彼女が拳を握るのは 3
(どうして、こんなことになってしまったんだろう)
紫乃は、衛と優香の戦いを震えながら見ていた。
戦局は徐々に傾いていった。
初めは防戦一方だった衛だが、優香の服の端を捉える回数が次第に増えていく。片や優香はその手を振り切るのに精一杯で、攻撃の手が明らかに減っていった。
相変わらず、優香の攻撃は当たらない。手も、足も、風も、土も、草も、柵も。一撃二撃掠ることはあっても、それで衛の足が止まることはなかった。衛のスピードも徐々に落ちてきてはいたが、優香の攻撃も、狙いがどんどん甘くなっていく。
このままでは、いずれ優香は捕まってしまうだろう。
瞬間移動ができる優香をどうやって拘束するつもりなのか、紫乃には分からなかったが、それも何か策があるのだろう。
こんなはずじゃなかった。
優香と先輩が戦うなんて、こんなことになるとは思わなかった。
紫乃はただ、先輩達に笑ってほしかったのだ。
――馬鹿ね、紫乃ちゃん、そんなこと、あるわけないじゃない。
藍先輩には、そう言って何でもない風に、怖い噂を笑い飛ばしてほしかった。
しず先輩は、きっと優しい声で、私の悩みを聞いてくれるだろう。
奥月先輩は、おどけたセリフで、私の悩みも笑い話にしてくれるだろう。
日野先輩は、何か小難しいことを言って、噂のことを否定してくれるだろう。
そんな風に思ってた。
私は明日、先輩からのアドバイスをもらって、優香のことを説得するのだ。
噂なんて嘘に決まってる。
だから優香、危ないことしないで。
そう言うつもりだった。
(それが、どうして、こんなことに?)
優香は泣いてる。
綺麗な髪を振り乱し、土埃に塗れて、泣きながら戦ってる。
悔しいのだろう。
怖いのだろう。
悲しいのだろう。
私は優香の味方じゃなかったのか。
優香は今、一人だ。一人で戦ってる。
私を守る。そう言ってくれたのに。
私は優香を傷つけてしまった。
でも、だからって、私に何が出来る?
小動物を一匹操る能力で、一体何をどうするというのだ。
あんな出鱈目な戦いを続ける二人に、私ごときが、何を出来るというのだろう?
「ね、紫乃ちゃん」
その時、今までひたすら二人の戦いを見守っていた藍が、紫乃の顔を覗き込んできた。
ひくっ、と、しゃくりあげるような声があがった。
その時、初めて紫乃は、自分が泣いている事に気づいた。
「紫乃ちゃんは、どうしたい?」
「え……?」
優しい声で、藍が囁く。
「もうそろそろ、決着がつくと思う。多分、奥月が勝つ。優香ちゃんは、亘田に攻め込むなんて、もう言わなくなるだろうし、噂の出どころについては、今かずいとしずが調べてる。噂が嘘なら、それを広めた人を巽君に引き渡して、この話はお仕舞い。噂が本当なら、それも巽君にお願いすれば、何とでもしてくれるだろうし、多分久城君も黙ってない」
もう問題は解決したのだ、と、藍は言っている。
頼りになる、私の先輩。
「でも、紫乃ちゃん。紫乃ちゃんは、どうする? このまま私達が解決しちゃって、大丈夫?」
「わた、しは……」
藍は何かを、伝えようとしている。紫乃の頭に、霧が渦巻く。景色が白く濁っていく。
「奥月はね、今、私のために戦ってくれてるの」
「え?」
驚いて顔を上げた紫乃は、照れ笑いをする藍の顔を見た。初めて見る顔だった。
「ごめん、ちょっと嘘。本当はね、
藍の声は、どこか嬉しそうで、また、どこか寂しそうだった。
「優香ちゃんだって、そうだよ。今はちょっと周りが見えなくなっちゃってるけど、あの子だって、紫乃ちゃんのために、戦ってる。紫乃ちゃんは、どうしたい? 誰のために、戦いたい?」
「でも、私には、戦う力なんて――」
「大丈夫だよ。さっき奥月も言ってたでしょ。強い力と、強い心、って」
「え……?」
紫乃の頭の中の霧が、薄くなっていった。
力強く、優しい言葉が、光となって胸の奥に届く。
「紫乃ちゃんの『力』は、とっても強い。
だから、何だってできる。
それが、中学生なんだよ」
◇
優香の頬を、汗の雫が流れ落ちた。
暑い。
呼吸はとっくに上がっていた。
何度突き放しても、何度振り払っても、執拗に優香を捉える衛の腕。
運動量では、向こうのほうが何倍も上のはずなのに、未だに失速する気配はない。
そして何より、自分の攻撃がまるで通じない。
何度狙っても、こちらの動きを予測するかのように、するりと躱されてしまう。
相手に何かの能力を使っている気配はない。
自分は、これだけ能力の大盤振る舞いをしているというのに。
暑い。
汗が流れ落ちる感触が首筋を伝う。
叫び声も枯れ果てた喉が、ひりついた。
土に塗れた腕で顔を拭う。
今、先輩との距離は、概算十五メートル。
フェンスを操る攻撃をよけた彼は、膝をついている。
(今度、こそ……!)
