ごめんね、キーちゃん
寒夜 かおる
ごめんねキーちゃん
ぬいぐるみに異様に固執した幼少期がある。
とにかく夜を恐れる子どもだったので、ぬいぐるみに囲まれていないと眠れなかった。その数が多ければ多いほど安心したのを覚えている。
「目があるものを粗末に扱うな」
母の口癖だった。どんなものにも魂は宿るという信念があったのか、物を大事に使う人になってほしかったのか。母の気持ちは母にしか分からないが、幼い私はその口癖に従い、ぬいぐるみを我が子のように可愛がった。
男の子だけど女の子の服を着たウサギのルーちゃん。バザーで買ったおこじょのシロ。アメリカ生まれのジャックくん。私を守る夜の
毎日毛づくろいまでする始末だったが、そんな私にもあまり好きではないぬいぐるみがいた。
「そこに飾らないで!」
名前はキーちゃん。
キツネのキーホルダーだから、キーちゃん。
幼少期の私にとってはぬいぐるみもキーホルダーもフィギュア一緒で、要するに動物の見た目をしていたら全て私の騎士なのである。
キーちゃんは本当に小さかった。どれくらい小さいかというと、頭から尻尾までを伸ばしてみてもボールペンくらいしか身長がなかった。
キーホルダーなので学校に持っていくこともできたが、キーちゃんは私の部屋にずっと居た。怖がりの娘のために、母がキーちゃんをカーテンのふさ掛けに飾っていたからである。キーちゃんのその定位置が良くなかった。
今その姿を見ても思い付きもしないだろうが、私はカーテンのふさ掛けにぶら下がるキーちゃんが視界に入るたび、こう思っていた。
(首吊りみたい……)
脳天ではなく頚椎からチェーンを出している。それを隠すために巻かれた首のリボンすら不気味で、よく母に抗議していた。そこには飾るな、と。
またキーちゃんには最悪の欠点があった。
2番目なのだ。2代目とも言える。
キーちゃんは『キツネのキーホルダー』の2代目だった。
2代目キーちゃんと全く同じ製品の先代キーちゃんは、キーホルダーとしての任務を全うし見事に果てた。最期は道路の排水溝からハシゴを渡って天国に行ったと母は言う。
泣きじゃくる私を見兼ねて父が用意したのが2代目キーちゃんだった。全くの同種。まごう事なき新品の2代目。得意げに私に見せつける父の
同じようにぬいぐるみを大事に抱きしめたことのある人ならきっと私のことを分かってくれるだろう。
2代目って、なんだかとっても、偽物なのだ。
毛の生え方だとか目の位置だとか自分の手に馴染まない質感だとか。同じ見た目をしているくせに、愛着が全く湧かない。今まで自分の騎士だったキーちゃんは死んで、代わりにただの『キーホルダー』がやってきた。私は本気でそう思っていた。
時は過ぎ、現在の私は今、動物園にいる。
弟が大学に合格した。盆も正月も帰れない予定なので、家族で近所のここに訪れたというわけだ。弟はしばらくお別れになるバイト先を懐かしそうに眺めている。私はというと、ぼうっとキツネの檻を眺めている。だからキーちゃんを思い出して物思いに耽ってしまったのだと思う。
「ねーちゃん、キツネ好きなん?」
「嫌い」
興味本意で話しかけてきた弟は私の一言を聞いて面倒くさそうな顔をした。私は無視して手すりにもたれかかる。そしてガラスの向こうで動く彼らを眺めた。そういえばキーちゃんもこんな色をしていた気がする。彼の胸が白いことは覚えていないが、耳の端は黒く染められていたはずだ。
キーちゃん。ふさ掛けで首を吊りながら私を見守っていたキーちゃん。決して一緒の布団で眠らせてもらえなかったキーちゃん。2番目だからという理不尽な理由で大事にされなかったキーちゃん。
「……昔、キツネのキーホルダー持ってた」
「ねーちゃんが?」
「うん。お父さんがくれた」
「よく覚えてんね」
「覚えてる。よく覚えてるよ」
「キツネ嫌いの原因?」
「うん。向こうが私を見限ったんだもん」
「?」
「……ごめん、なんでもない」
耳を立てたキツネがふらりと私に近づいてくる。私は視線を絡めたくなくて、手すりに背中を預けた。
春風が頬を撫でるたび、あのことを思い出す。排水溝に消えていった先代のキーちゃんではなく、2番目のキーちゃんの最後。キーちゃんが私を見限ったのもこんな風が吹いている日だった。
