第24話 「落ち着け、ティターニア」

常若の国ティル・ナ・ノーグは、一面花の咲き乱れる楽園だった。遠くの方には低い山がそびえ、薄紫色の空に、ピンク色の雲がたなびいている。ノアたちの首筋にやわらかくからまって吹いていく風は、どこか甘い匂いがした。住人はまるでたんぽぽの綿毛のように、ノアたちを見てさざめいてはふわふわと笑っている。


「あんまり、注目とかされないんだね」


 一瞥もすればまた自分たちの世界に戻ってしまう妖精たちを横目に見ながら、声を潜めてルチアはフローラに耳打ちした。


「妖精は大体、そういうものよ。ここじゃあ私みたいなのの方が珍しいんだわ」


 フローラの説明に、ウィリアムさんちのドリアードを思い出し、なんとなく納得してしまうノアである。


「俺も入れてよかったあ……でも何でかな? 人避けの結界とかないの?」

「抜け道から来たからじゃないかしら。あれはどこにでも現れてすぐに消えてしまう穴のようなもの。そもそも、結界なんて張れるようなものじゃないのよ」


 ノアの膝の上に座って、フローラは同じ場所から動かない。移動範囲が大きいだけ、外界との時間のズレも大きくなるのだそうだ。


「フローラ」


 声をかけてきたのは、フローラと同じ種類のピクシーたちだった。


「フローラ、この人たちはなに? フローラはどうしてそんなに変な顔をしているの?」

「この人たちは……何でもないのよ。この顔は……悲しい顔。悲しくて、寂しくて、こうなるの」

「……悲しい? 寂しい?」


 くるくると連れ立って回りながら、「それってなあに?」「知ってる?」「知らない!」とピクシーたちが声を上げて確認しあう。


「あなたたちにはわからないわ」

「僕たちにはわからないの?」


 ひどく悲しい顔で肩を落としたフローラに、不思議そうな顔をしながら、ピクシーたちがひとり、またひとりと興味を失い離れていく。悲しさや寂しさに馴染みのない彼らには、フローラの気持ちが本当にわからないのだ。


 そして彼らが去った後に、連れ立って妖精王とその妻オーベロンとティターニアがやってきた。どうせ全部見えてるんだもの。そのうちあっちからやってくるわよ──そう言ったフローラの言葉通りだ。

 突然巻き起こった嵐のような風に、周りの妖精たちが慌てふためき、散り散りになって逃げていく。

 髪が風に吹かれて舞い上がり、服の裾や袖がばたばたと音を立てるほどの風圧に、フローラを抱えてノアは耐えた。隣でルチアも身をかがめ、同じようにしている。

 風がふっと途切れてオーベロンとティターニアが現れたとき、ノアとルチアは風から体を守るため、ちょうど深く頭を下げていた。


「そのまま頭を下げていて!」


 少し遅れて状況を把握し、「下手に上げると首が飛ぶわよ!」とフローラが忠告する。


「フローラ」


 神経質そうな女の声に、フローラはノアの手の中で「ひぃぃっ」と体を丸めてしまった。お父様のところへ行く、と言ったときの覚悟はどこへ行ってしまったのか、今の彼女には見えない。


「あなた、どうしてここにいるの? お父様が追放処分にしたでしょう? あなたはお利口さんだったのに……忘れちゃったのかしら?」

「お、おか、おかあさま──」


 けれどどこかにはあるはずだ。あの時確かに、この目で見た。これがきっと取っ掛かりになるはずだと信じて声を潜め、「イーサンのことを思い出して」とノアはフローラを誘導した。はっと手の中から息を飲む音がする。ぶるぶるっと何かを思い切るように羽を震わせ、ノアの手の中から、ようやくフローラは飛び立った。


「お父様! 私、お父様にお話があって来たのです」

「んん~? 俺にか?」


 フローラの声に、どこか緊張感のない、間延びした声が返る。頭を下げているので顔は見えないが、オーベロンの足には鹿のような毛皮とひづめがあった。ティターニアは、緑のロングドレスに、のままのつた蔓草つるくさを這わせている。ところどころに花や実、木の葉があしらわれ、洒落た模様のようだった。


