ってしまっている。

 とはいえ、ここにはあとどれくらいの時間いれるだろうか。ただここに存在するだけで息が詰まる思いをする。ストレスは溜まっていく一方。こんな状態、僕はいつまで耐えることができるのだろうか。限界までは耐えてみたい。僕が耐えれば誰にも迷惑はかからないし、なんとか生きていける。そうだ、肉体的には生きていける。

 耐えよう。恐ろしく怖いが耐えるんだ。そう結論付けてから、僕はじっと息を潜めることにした。


 火曜日。九月四日。いつも登校する時間に家を出て、足立さんのいる所へと向かう。たった数時間ぶりでもその場所は酷く愛おしく感じられた。空が暗くなるまでそこにいて、仕方なく家に行って朝まで耐えることにした。


 水曜日。九月五日。今日も足立さんの元へ。昨日よりも幸せな心地になれる。そして、昨日より家に行くのが嫌になる。


 木曜日。九月六日。雨が降った。僕はお構いなしに足立さんの所へ。当然、身体は濡れて冷えたが家にいるよりかはマシだ。ここの方が温かい。でも、いつまでもここにいる訳にはいかなくて、身を引き裂かれる思いで家に行った。辛い。


 金曜日。九月七日。雨は止んだが、地面はまだどこも濡れている。それでも、あの場所に行くと居心地がいい。土も濡れていたが、座るといつもより土は柔らかくて、僕と彼女の距離が曖昧になった気がして良かった。その反面、この場を離れなくてはいけないのが本当に辛い。

 そうだ、いいことを思いついた。明日は土曜日だし、友達の家に泊まると言えば夜もここにいられる。そうだ、それがいい。そうしよう。明日は一日中ここにいられるよ、と土を撫で家に行った。その後は、夜中に二回も吐いてしまう程辛かった。涙も流した。もう、ここにはいたくない。


 土曜日。九月八日。昨日の内にお母さんに友達の家に泊まると言っておいた僕は、朝から少し気分が良かった。昨日から寝ていないのだが、僕にとっては空が明るくなることが新しい一日の始まりで、空が暗い内はずっと苦しかった。

 二回も吐いた後も吐き気は続いた。声も聴こえたし、圧迫感は脅迫感に変わり、今すぐにでも出ていきたかったのに動けなかった。

 朝日が顔に会った瞬間の嬉しさは、今まで僕が生きてきた中で一、二を争う程だった。今日は家に戻らない。足立さんのいるあの場所で一日以上過ごせるのだ。なんとも幸せなことである。

 お母さんが起きてきた頃を見計らってリビングに出る。一緒に朝食として食パンを食べ、固められて成型された味の無い小麦の塊を口の中でこねながら、お母さんと一緒に食事するのはこれで最後かもしれない、と不意に思った。この家には戻ってきたくないという僕の深層心理の表れかもしれない。

 そう思うと少しだけ、お母さんの手料理が懐かしく思えて、何か料理を作ってくれないかと唐突に頼んでみた。でもそれは僕の本心ではないと思う。こうやって母親の手料理を懐かしむことで自分が正常だと思いたいのかもしれない。

 お母さんは少し驚いていたが、昨日の夕飯にハンバーグを作った時の余りで小さなハンバーグを作って残しておいたのを出してくれた。味もしない、正直なところ食べるのが逆に苦痛な食感のハンバーグを、お面を被ったお母さんの前でさもおいしそうに食べてみて、一体僕は何をしているのだろうと嫌気がさした。リビングが狭く感じる。

 何とか食べ終わって、外出の準備をする。タオルや歯ブラシなどいろいろなものをリュックに入れてみるのだが、どうもこの家の物を盗んでいるような気持ちになる。そう感じると何を取っても変わらない気がしてきて、マッチやサングラス、ティッシュやリモコンを盗み、お母さんの部屋にあったボストンバッグを盗んでその中に詰め込んだ。とにかくいろんな物を盗む。

 ボストンバッグが一杯になったところで荷造りを止め、お泊り楽しんでくるよ、と笑顔で家を出た。お母さんは満足そうな顔で見送ってくれた。お面の下からでも分かる程に。

 外に出ると多少は解放感を感じる。それ程に家の中は窮屈に感じていたのだ。

 残暑の酷い天気だ。蝉も、一切の衰えを感じさせない鳴き声を上げている。時刻は午前九時。人通りもそれなりに多く、みんながお面を被っているのでこの町のことが少し心配になる。怖さはそれ程感じなくなってきたが、彼らの囁きを聴くと耳を塞ぎたくなる。やはり、ここは僕の居場所ではないんだ。サイトーさんの「刎ねろ」という台詞が鮮明に思い浮かぶ。思い浮かんだのだが、そのことには気づいていないふりをして神社まで走った。