「嫌な風……」
春。まだ小さい弟と、彼を世話する母は家に置いて、父とふたりでコンビニに行った。有給休暇消化のため期末月だというのに休みを貰った父を外に出させるためだ。家から部屋着で行ける場所はコンビニくらいしかなかった。
「ラーメン買ったら帰ろうね」
春が近づくぽかぽかとした陽射しの中を、私は父とキーちゃんと歩いていた。父が買ってくれたキーホルダーなので、今日くらいは、と思ったのだろうか。お気に入りのポシェットにキーちゃんを引っ掛けて出掛けたのははっきり覚えている。キーちゃん、ついにキーホルダーとしての本領発揮である。
道の途中で父がキーちゃんに気付き、可愛いねと褒めていた。私はそれになんと答えたのだったか。
「もうちょっと優しく歩いてごらんよ」
「歩いてるよ!」
「ポシェットを蹴っちゃ駄目だよ」
「違う!蹴ってない!当たるだけなの!」
肩から下げたポシェットは腰元ではなく太ももあたりまで長さがあって、だから私はポシェットを蹴るように歩くことを余儀なくされていた。ポシェットについたキーちゃんが揺れる。
ぐるんぐるん、ぐるん、ぐるん。
キーちゃんがどんなにポシェットに打ち付けられても私は気にしなかった。何故なら2番目のキーちゃんだから。これに魂はない、偽物なのだから。
その日、キーちゃんは消えた。
ポシェットには確実につけたはずだ。カチリと音がしたはずだ。絶対につけた。絶対に。
でも。
何度確認しても、何度ポシェットをひっくり返しても、キーちゃんは見つからなかった。コンビニと家を結ぶ平坦な道を何度も探したが、やはり居ない。まるで最初から存在しなかったかのようにキーちゃんは消えてしまった。
その出来事を私はどう受け止めたかというと、なんと酷く慌てふためいたのだ。キーちゃんがいない、と。
「キーちゃん、キーちゃんがいない! キーちゃんがいないよぉ……!」
あれだけぞんざいに扱っていたくせに。
2番目というレッテルを貼って嫌ったくせに。
私はポシェットから逃げ出したキーちゃんを確認すると、この世の終わりのような声を出し家族に詰め寄った。そもそも連れ出していないのかと思い、カーテンのふさ掛けを穴が空くほど見つめる。いない。どうしよう!
私のあまりの狼狽に母が見兼ねて慰める。
「森に帰っただけだよ」
とても残酷な慰めであった。母に勿論他意はなかったが、私にはそれがキーちゃんからの悲痛な叫びにしか聞こえなかった。
嫌われてるので、耐えられません。
僕は森に帰ります。
蹴り上げたポシェットから凶暴な風がキーちゃんを攫ったのが事実だと感じながらも、私は森に帰る、というフレーズに心を締め付けられた。
ついに涙腺が崩壊し、私はその場に突っ伏して泣いた。母と父は私がいじらしいと感じ微笑んでいた。
「キーちゃんはお母さんキツネと幸せに暮らしてるよ。だから心配しなくていいんだよ」
お母さん、小さい私はキーちゃんの身の上を案じて泣いてるんじゃない。やっと誰かに嫌われるという痛みを知って、泣いているんだよ。
きゃあ、という黄色い声により意識が過去から現在に戻る。隣を見れば中学生くらいの女の子たちがキツネの檻の前ではしゃいでいた。声につられてついキツネたちを再度視界に入れる。彼らは利発で涼やかな顔をして、私を一心に見つめていた。誰にも媚びていない顔つきがやっぱりキーちゃんにそっくりだ。
「……キーちゃん、森に帰っただなんて嘘だったんだね」
声にはせず、そっと心の中で私はそう呟く。キーちゃんたちはぬいぐるみのように微動だにせず、聡明な眼差しを私に送り続けた。私の呟きはまるで皮肉に聞こえるが、本当は後悔を噛み締めた台詞なのだ。
いつの間にか遠くにいる弟が私を呼ぶ。次のエリアに行こうと言っていた。
「……ごめんね、ごめんね。キーちゃん」
懺悔を聞く前に、それまで地蔵だったキツネたちは檻の奥へと駆けて行った。女子中学生たちの残念そうな声が辺りに響く。
私は弁明の言葉もなく、ただただ惨めにその場を後にした。
ごめんね、キーちゃん 寒夜 かおる @yo-sari
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