第23話 「あなた、ひとり?」

「フローラ、また外の世界を見ているの?」


 友人のエルフに後ろから声をかけられ、フローラは驚いて飛び上がった。気まずい気持ちを押し隠しながら、湖面に映し出した水鏡から顔を上げる。誤魔化すように二、三度、エルフの周りをフローラはくるくると飛び回った。


「結構面白いのよ。外の世界を見ると、常若の国ティル・ナ・ノーグがどんなに素晴らしいかわかるわ。その感謝を胸に、お仕事をするってわけ。それに、まだ取り残されている仲間たちがいるかもしれないし」


 言い訳のような理由を並べながら、フローラは花を撒き散らした。常若の国ティル・ナ・ノーグは色とりどりの花が咲き乱れる至高の楽園であり、そこを彩る花々を咲かせるのがフローラの役目だ。母である妖精王の妻ティターニアから、直々にたまわった権能でもある。


「あなた、変わっているわよね。あんまり外の世界を覗きすぎると、妖精王おとうさまに叱られるわよ」


 笑顔で言って、エルフの女が水鏡を一瞥する。フローラが撒き散らした花を拾うついでに、エルフは水に手を入れてパシャッと水鏡を壊してしまった。


「何百年経っても争いしか頭にない種族なんて、いつまでも見ていちゃいけないわ。今あっちに取り残されているのは、土地か人に縛られている仲間たちだけ。それより、これだけ花があるのだもの。あっちで花冠でも作りましょうよ」

「いいわね、行きましょう」


 もっと見ていたかったのにな、と壊れてしまった水鏡に後ろ髪を引かれながら、フローラがエルフの後に続く。


 昔は色々あったようだが、人族の目を逃れて常若の国ティル・ナ・ノーグに一斉移住してから、この国に争いはない。老いもやまいも、飢えも渇きもない。みんな空を流れる雲のようにふわふわと、 毎日満ち足りて暮らしている。


 その中で外の世界を覗きたがるフローラは、確かに変わり者だったのだろう。


 差別、戦争、貧困、略奪──外の世界はいつまで経っても変わらない。いつものように常若の国から外の世界を見渡して、フローラはその日、何故だか居ても立ってもいられなくなった。なんて寒々しい光景だろう。もしかしたら外の世界にこそ、花が必要なのではないだろうか。

 お父様オベイロンお母様ティターニアの目を盗み、妖精の抜け道を使って、フローラはとうとう常若の国を抜け出した。

 妖精の抜け道は、どこに繋がるかわからない。それがたまたまここだったのだ。花ひとつ咲かない、切り立った崖が続く裸の岩陵。


「………………妖、精?」

「キャアア!」


 誰もいないと思っていた岩場から、不意にのっそりと出てきたイーサンに、フローラは驚いて悲鳴を上げた。何しろ、地に足を着けるか着けないかといったところだったので、まさしく出会い頭を突かれた形だ。


「……落ち着け。俺、何もしない」


 ぺたんと腰を抜かしてしまったフローラに、両手を上げて何も持っていないことを示しながら、イーサンは黙ってフローラが落ち着くのを待ってくれた。


「あ、あなた、竜人族ね」

「ああ、そうだ」


 落ち着いて考えれば、エーテルの体を持つフローラが普通の人間に見えるはずがない。大柄なので大人と見間違えたが、声の感じからまだ子どものようだと察して、フローラが少し警戒を解く。


「あなた、ひとり?」

「一人ではない。俺は竜たちと暮らしている」


 そう言って岩場の結界を抜け、少年は竜族のところへと案内してくれた。


「おお、なんと珍しい客じゃ。妖精族か」


 竜族もまた、目を細めてフローラを歓迎してくれる。

 岩陵の地下には深い深い洞窟があり、そこを根城にして暮らしているらしい何頭かの竜たちを見て、「驚いたわ」とフローラは素直に口にした。


「太古の竜種たちが、まだこんなに残っているなんて。あなたたち、人族の国じゃ、とっくに絶滅したと思われてるわよ」

「それはお互い様じゃて。お前さんたちが常若の国ティル・ナ・ノーグへ引っ込んだきり出てこぬように、我らも大地の魔力マナを吸いながら今はそれぞれ安住の地でくつろいでおる。若い竜たちは、大陸の外に逃げたようじゃがの。全く、お互い生きづらい世の中になったものよ」


 黙って控えているイーサンの横で、フローラと竜族はその思いがけない邂逅にしばし嬉しさを分け合った。


「この子は何なの?」

「竜人族の生き残りじゃ。良いというのに、世話をすると言って聞かぬでな」


 かつては人と竜を繋ぐ調停者だった竜人族も、人と竜の交流が途絶えた今となっては飾りのようなものだ。遠見の力を持ち結界も張れる純粋な竜種には無用の長物だと自分でもわかっているのだろう、イーサンがちょっとしょんぼりする。