 八坂神社の境内には今日も人がいなく、二本杉が告白の聖地だったのは一昔前だったのではないかと思う。それはそれで好都合であるのだが。

 身体が燃えているという感覚が今までにない程強くなってきた。熱さは全く感じない。全身を痛みが覆っている感覚だ。早く足立さんの元へ行こう。

 境内の裏に回って雑木林に入る。木々の緑は、僕には黒に見える。だから暗闇に入っていく気分だ。家にいるよりずっと楽だ。

 ゆっくりと探るように進んでいくと、開けた場所に出た。両側から囲むように伸びた枝の真下、足立さんの眠る場所。そこは周りと比べて明るく見える。

 そこに倒れるように寝転がり、胸いっぱいに空気を吸う。ああ、僕の居場所だ。ジグソーパズルの最後のピースがはまるような、そんな感覚。むしろ自分がピースになったような、そんな感覚。

 そう思い、幸せを感じた、のは少しの間だった。身体が燃える感覚が消え切らないことに気づく。痛みが、微かに残っている。おかしなことだ。今まではこんなことなかったのに。

 解決法を探すように辺りを見回す。しかし、そこにあるのはただの自然。もちろん解決法を教えてくれる誰かなんている訳が無い。分かっていて見回したはずなのに、「なんで⁉」と叫んで不安になる。

 仕方なく寝転がっておく。こうしている方がいつもより何倍もマシだ。動機が少しずつおとなしくなってくる。

 このまま寝てもいいかもしれない、と思った時、境内の方から大きな歓声が聴こえてきた。数としては複数いるようで、全体的に声は高い。話している内容とかから判断しておそらく小学生の集団なのだろう。なんだか、僕専用の静寂を奪った彼らの意味を感じられない会話に非常に腹が立つ。今すぐにでも出て行って、二、三人に平手打ちでもくらわせて追い出したい。しかし、ここは離れたくない。大声を上げてみても、興味を持たれて近づいて来られたら最悪だ。やっぱり、じっと我慢するしかない。

 ストレスを感じながら、心臓の辺りに何か不快なものが積もっていくのを感じながら我慢した。本当の時間としてはどのくらい経ったのかは分からないが、三時間は過ぎた気がする。ようやく小学生たちの声は聴こえなくなった。僕はなんとか居場所を取り戻す。本当に迷惑な奴らだった。

 リラックスを意識して深呼吸をしてみる。光合成によって作られた新鮮な空気が僕に入ってくるのを存分に感じる。良かった、やっぱりここが僕の居場所なんだ。安堵感が身を包んでくれる。

 ただひたすら横になって、たまにのんびり体を動かしてみるということを繰り返し、太陽が真上に位置する時間になった。木々の隙間からその様子が見える。散々僕を苦しめたりもしてきた太陽だが、総合的に見ると偉大な存在であると思う。僕にたくさんのことを教えてくれた。

 昼になったからといって、食事が嫌な僕には特にすることもないので、一度立ち上がって背伸びをする。そうなると急にこの雑木林が僕の物になった気がして、少し歩き回ってみようかという気が起きた。言うなれば支配者にでもなった気がしたのだ。とりあえずは境内の方を見に行く。

 その際の僕は、誰もいない境内を望んでいた。静かな僕の聖地がそこに広がっていることを期待した。だってここは、僕の居場所だから。しかし、現実はそんなに上手くいかない。

 鳥居を潜って赤ちゃん連れの若いカップルが入ってきた。彼らは、元からそんな顔である、とでも言うように笑顔を絶やさない。おかしな光景だ。だって、ここは僕の居場所なのだ。どうして関係の無い人が笑顔で踏み入れることができるのだろうか。彼らはおかしい。赤ちゃんも含め、おかしい人たちなのだ。

 もしかして、と一つの嫌な考えが浮かぶ。本当に万が一の可能性の話だが、ここは僕の居場所ではないのかもしれない。本当にあり得ない話だが、それならば彼らが笑っていることの説明もできる。しかし、そんなことはないだろう。ここまでしっくりきてる場所が違うというなら、どのような場所を居場所と呼べばよいのか。確実にここが僕の居場所である。はずだ。

 流石に言葉には出さないが、早く帰れと目で怒鳴る。せめて赤ちゃんが泣きだしてはくれないかと期待したのだが、両親の愛に包まれた幼い命はすやすやと眠り続けている。僕の幸せを否定するかのように。

