「もう一人の自分を愛してください」

宮崎ゆうき

「もう一人の自分を愛してください」

 デスクに高々と積まれた書類を眺めて、村上聡むらかみ さとしは溜息を吐いた。と同時に、もの凄い速さで辺りを見回す。

 溜息を吐いたと上司に知られれば、何を言われたか分かったものではない。

 幸い溜息は誰にも見られていないようだった。部屋にいる全員が他人になんて構っている場合ではないと言う風に、書類やパソコンと睨めっこ状態。


 ああ、死にてえ――。


 今月に入って聡は、そう思うことが多くなった。

 会社は繁忙期という事もあって、全員がせわしなく働き、退社する頃には日を跨いでいることも多かった。休日であっても、ほとんどの社員が会社に来て仕事をする。聡もその一人だ。


 新卒で入社して2年、早くも聡は会社を辞めたいと思っていた。しかし、どうにも踏ん切りがつかず、だらだらと時間だけが過ぎていく毎日を過ごした。


 俺は何のために生きているんだ――。


 何のために金を稼ぐ?


 稼いだ金を使うこともできないのに――。


 そんなことを思いながらも、結局何も変わらず、深夜になって聡はようやく仕事を終わらせた。


「もう電車、ねえじゃん」


 会社から自分の家までは徒歩で30分くらいの場所にあり、終電を逃したと言っても帰れなくなるという事は無かった。が、今から歩いて帰るのかと思うと、かなり憂鬱な気分になる。

 


                  〇


 ワンルームのアパートに帰宅するや否や聡はスーツのまま、ベッドにバタンと倒れ込んだ。

 今日俺は、いったい何回、死のうと考えたのだろう。

  

 窓から指す陽光に照らされながら、聡は目を覚ました。

 鳥がちゅんちゅんと鳴く外は、いつも自分が見ている朝の風景よりもなんだか賑やかな感じがした。


「ん、今何時だ?」


 壁に掛けられた時計を見ると、針は9時20分を指していた。


「えっ、えっ、ええええ!」


 やばい完全に寝過ごした。

 そう思いながらも意外と心は落ち着いている。この際、今日は体調不良という事にしよう。きっと怒られはしないだろう。

 聡は枕元に置かれたスマホを手に取ると、電話帳から会社を探し発信ボタンを押した。


「おっ、村上、体調はどうだ?」

 

 電話に出たのは同僚の遠山明とおやま あきらだった。


「えっ?体調悪いの知ってたの?」


「は?お前がさっき、インフルになったから一週間休ませて欲しいって言ったんだろ?」


「えっ、はっ、えっ?」


 状況が全く理解できなかった。

 俺は今起きたばっかで、体調が悪いのはさっき思いついた嘘で……。

 俺が電話した?

 インフルだって?

 意味わかんねえ。


「おい、大丈夫か?まあ一週間はゆっくり休めよ。仕事は俺らに任しとけ」


「……ありがとう」


「ほんじゃあな」


「遠山!」


 思わず声を上げてしまう。


「ん、なんだよ?」


「いや、インフルだって言ったの本当に俺だったか?」


「はあ? 当たり前だろ間違えるわけない。あれはお前の声だった。それにお前が村上だって名乗ったんだぞ。お前本当に大丈夫か?」


「うん。大丈夫、迷惑かけてごめん」


 通話を切ると、聡は腕をだらんと下した。

 一体どうなっているんだ。意味が分からない。でも一つだけ分かったことはある。それは、これから1週間は仕事に行かなくても良いってことだ。電話の事なんて最早どうだってよかった。聡の頭の中は今日から1週間どう過ごすかでいっぱいだ。


「とりあえず今日は思いっきり寝よ」




             〇


 目が覚めると、部屋は既に暗くなっていた。

 重くなった頭をぐるりと回しながら、聡は窓を開けた。

 夏の夜風は聡の火照った身体を、うまい具合に調整していく。

 あと6日、俺は休みをどう使おう。


「久しぶりに実家にでも帰ってみるかな」


 次の日の朝、聡は半年ぶりに母へ電話をかけてみることにした。


「もしもし。どちら様?」


「あっ俺だけど」


「はい? どちら様ですか?」


「俺だよ俺。さとし」


「ああ、聡? どうしたのよ。忘れ物でもしたの?」


「は? 何言ってんの?」


「何言ってんのって、あんた一昨日、家を出てったばっかりじゃない」


「はあ? 俺が?」


「そうよ。土曜に突然来て日曜の夕方に帰ったじゃない」


 母さんは何を言っているんだ。俺が土曜に突然来た?

 本当に頭が可笑しくなってしまったのだろうか。聡は土曜の事を思い出そうとしてみるが、頭の中に靄がかかったように、上手く思い出せない。

 考えれば考えるほど、頭が痛くなってくる。


「そう言えば母さん、俺が家を出る時、何処かへ行くとか言ってた?」


「言ってたじゃない。ほら誰だっけ、中学の時の親友の所に遊びに行くとかなんとか……」


「俊ちゃん?」


「そうそう! 俊ちゃんよ」


「分かった。ありがとう。また今度帰るよ」


 通話を切ると聡は直ぐに、中学時代の親友である坂本俊さかもと しゅんに電話をかけた。

 

「はい。どちら様ですか?」


「あっ俺だよ。聡」


 聡はこの時、妙な違和感を覚えた。


「おお、聡どうした? なんか忘れ物か?」


「お前まで、母さんみたいなこと言うなよ」


「ん、どういうことだ?」


「いや、悪い。何でもない」


「まあいいけど。昨日はありがとな。久しぶりに楽しかったぜ」

 