両肘の先が、大気と同化する。
大質量の、風のハンマー。
(右側に寄せて、避ける方向を限定させる。最速で頭上に瞬間移動して、決める!)
先輩はまだ、体勢を崩してる。
その彼が、膝をついたまま右手を前にかざした。
ああ、それにしても暑い。
息苦しい程、
次の瞬間、優香の視界が、白く染まった。
(何、これ!?)
何も見えない。
これは、霧?
一瞬の動揺で、衛の頭上に編み上げた風の塊は霧消してしまった。
(しまった!)
地面を蹴る音が高速で近づいてくる。
(逃げなきゃ)
瞬間移動。
でも、何処に?
真っ白だ。
これでは、何処に逃げたらいいか分からない。
足音が近づいてくる。
(駄目、やられる……!)
その時。
「駄目ぇぇぇっ!」
耳を劈くような叫び声が、背中から聞こえた。
「うおっ」
驚くほど近くで、男の声がした。
「いたたたたたた、痛い、ちょっと、爪! 爪が! ぐ! うぐゅ」
何かと何かがぶつかる音。
地面に倒れ込む音。
それきり、衛の声は聞こえなくなった。
「優香!」
紫乃の声が、聞こえる。
「紫乃!」
でも、見えない。
真っ白だ。
何も見えないよ、紫乃!
「優香! ここだよ!」
その時、ようやく優香は、自分の能力を思い出した。
風が吹き抜け、霧が晴れる。
目の前にあったのは、見飽きるほどに見慣れた、幼馴染の顔だった。
涙と鼻水が混じった顔で、紫乃は優香に抱きついた。
「ごめん! ごめんね! 私、ただ、優香と前みたいに、お喋りしたくて、優香に危ないこと、してほしくなくて! でも、優香の顔、すごく怖かったから、変な噂とか、秘密とか、訳わかんなくて! でも、優香、優香は! 優香は私の! 友達だから!」
何を言っているのか、さっぱり分からなかった。
でも、それは優香のよく知る、紫乃の顔だった。
小学校の頃喧嘩したときも、そうやって、訳の分からないことを喚いて、泣きじゃくってたっけ。その時の私は結局、つまらないことで意地を張ってたのが急に馬鹿らしくなって――。
「ごめんね、紫乃」
そう言って、この子の髪を撫でたのだった。
◇
衛は地面に倒れ込んで体を丸めていた。小刻みにぶるぶると震えているのが分かる。
衛の頭の横には、一羽のカラスが留っていた。
紫乃は、優香に突撃する衛に自身の能力でカラスをけしかけ、大きくのけぞった所を正面から体当たりで突き飛ばしたのだ。
一通り泣きじゃくった紫乃は、振り返り、きっ、と衛を睨みつけた。
「奥月先輩、ずるいです! 本当は藍先輩の能力使って戦ってたくせに! 私、優香を守ります! こ、これ、これで、にに二対二でふ! さあ、どどどどっからでも――」
衛は地面に倒れたまま動かない。
「奥月先輩?」
衛は、男子の中でもかなり長身の部類に入る。
対して紫乃は、しずりと比べても変わらないくらいの、小柄な体躯だ。
さて、想像して欲しい。
思い切りのけぞった状態の長身の衛に、背の低い紫乃が、身を屈め正面から体当たりをした時、何が起こるか。
「勝者、紫乃ちゃん!」
藍の声が、高らかに響いた。
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