「しかしこれがな、年寄りの話し相手にはちょうどいい」


 そんなイーサンの気持ちを慮ってか、竜はやんわりと慰めを入れた。


「我らは基本眠って過ごし、交代で起きて結界を張る。その間はやはり、寂しいからのう」

「……あなたはどうなの? こんな花も咲かないようなところで……さみしくはないの? 両親はどうしたのよ?」


 その言葉が本当にただの慰めに過ぎないというのは部外者である自分にもすぐにわかって、フローラは胸を痛めた。父母の姿が少年のそばにないのも気になって、遠慮がちにフローラが訊ねる。


「両親は戦争で死んだ。俺は、竜が好きだ。好きだから一緒にいたい」


 フローラの言葉に、ひどくまっすぐな瞳で少年は答えた。そしてことりと首をかしげ、「……花って何だ?」と今度はフローラに訊ね返す。


「あなた、花を知らないの?」

「知らない。食えるのか? うまいか?」


 どうやら本当に知らないようで、イーサンは初めて聞く単語に興味津々で身を乗り出した。


「食べないわよ! 花っていうのはね、こういうやつ」


 母から貰った権能を惜しみ無く使って、フローラはくるくる回りながら周りじゅうに花をばらまいた。これにはイーサンばかりでなく竜も大層驚いて、「おお、花じゃ。花じゃ」と鼻息を荒くする。

 イーサンは初めて見る色とりどりの花に目を白黒させていたが、「これ。それをこちらに」と竜に乞われて、とりあえずその通りにした。地に散らばった花をかき集めて、竜の鼻先に運ぶ。

 鼻をふがふが言わせながら匂いを嗅いで、「善きかな、善きかな」と興奮した竜は、鼻息でイーサンごと花を吹き飛ばしてしまった。


「フローラ……ふむ。花を撒くひと、か。いや、こんな場所で花を見られるとは」

「これが……花?」


 戻ってきたイーサンは、竜に飛ばされていない花を拾うと、見よう見まねでそれを鼻を押しつけた。ふがふがと匂いを嗅ぎ、それからまじまじと花を見つめて、そのままむしゃむしゃと口に含んでしまう。呆気に取られるフローラの前で、花を咀嚼してごくりと飲み込み、一言イーサンは「……うまくない」と言った。


「うまくないわよ! 食べ物じゃないって言ったでしょ!」

「うまくない。でも、これは美しいな」


 にっこりと邪気のない笑みを浮かべて、イーサンは別の花を手に取った。今度は口の中に入れたりせず、時間をかけてじっくりと目で楽しみ、ゆっくりと香りを愛でている。


「いい匂いだ。こんなに美しいものは見たことがない」


 花の咲くようなその笑顔を見て、まさしく自分は今この瞬間のために生まれてきたのかもしれないとフローラは思った。


「そこでの暮らしは素晴らしかったわ。知らない感情がどんどん溢れていくの。悲しみも苦しみもあったけれど、それを上回る嬉しさが、喜びがあった。人はきっと、そういう幸せのために生きているのね。私も同じように、ここで暮らそうと思った。竜たちの話し相手をしながら、その心を慰めるために花を咲かそうと思った」


 そういう風に今までの出来事を二人に聞かせて、眠るイーサンの頬を愛おしげに撫でながら、「けれど」とフローラは唇を噛みしめた。


「けれど、お父様とお母様は、私がそんな風に感情を得ることを許してはくれなかった。ついさっきのことよ。常若の国からお母様の声が聞こえてきたの。私は権能を取り上げられて常若の国から追放処分を受け……イーサンは見せしめとして天から降ってきた光の矢に……」


 それ以上はとても話せず、唇をつぐんだフローラが項垂れて首を横に振る。


「それであの傷か……」


 一度に話の全部は受け止めきれそうにないが、イーサンの傷の理由だけは察して、ノアは小さく呟いた。以前は世界のどこにでもいたという妖精がある日ぱったりと姿を消したわけも、少し遅れて理解する。もはや絶滅したのではないかと言われている竜族も、どうやらひっそりと息を繋いでいるらしい。


「私が馬鹿だったんだわ……あのまますぐに常若の国ティル・ナ・ノーグで戻っていれば……いっそ最初から出てこなければ、こんなことには……」


 イーサンが傷を負ったのは自分のせいだと目を潤ませ、ようやく止まった涙を、またはらはらとフローラが落とす。


「……本当にそう思う?」

「思わないわ。短い間だったけれど、私は幸せだった。でも、他にどんな選択肢があったというの!?」


 キッとノアを睨み付け、小さな牙を剥いて、フローラはノアの言葉に噛みついた。


「……う…………なん、だ……?」


 フローラの大声で目を覚ましたイーサンが、その涙を不思議そうに見て、「妖精族……?」と呟く。一番そばにいたルチアが、起き上がろうとするイーサンの肩を押し、「まだ起きちゃダメだよ」と制した。