 やっぱり俊ちゃんも俺と会っている。どう考えても普通じゃないだろこれ。俺を装っている奴がいるってことなのか。でも、俊ちゃんは俺の中学時代の親友で別の誰かと俺を見間違うなんて考えられない。

 考えども、考えども、納得のいく答えは出てこない。信じたくはないが、もう一人の自分、二人目の自分が居るとしか思えなかった。


「日曜の晩、俊ちゃんと俺、何話したっけ?」


「なんだよ、飲みすぎて忘れちまったのか? まあ大体は仕事の話とか中学時代の話だな」

 

 仕事の事や中学時代の事を知っている自分にそっくりな奴なんて、いる筈がない。

 やっぱり俺がもう一人いるんだ。

 聡が考えていると、まるで思い出したように俊が声を上げた。


「あっそうだ。さとっちゃん、スマホ変えたの? 番号変わってたけど」


「えっ?」


 スマホなんて変えた覚えはない。番号が変わっているなんてあり得ない話だ。

 そこで聡は、さっきの違和感が何だったのかハッと気づいた。駿は聡の電話番号を登録しているのにもかかわらず、どちら様ですかと尋ねたことに違和感を感じていたのだ。


「あっ、そう! そうなんだ今日変えたばっかりなんだよ。だから電話したのもあって」

と、聡は適当に話を合わせる。


「そういえばさ、酔って覚えていないんだけど、俺どこかに行くとか言ってなかった?」


「ああ、そう言えば言ってたぜ――」



 ブーン、ブーンと低い振動音が部屋の中で微かに響く。

 やっぱりか。疑念は確信に変わり聡はベッドから勢いよく立ち上がった。

 スマホを強く握り締め、微かに届く振動音に耳を澄ませる。しかし、いつの間にか振動音は途絶え、シンとした空気が部屋の中をぴりつかせていた。


「もうバレてんだよ。出て来いよ!」


 大声で叫ぶ。

 同時にクローゼットからガタッと言う音がしたかと思うと、ゆっくりと開いていく。何も知らない人が見たら完全に心霊の類だ。


「気づくのおせえよ。さすが俺だな」


 クローゼットから出てきた、もう一人の自分が頭をポリポリと掻きながら笑みを浮かべている。

 まるで、鏡を見ているように自分と瓜二つの人間が目の前に立っていた。


「お……お前、何なんだよ!」


「俺はお前だよ」


「ふざけんな。俺が俺だ。俺以外は俺じゃない!」


「そんなことも無いんだよなあ。ってかどっちかって言うと俺の方が俺なんだけど」


「どういう意味だよ」


「要は、俺がオリジナルでお前が二番目ってこと」


「はあ?ふざけんなよ。そんなわけないだろ」


「まあ信じられないのも仕方ないよな。お前には記憶がないんだから」

 

 目の前に立つ自分がソファーにドサッと腰を下ろすと、こちらを見て手招きをした。


「まあ、座って話そうぜ」


 聡はテーブルを挟んで、もう一人の自分と対面になるように座った。


「さっさと、説明しろよ」


「焦るなよお。時間はたっぷりあるだろ? 1週間も休みにしてやったんだから」


 やはり、目の前にいるこいつが会社に電話したのか。


「案外、驚いてないなあ。想像してた通りって感じか?」


 相手の言葉に応えるように、こくりと頷く。


「そうかそうか、まあ一番気になるのは何で同じ人間が二人いるのかって所だろ?教えてやるよ」

 

一息つき、もう一人の自分が続ける。

 


                 〇


 あれは、金曜の夜の事だ。

 仕事が終わったのは0時を回っていた。

 その時の俺は心身共に疲れ果てていて、クタクタだった。おぼえているだろ?何度も何度も俺は思っていた筈だ。


 死にたいと。


 よく思い出せ。俺はその後どうしたのか。


 なんだ、やっぱり思い出せないのか?


 自殺しようとしたんだよ。


 歩道橋から身を投げようとした。でもできなかった。怖気付いたわけじゃない。あいつが現れたんだ。そして言った。

「私の、お店に寄って行きませんか?」ってな。

 俺はどうせ死ぬならと思って、付いて行ったよ。もうどうにでもなれって気持ちもあったが、藁にも縋りたい気持ちもあったのかもしれない。あの時、俺の目にはあいつが女神のように映っていたよ。

 そしてそれは現実となった。

 小さな個室に案内され、唖然としている俺の額にあいつが手をかざしたその時だ。

 もう一人の自分が目の前に現れたんだ。


 お前のことだよ。


 そして、お前が現れると、あいつは俺の額から手を離して、こう言ったんだ。

「あなたの憂鬱な心を引き剥がしました」ってな。

 それからの俺は人が変わったみたいに、ポジティブになれたよ。好奇心や行動力、挑戦心みたいなのが、お腹の辺りから湧き上がってくるんだ。

 何を見ても笑顔になれた。楽しくて、楽しくて堪らなかった。

 親友や家族との時間を全力で楽しんだ。心の底から何回も笑った。すごく久しぶりの感覚だった。


 そして、お前が可愛そうになった。


 俺が戻ってきたのは、もう一度お前を受け入れようと思ったからだ。今ならお前と一緒でも頑張れる気がする。

 同じ人間は二人もいらない。一番目とか二番目とか、そんなのあっちゃダメなんだよ。


 あの時、歩道橋の上であいつが言ったことを思い出したんだ。




「もう一人の自分を愛してください」











  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「もう一人の自分を愛してください」 宮崎ゆうき @sanosakasa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