後輩からのお悩み相談
ある美術部の活動 1
傷だらけの木製テーブルが並んだ大教室だった。
テレピン油の匂いの染みついた八つの作業台には、それぞれ中央に花の生けられた花瓶や、果物の乗った籐籠などが一つずつ置かれ、その周りを、何人かの生徒達が囲んでいる。
生徒達はみな厚手のエプロンや、サイケデリックな染みが目立つ白衣を制服の上から身に付けており、それぞれの手には、スケッチブックと絵筆がある。テーブルに置かれたいくつかのプラスチック製のバケツは、中が三つに区切られ、カーキ色に濁った水がなみなみと入っている。
熱心に絵筆を走らせる生徒達の中、未だにクロッキーすら完成していない生徒が、一人だけいた。
所々に絵の具の染みがついた作業台に片肘をつき、掌に顎をのせて、もじもじと鉛筆を動かしている少年。
日野かずいだった。
彼の無表情な顔は半眼に伏せられ、焦点が合っているのかすら定かでない暗黒の瞳が、じっと水彩紙の上に向けられている。
黙々と絵を描く生徒達の息遣いでさえ聞き取れる程の、緊張した静寂が、放課後の美術室を包んでいた。
「……そのラインを越えないことだ」
その静寂に小石を投げ入れるように、ぽつりと誰かが呟いた。
びくっ、と、かずいの肩が震える。
作業台を挟んだ彼の向かいの席には、にやにやと笑う美男子の姿がある。
「いやぁ、かっこよかったなーかずい君。『ここは中学校だ。いつまでも小学生気分じゃ、痛い目見るよ』」
ぷふっ、と、隣の席の少女が吹き出した。
「んぐぅ」
かずいは顔を俯けたまま、唇を噛み締める。
良く見てみれば、美術室内の生徒は皆、絵筆を握りながらも、時々肩を震わせて、必死に笑いを堪えている様子だった。
「いやー、みんなにも見せてやりたかったなー、ほんと、かっこよかったんだから、かずい君。俺が女子なら惚れてたね、ホント。せめてそのかっこいい台詞だけでもみんなに伝えるのが、その場にいた俺の使命だよなー」
白々しい声で、向かいの席の美男子――奥月衛は喋り続ける。
その手のスケッチブックには、既に色鮮やかな春の花が咲いている。今にも匂い立ちそうな淡い花弁に最後の彩りを足していた手を止めて、衛は溜めもたっぷり、厳かに言い放った。
「『そのラインを、越えないことだ』。キリッ」
その瞬間、美術室が爆笑に包まれた。
「だっはっはっはっはっはっはっはっはっは」
「あはっ、あははははは。は、は。はぁぐっ。げほっ、ごほっ」
「レイリー? レイリーなの!?」
「やめてよー、もー」
「惚れてまうやろー!」
「ねー、ちょっとやってみせてよ、日野君」
「日野せんぱーい」
「そのラインを! 越えないことだ! どん!!」
「いぃーやぁーん!」
橋町中学校の美術部は部員二十数名からなる、この学校の中では中規模の部活だ。
男女比は1:4。
顧問の教員が放任主義なこともあり、基本的には好きな時に集まって各自好きなことをする自由度の高い部活だが、毎週月曜と木曜は、集会と称して部長がテーマを決め、全員でその課題に取り組むのが通例だった。
本日は四月の第四月曜日。
テーマは水彩画でモチーフは静物、と部長の太刀川夕からお達しがあったのは、帰りのHR直後の事。しかしそれと同時に、肝心のモチーフが足りない、ということで、平部員のかずいと衛は、どこかから花瓶と生花を貸して貰うようにと命じられてしまった。
何故二年生の俺達が、と抗議する衛に、部長の言いて曰く、
「今年の一年はみんな女の子だから、君達のヒエラルキーの位置は変わらない」
とのこと。
女尊男卑の文化部にはよくあることである。
渋々と放課後の校内をうろつく二人は、確か保健室に生花が飾ってあったはず、と、別館に足を伸ばした。そしてその途中で、運悪くガラの悪い一年生に絡まれてしまったのだ。何とかその場を切り抜けた二人は、たまたますれ違った巽恭也に後始末を丸投げし、大きく迂回して保健室に向かうと、昼寝をしていた保健医に置き手紙を残して、無事花瓶をかっぱらって来ることに成功した。
しかし、かずいにとっての真の敵は身内にこそいたのだ。かずいは先程から一年生をあしらった際に用いた小芝居についてさんざんからかわれた挙句、部員全員の前で決め台詞を大暴露されるという苦行を味合わされているのだった。
「それにしてもあんたら、一年生にカツアゲされるとかどんだけ舐められてんのよ」
笑いすぎて目尻に涙を浮かべた外はねショートの女生徒――御子柴藍が未だに余韻の抜けきらない表情で言う。
「うるさい。俺は平和主義なんだ」
言い返されたその言葉には、明らかに力がなかった。
「へえ、それで? 平和主義者のかずい君は、口先だけのはったりとインチキで下級生を騙して、一目散に逃げてきたと?」
「……仕方ないだろ、喧嘩なんて出来るか。蓮でもあるまいし。大体、衛が隣で変な顔して笑い堪えてたから、俺があいつらの相手しなきゃいけなくなったんだろうが」
恨みがましく衛を睨め上げるかずいに、衛がにやけ顔を崩すことはなく。
「いやー、カツアゲする不良なんて久しぶりに見たから、何か微笑ましくってさ。それに、俺が本気で相手したら、流石にあの子達も可哀想でしょうよ」
「まあ、中学生で空手二段なんて、身体強化能力持ってんのと変わんないわよね。ていうか、かずい。偉そうなこと言って、あんた結局最後は奥月の能力頼りだったんでしょ。情けなさにフォローの余地がないわ」
「うぐっ」
鉛筆を持つかずいの手がぎゅうと握り締められる。
「まぁまぁ御子柴。俺の能力あんな風に使うの、かずいくらいだぜ。それにかずいなら、ちゃんと自分の仕事をこなしてくれたさ。俺じゃとても、ぶふっ。あ、あんな台詞は出て来ない……」
「こ、の……」
「あ、あの!」
割って入ったのは、先程からおろおろと三人の様子を見比べていた赤縁メガネの少女――深山しずりだった。
「と、とにかく、二人とも、怪我がなくてよかったよ。うん。あんまり遅いから、心配したんだよ?」
両手を握り締め、あわあわと言うしずり。その表情からは、本気で二人を気にかけていた様子が伝わってきた。
その姿に衛は気まずそうに頬をかき、かずいは憮然とした様子で腕を組む。
「そ、それに、日野君は、頭脳労働の人なんだから。確かに、いじめられやすそうな顔してるし、駆けっこで藍ちゃんに負けちゃうこともあるし、さっきの台詞は私も正直どうかと思うけど、そんなこと、全然、気にすることないんだから」
「ぐふっ」
それきり、かずいは動かなくなった。
「しず、あんた……」
「え、あれ? 日野君?」
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