 親たちは親たちで、僕の視線に微笑み返すという余裕を見せてから賽銭を投げている。圧倒的な自分の無力さに、圧倒的な恐ろしさが込み上げてくる。彼らには何も通じない。僕ごときの力では彼らの記憶にも残ることはできない。

 それならばせめて、僕のことはそっとしておいてほしい。別に彼らが関わってきた訳ではないのだが、僕の居場所に立ち入った時点で僕には無視できる存在ではないのだ。やめてくれ。今すぐここから出て行ってくれ。

 僕の思いは本当に無力であることを証明するがごとく、三人はゆっくりと境内周辺を歩く。そんなことをされては、僕が我慢できなくなってしまう。やっぱりこの神社は僕の物ではないのだ、ということをハッキリと思い知らされながら二本杉の所に戻ろうとする。

 その時だった。背後から弱弱しい声で話しかけられた。振り向くと一組の老夫婦がそこには立っていた。僕は一瞬で気が動転する。心臓がこれまでにない程大きな音を立てている。嫌な動き方だ。

 老人たちはどうやらこの近所の名所の正確な位置が分からないから僕に尋ねてきているようだった。しかし、やたら口の中が渇いて声が出ない。それでもなんとか音は発するのだが、とにかく怪訝な顔をされるだけで何にもならない。そうこうしている内に老夫婦は諦めたのか丁寧なお辞儀をして、そそくさ、という言葉が似あう仕草で去って行った。

 その姿を見送った僕は、一気に無常さに襲われ、二本杉めがけて駆け出した。赤ちゃん連れのカップルがこっちを見て何かを言っているようにも見えたが、そんなのは完全に無視だ。息を切らせながら足立さんの上に腰を下ろす。

 どうにか落ち着こうとするが、どうにも落ち着くことができない。過呼吸寸前の状態でせめて心だけでも落ち着かせようとするがそれもできない。汗も、涙のような水もたくさん落ちてくる。それが怖くてどんどん落ち着けなくなる。

 そんな中でも脳裏に、眠る、ということが浮かんだ。この間まで寝ることで現実の嫌なことから逃げられていたことを思い出した。じゃあ寝よう。すぐに横になる。

 これだけ心が荒れていたら眠れないのではないかと思ったのだが、心とは関係なく体が疲れているようですぐに意識が遠のいていく。


 目を覚ますと周りが赤と黄と紫で包まれていた。夕方だ。汗のまみれる体を強制的に起こして頭を動かし出す。

 赤に染まり、季節が変わったような錯覚をさせる木々がざわめく。僕は、昼間の出来事を忘れられていない。寝れば忘れる、逃れられるという目論見は失敗したのだ。急速に心が沈む。

 ふと、境内の方に目を向けると、一か所だけ境内の様子が見えるポイントを発見した。木と木の隙間が偶然にも重なって遠くが見えるのだ。そして、偶然にもそこには高校生のカップルがいる。彼らは大きな木の陰に身を寄せ合い笑い合っている。幸せそうだ。

 彼らは覚悟を決めたようにお互いで向き合い、男の子が女の子の肩に手を乗せた。そして、初々しい様子でゆっくりと口付けをする。シアワセそうだ。感情は湧かない。

 寝起きに見せつけられた幸せそうな姿に、僕は何も思わないことにした。彼らがどうであろうと僕には関係ない。僕はここという居場所を見つけられたからいいんだ。神社全体ではない。二本杉の下、足立さんの上が僕の居場所なんだ。

 カップルがどこかへ行く。それも関係ない。僕はここで幸せを感じていればいいのだ。ここで寝転がれば、心がしっくり落ち着くはずだ。ということで寝転ぶ。

 寝転がった僕が感じたのは、果たして違和感だった。理由などを追求し始める前に、絶望を感じる。この場所に違和感を感じる。それはもう、僕の居場所がなくなってしまうことを意味するのである。突沸した焦燥に再び燃える感覚を思い出す。視界が三重になる。

 その時だった。木の折れる、パキッ、という音がした。反射的に振り返る。するとそこには先程の高校生カップルが、死体でも見つけてしまったかのような顔でこちらを見ていた。

 本当に瞬間的に僕の何かが沸き上がった。恥ずかしさ、苛立ち、恐怖、謎。そんなものたちを混ぜ合わせた感じのものだった。そして思わず「帰れよ!」と大声で叫んでしまう。自分の心臓ですら震わせてしまうような大声だった。カップルはこちらも反射的に手を繋いで逃げていった。