「イーサン……? わ、私のこと、覚えてる……?」


 まるで知らない人を見るような目に嫌な予感がして、イーサンの目の前まで飛び上がったフローラが訊ねる。


「……知らない。それに、あなたたちも誰だ? ここにこんなに人が来るなんて珍しい。それに、俺は、一体……?」

「ノア……」


 蒼白な顔で、フローラはノアを振り返った。険しい顔で頷いて、「傷を負ったときに頭を打ったか、それとも……」とノアが語尾を濁す。


「頭なんて打ってないわ! だって私が必死で抱えたんだもの!」


 それでは答えは一つしかない。ノアからはとても言えなかったが、フローラは気付いているようで、「お父様……」と声を震わせた。


「どうして!? どうしてダメなの!? どうして許されないの!? どうして……どうして!」

「……あの妖精はどうしたんだ?」


 イーサンがフローラを気にする様子があったので、ノアはフローラを手の中に匿ってやった。もう言葉もなく、ノアの手の中で背中を丸め、フローラはしくしくと泣いている。


「……傷を負って倒れていたあなたを、あたしたちが拾ったの。おなか、痛くない?」


 フローラを気にしながらも、イーサンの方も放っておけず、ルチアがフォローを入れてくれる。


「そういえば、痛い。どうして傷を負ったのかはわからないが、あなたたちが助けてくれたのか。どうもありがとう」


 どちらにせよ、記憶を失ったイーサンをこれ以上フローラと接触させておくのはフローラの精神上良くない。

 ルチアが絨毯を使って竜族の洞窟まで送ってくれるというので、イーサンのほうはルチアに任せてしまった。


「花を初めて見たとき、本当にイーサンは嬉しそうだったのよ……私を傷つけるならともかく、どうしてイーサンを傷つけたり、その記憶まで奪う必要があるの……そんなの……そんなのって……」


 テーブルに腰掛けさめざめと泣きながら、先ほどの『どうして』の続きを、フローラがノアに訴える。フローラが落ち着くまで、ノアには黙って聞いてやることしかできない。

 やがて静かに顔を上げたフローラは、何か大きな覚悟を決めたような目で、「お父様のところへ、行くわ」と言った。


「妖精王……本で読んだことあるけど、実在するのかい? フローラ、君は10000番目の娘と言ったけれど……」

「お父様とお母様は、すべての妖精たちの父と母なのよ。誰よりもお優しく、そして誰よりも恐ろしいお方……」


 そう言って肩を震わせるフローラには、とてもその覚悟に見合うだけの準備が出来ているとは思えない。


「目が真っ赤だよ」


 無策の特攻を認めるわけにはいかず、諌めるようにノアはフローラの目元に触れた。乾いた手のひらから痛いほど感じる心配の情に、「たくさん泣いたから……」と言って、フローラが俯く。


「追放処分を受けたって聞いたけど……常若の国ティル・ナ・ノーグに帰る道はあるの?」

「妖精の抜け道を、全部閉じることはできないわ。水面に映る月や、アーチ状になっている木の根っこ、雨上がりの水溜まり、何にでも繋がっているもの」

「妖精王は許してくれると思うかい?」

「私のこと? 私のことなら……きっと、許されないわ」


 ノアの言葉に、フローラは一瞬顔を暗くして、「でもイーサンのことなら許してくれると思う」と声を明るくして続けた。


「そんなことを聞いて、俺が安心できると思うの?」


 言外に自分のことは諦めると言ったフローラに、ノアの顔が険しくなる。弱々しい声で、「……お願い、わかって」とフローラは懇願した。


「あれは、イーサンを殺せる一撃だった。今回はあなたたちが助けてくれた。この後は竜たちが守ってくれると思う。でも、もしお父様たちに見つかってしまったら? また私のせいでイーサンが命を危険に晒すようなことがあったら?」


 仮定の話にすら耐えきれないというように、フローラが喉を震わせる。


「私はもう、耐えきれない。安心したい。そのためなら、命だって掛けられるわ。お願い、行かせて。そのドアを開けてください」

「そう……じゃあせめて、一緒に行こう」


 どう足掻いても決意が変わらないのなら、とノアが出した折衷案に、「え?」とフローラが目を丸くする。


「一人よりも二人の方が、心強いよ」


 聞き間違いかと戸惑うフローラに力強く言って、ノアは頷いてみせた。ウィリアムの一件から、妖精以外でも妖精の国に入れる──ウィルは半分妖精の血が流れているので不安だが──ことはわかっている。唯一の心配は時間が狂うことだが、要は、すぐに行ってすぐに帰ってくればいいのだ。


「一人よりも二人、二人よりも三人でしょ!」


 帰って来たルチアが、にっこりと笑って言った。


「で? 何の話?」

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