「フローラ、今はお母様とお話をしていたでしょう。オーベロン あなた も、余計な口出しをしないでください」

「そうは言ってもな~。フローラは俺に話があってきたんだろ? 話を聞くくらいいいじゃないか。ティターニア おまえ の方こそ、ちょっと黙っとけ」


 短い会話だったが、それだけでなんとなくノアとルチアにも二人の力関係がわかる。ティターニアの影響力は強いが、最終的に決定権を持つのはオーベロンだ。だからこそフローラも、母ではなく父に会いに行くと言ったのだろう。予想通り、ティターニアは口をつぐんだ。


「それで、俺に何の話だ?」

「……こっ、今回の処分に不満があって来ました」

「……ほう」


 地を這うような低いオーベロンの声に合わせて、急速に辺りの温度が下がった。


「不満があるなら言ってみろ」


 足元の花が、しおしおと萎んで枯れていく。


「わっ、私の行いを悪と断じたなら、私を射れば良かったはずっ。関係ない竜人族の若者を害するのは筋が違うというものです!」


 少しだけ怯んでそれでも踏ん張り、フローラは逆に食って掛かった。


「んん……? 俺そんな命令出したっけ? それで、その若者は死んでしまったのか?」

「い、いえ……まだ生きてはおります」

「なら、別に良いではないか」


 オーベロンの声はあっさりしている。下がった気温ではなく、他種族とはいえ人ひとりの生き死になどどうでもいいというようなその声にこそ、ノアは震えた。


「よっ、よくありません! 一歩間違えば死んでしまうような傷だったのですよ!」

「そこが俺にはよくわからないんだが……ティターニア」

「はい。そこから先は、わたくしが説明しましょう。一連のこと、既にあなたたちも、オーベロンがしたことではないと気付いているはず」


 オーベロンの了承を得て、ティターニアが話を引き継いだ。


オーベロン この人 は、あなたの追放処分と、彼の記憶を消すよう言い渡しただけ。実行したのは私です。つまりそのあと気が変わってあの子どもを殺そうとしたのは、わたくしの独断。あなたへの罰には、一番手っ取り早いと思ったから」

「罰……?」

「そうよ。これもそれも、二度と変な気を起こさぬよう、あなたの気持ちをくじくためにしたこと」


 信じられないと目を見張るフローラに、ティターニアはとくとくと説いて聞かせる。


「これだから感情を持つことは危険なのです。喜びも安らぎも、すぐに悲しみや寂しさに取って変わる。そしてそれは、やがて恨みや憎しみに変わるのよ。今回のことで、それがあなたにもよくわかったでしょう。あなたはさぞかし、わたくしが恨めしかったはず。わたくしは可愛い子どもたちに、出来る限りそのような思いをさせたくないのです。だからこの国の民たちの感情を制限している。わかりますね?」


 決して納得したわけではないが、さっきのピクシーたちとのやり取りを思い出して、フローラは唇を噛み締めた。感情ひとつ得ただけで、自分はこんなにも変わってしまった。数日の間に、ここまで深く隔たってしまう。今のフローラには、元のように仲間たちと何も知らず笑い合うことは難しい。

 この静かな国に、こんなはげしい感情を持ち込むのは危険だ。

 順を追って説明されれば、感情を得た自分を、追放処分にしたオーベロンやティターニアの気持ちもわかる。


「その理屈はわかりますけど……でもやっぱりイーサンを傷つけたのは許せません。それに、イーサンの記憶は? あの子は両親もない不幸な子ども! 何を思ってあの子の記憶を奪ったのですか!?」

「かわいそう? あなたと出会ったとき、彼は本当にかわいそうだったかしら?」


 ティターニアの問いかけに、自分と会う前の飄々としたイーサンの暮らしぶりを思い出し、ぐっとフローラは言葉に詰まった。


「彼は今まで何の不満も不自由もなく暮らしていたはず。少なくとも、自分をかわいそうだと思ったことはないはずです。そんな彼に、あなたは花のかぐわしさを教えてしまった。世界がこんなにも色に満ちていることを教えてしまった。かわいそうだとか、かわいそうじゃないとか、あなたが勝手に決めてはなりません。残酷なのはあなたよ、フローラ。オーベロンはそんな彼をかわいそうだと思って記憶を消すように指示を出しただけ。何か、反論はありますか?」


 黙りこんでしまったフローラに、ふう、とため息をついて、「たくさんの人に迷惑をかけてしまいましたね」とティターニアは嘆いた。


「あの子どもが生き延びるとは思っていませんでしたが……こうなった以上、あなたをもう外に出すつもりはありません。あなたは追放処分ではなく、記憶を消した上で幽閉処分とします。あの子どもも、記憶を戻さない代わりに、命までは取らない。それでいいですね」