 その直後に僕は倒れた。地面を拳で殴りながら泣いた。どうして僕はこんな目にばかりあうんだ。僕の幸せは、僕の居場所は、一日として保たれることはないのだろうか。だとしたら、僕は何のために生きているのだろう。足立さんを死に追いやって、それを自らの手で隠している。誰にも、自分にさえも有益な存在になれない僕は生きていても何にもならないじゃないか。逆に他人の迷惑にはなり得るという最悪な生き物だ。どうして僕は、こんな。

 刎ねろ、と言ったサイトーさんの顔が浮かぶ。『焼くことが精一杯であったのだ』という小説の台詞も浮かぶ。ますます涙は止まらなくなって、辺りは陰を落としていった。


 雑木林の中はすっかり暗くなった。僕のいる場所から人間一人分の距離までしか視認できない。今の僕の顔は死んでいるのだろう。希望が一切見えない。絶望の淵のような場所にいると言われても、今なら反論しないだろう。

 家から盗んできたボストンバッグが目に付いた。口が開いているので中が少しだけ見える。そこから半分だけ顔を覗かせたマッチが、やけに輝いて見える。

 ふと、声が聴こえた。男女が会話しているような声だ。しかもかなり近い。会話の内容がある程度分かる程の距離である。不快な気分にはなるが今更驚きはしない。

 彼らは最初、純粋に会話を楽しんでいるようだった。年齢は想像もできないが、告白の聖地であった二本杉の近くで愛を語り合っているのだろう。ささやかな笑い声が絶えない。

 しかし、時間が経つと共に笑い声は変化を遂げていった。男性の声は相変わらず笑っていたが、女性の声はなんだか艶めかしい雰囲気を帯びてき始めた。服の落ちる音がする。

 命が消えたこの場所で、命を作ろうとしている者がいる。そんな風に思った。

 声はどんどん激しくなり、喘ぎ声と息を切らすような声になった。そしてたまに笑い合う。

 お互いがお互いの名前を呼び合う。大きな声で呼び合う。求めるように、幸せそうに、シアワセそうに……。

 突然、何かが崩れたように僕は大声で叫んだ。どの言葉を使ったのかは認識できないような声で、長い時間叫んだ。息の続く限り、一度も切らさないように叫んだ。とにかく叫んだ。叫んだんだ。


 日曜日。九月九日。空はとても青いです。

 昨日はいつの間にか寝ていました。叫び続けて疲れたんだと思います。でも今は元気です。体はもう疲れていません。

 僕のまわりにはたくさんのものが転がっています。へんてこな形をしたバッグや黒いめがね、リモコンにティッシュもあります。なんでこんなものがあるのかわかりません。少しこわいです。

 少し離れたところにマッチがありました。あれは火が出るのでこわいのですが、今日の僕にはなんだか光って見えたのでポッケに入れました。少しワクワクします。

 なんだかとても暑いです。僕の体が燃えているような気がします。でも火なんかついていません。でも暑いです。

 我慢ができなくなったのでちょっと走ってみました。そうすれば火が消えるかもしれないと思ったのです。でもあんまり変わった気はしませんでした。

 そういえば僕はこんなふうになったことがある気がします。体が燃えているのは初めてじゃないと思うんです。変なことです。

 そしたら僕は急にマッチをつけてみたくなりました。いつもは熱くてこわいし、やけどしそうでこわいのですが、今は体が暑いので大丈夫な気がします。

 僕はポッケからマッチを取り出しました。箱を開けて棒を持ちます。とてもドキドキします。

 ちょっとマッチをこすってみました。黒い所が少し白くなっただけで火は出ません。僕は少しイラっとします。

 次は強くこすってみました。すると急に火がつきました。火がつくのはわかっていたけど、僕はびっくりしてマッチを落としてしまいました。地面が燃えだします。消さないといけないと思いますが、熱さを感じないのですぐには消そうとしませんでした。

 熱さを感じずにゆっくり火を見ているとすごくきれいだなと思います。火はこわいものだと思っていたのでうれしくなります。

 けっこううれしかったのでもう一本火をつけてみます。火がきれいに燃えています。次は少し遠くに投げました。

 僕はどんどん楽しくなって、もう一本、もう一本と火をつけていきます。火はきれいに燃えていきます。熱さは感じません。楽しいです。

 僕はマッチを全部燃やしました。火はきれいに燃えています。赤、黄色、オレンジ、ピンク、白、青、紫。たくさんの色があります。きれいです。本当にきれいです。

 ハッと僕は気づきました。まさにここが僕の居場所なんだ!と。やっと見つけました。世界で一つの僕の居場所です。きれいな、楽しい場所です。やっと見つけました。やった!



 その日、八坂神社の雑木林から上がった炎は、消化されるまでのたった二時間で神社全体に広がり、全てを燃やし尽くした。

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