「ティターニア。もういい。長い話には飽き飽きだ」


 あまり気の長いほうではないのか、心底面倒くさそうな声で、オーベロンが収拾しかけた話に水を差す。


「一度俺が決めたことを簡単にひっくり返すな。独断が過ぎるぞ、ティターニア。フローラの望みはその男の記憶を戻すことなのだろう? では、望み通りその男の記憶を戻す代わりに、フローラを殺そう」

「お父様!?」

「ちょっと、あなた!」

「そもそもフローラ、お前が言い出したことだろう? お前を悪と断じたなら、お前自身を射れば良い──違うか?」


 オーベロンが弓を放つのと、ノアがフローラを掴んでルチアに投げ渡すのは、ほぼ同時だった。話が不穏な流れになってきた頃からすぐ動けるようにと準備していたのだが、矢が速すぎてそこまでが限界だったのだ。胸に、イーサンと似たような風穴が開いてしまった。それには構わず、ノアはこんなこともあろうかと準備してきた剣を抜いた。隣でフローラを庇いながら、ルチアも解放した杖を構える。


「きゃあああ! 血! 血だわ! この国にそんな穢れをばらまくなんて……! あなた早くこの子どもをどこかへやって!」


 若葉色の長い髪が土で汚れるのも構わず、へたへたとティターニアは腰を抜かしてしまった。声の通りに神経質そうな美女が、深緑の瞳を見張ってわめき散らしている。


「落ち着け、ティターニア」


 ティターニアを庇うように、オーベロンが一歩前に出る。ノアの傷が癒えていくのを面白そうに眺める三白眼の男には、雄鹿のような角があった。髪も瞳も、堂々とした力強い赤土あかつちの色をしている。好奇心旺盛な瞳だ。


「お前が噂の不死身のフォーリナーだな。何をもって俺の前に立ち塞がる」

「フローラとルチアを逃がすためです」


 長い呪文は、唱えるのに少しかかる。慣れると短縮できるそうだが、今の段階なら実際に動いた方が早いというのがルチアの持論だ。実際その時も、ルチアはフローラを抱え、脱兎のごとく逃げ出していた。


「馬鹿め。俺の国から逃げられると思うのか」

「それを邪魔するのが俺の役目です」


 タンッと地を蹴って、ノアは一足飛びに矢を構えるオーベロンの懐に飛び込んだ。遠距離の武器はノアも試したが、懐に入られると弱い。だが魔力でできた矢はいちいち新しくつがえる必要がない分、連射が可能だ。

 矢継ぎ早に飛んで来る矢をどれも紙一重で交わしながら、ノアが剣を突きの形で構える。つられて矢の照準が下がるのを見てその場に剣を突き刺すと、剣を踏み台にしてノアはオーベロンの頭上へ飛んだ。空中で体をひねり向こう側に下りながら、逆手でオーベロンの首に腕を巻き付けようとするが、既にオーベロンの姿はそこにはない。地面にくっきりと残った蹄のあとをみる限り、ノアと同じくらい、もしくはそれ以上の速さで跳んでいた。頭上からまっすぐ降ってくるオーベロンを慌てて避ける最中さなかに剣を回収し、再びにらみ合いの体制になる。

 フローラはうまく逃げられただろうか。

 思いもよらないところから飛んだり跳ねたり攻撃をしかけてくるオーベロンに、徐々にノアは防戦一方になってきた。殺すつもりの目だ。すぐに癒えていくが、実際致命傷になる傷もいくつか食らっている。

 このままフローラを、妖精の国に置いておくわけにはいかない。

 再び矢の雨を仕掛けてきたオーベロンに、そのひとつひとつを剣ではじきながらノアの意識が後ろに傾く。

 こんな恐ろしい男から、フローラを守りながら、旅を続けられるか。それとも、信頼できる誰かに預けるべきか。

 その隙を見逃すオーベロンではない。

 一瞬の隙をついてノアの四肢をすっかり木にはりつけにしてしまうと、不意に「はっはっは!」とオーベロンは笑い出した。


「ああ、久しぶりに暴れてすっきりした。いささか不満もあるにはあるがな。とりあえずやめだ、やめ」


 ぱっとエーテルの弓を手から消したオーベロンに、「何を視ました?」とノアには意味のわからないことをティターニアが聞く。


「どうもこうも……この子はこの国よりフローラにご執心のようだ! フローラが無事に逃げられたか、これからどうやって私たちから守っていくか、せっかく俺と遊んでいるのに、そんなことしか考えちゃいない!」


 そこまで言われてようやく、心を読まれていたことにノアが気付く。心を読まれた者のつねで、一体いつからとまずノアは警戒し、それからその警戒心を悟られないようにわざと余計なことを考えようと努めた。何とか拘束を解こうとじたばたしながら、ルチアのぱんつの色とか、色々な情報を犠牲にしてしまう。


「そうでしたか……」


 しかしそれを聞いて、ティターニアは安心したようだった。常若の国ティル・ナ・ノーグは外来からの敵を嫌う排他的な国。いまいち掴み所のないオーベロンはともかく、ティターニアは最初からノアとルチアのことも気にしていたに違いない。


 後ろから「ノア!」と言うルチアの声を聞き、ノアはぎょっとして振り向いた。


「ルチア!?」


 ふわふわと漂う虹色のシャボン玉の中から、どうやら捕まってしまったらしいルチアが、フローラとともにドンドンと内側を叩いている。


「もう一度聞く。俺の国から逃げられると思うのか?」


 即座に対策を練ろうとして、相手が頭の中を読めることに気付き、ノアは苦しく押し黙った。


「はっはっ。声も出んとはな」


 服についた土を払いながら、立ち上がったティターニアが、「あなた、もうその辺で」と釘を差す。


「これ以上生身の肉体を持つ者を常若の国 ここ に置いておくのは嫌ですわ。フローラも戻りましたし、さっさと追い出してしまいましょう」

「そうか? 俺は結構、気に入ったぞ。人間の体をしているが、心は迷いながらもこっち側に寄り添おうとしている。この男ならば、俺たちに害を為すことはなかろうて」


 ぽんぽんと磔にされたままのノアの頭を撫でて、「リュカやエルザは元気か?」とオーベロンは訊ねた。

 意外な繋がりに瞠目するノアに、「世界は狭いだろう」と豪快にまたオーベロンが笑う。そんな繋がりがあってなお、本気で殺しに来るこの男もこの男だ。


「リュカが望むなら、俺一人くらい顔を出してもいいと伝えてくれ」


 何のことか一瞬わからなかったノアだが、「俺もたまには派手に立ち回りたいからな」と蹄で地面をかくオーベロンの様子を見て察した。

 この国もまた静かに、もうすぐ現れるであろう凶星フォーリナーを待っている。

 拘束を解かれてどさりと地面に落ちながら、「次に会ったら伝えます」とノアは答えた。同時にルチアの方も拘束を解かれたようで、「ノア!」と駆け寄ってくる足音が聞こえる。弓に貫かれていた手足の傷を心配しているのだろう。


「それより、フローラのことなんですが」

「ああ、いちいち言わなくていい。連れていくがいい」

「あなた!?」

「すみません。フローラの記憶は、渡しません。感情もです」


 一目散に飛んできたフローラを手の中に匿いながら、ノアはティターニアと向き合った。


「この国の在り方にまで口を出すつもりはありませんが……一度は感情を得たフローラが、記憶を無くして他の妖精たちのようになってしまうのを、俺は見過ごせません」

「それは……わたくしだって……でも……」


 言い淀むティターニアも、この国の状態には思うところがあるのだろう。進んで妖精たちの感情を抑制しているわけではないという悔しさが、プライドの高そうな頬に見え隠れしている。


「この先の俺たちが、どんな道を辿っていくのかはまだわかりません。危険な旅になって、彼女を傷つけてしまうこともあるかもしれません。でも、この命がある限り、決して彼女を一人にはさせません」

「この国にいると、記憶を消されてしまうんでしょう? どうか、見逃してください。あたしたちと一緒に行かせてください。あたしはまだ半人前の魔女だけど、きっとフローラを守ります」


 ノアとフローラを守るように抱き締めて、片膝をついたルチアも一緒にティターニアを説得してくれた。


「……どのみちオーベロンの結論は出ています。今この時に感情に突き動かされて国を出ようとする妖精がいるなんて……これも神のお導きかもしれませんね」


 嘆息して、遠回しにティターニアがオーベロンの言葉を肯定する。


「私……一緒に行っていいの?」


 手の中からおずおずと見上げてくるフローラに、笑いながらノアは言った。小さくフローラの羽が震える。その羽は虹色に輝いている。


「一緒に行こう。岩陵のどこかで、虹色に光る花。俺たちはずっと、君のことを探してた」

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