第13話 「生きたいから、生きる……?」

 いい加減帰ってこいとエルザに怒られた。昨日の日中のことだ。

 当初の予定では三ヶ月ほどの滞在予定だったが、二年経ってものらりくらり、魔王の城から帰って来ないノアにとうとう痺れを切らしたらしい。通信回路テレパスを無理矢理頭の中に開かれて怒鳴られたものだから、それからしばらくの間頭がガンガンした。とにかくお世話になった人に挨拶したいからと宥めすかし、一日の猶予を貰って、昨夜ノアは魔王の城で仲良くなった人々と簡単なお別れ会を済ませた。特にエリアスとオデットは大げさに寂しがってくれて、いつでも遊びに来いと言ってくれた。ありがたいことだ。

 そして今、ノアは人伝てに呼ばれて、リュカの自室にいる。

 最上階にある王座の間の、吹き抜けを挟んで向かい側。政務室と隣り合って、リュカの自室はある。今まで入ったことはなかったが、政務室にいなかったので声をかけたら、「入って良いぞ」と言われたので入ってきたのだ。


「お呼びですか、王様」

「うむ。悪いな、今ちょっとエルザへの手紙を書いているので、そこな椅子にでも座って、少し待っていてくれ」


 リュカが手紙を書く間、言われた通りノアは、ソファに座って待った。リュカとエルザは茶飲み友達なだけあってよく似た性格をしているが、エルザと違いリュカの部屋はシンプルだ。

 扉から入って右に大きなベッド、左に応接のためのテーブルと、今ノアが座っているソファがある。

 扉の真正面にあるデスクにはきちんと本が整頓されて置かれ、リュカはそこの椅子で書き物をしていた。魔法具や武器の類いは、しまってあるのか、見えるところにはない。そして、リュカの真後ろには肖像画があった。布がかけられていて顔は見えないが、金の髪に青いドレスの女性だ。かつて魔王の妻であったというイーディスその人なのだろうか。


「気になるか?」

「……振り向かずに人の心を読むあたり、ほんと王様って、エルザさんにそっくりですよね」


 二年も一つ屋根の下で過ごせば、軽口の一つや二つ叩けるようになるものだ。ため息をついて、「そりゃ、気にはなりますけど……」とノアは口の中でもごもごと呟いた。

 二年前にほんの少し人となりを聞いただけで、それ以来誰の口の端にも上がらなかった人物の話だ。気になるか気にならないかで言ったら気になるに決まっている。


「聞きたいなら教えてやろうか」

「えっ!?」


 ガタンとソファを鳴らして、肖像画から目を離し、ノアがリュカを振り返る。

 書き終えた手紙をくるくると巻いて、きゅっと紐で縛ってしまうと、リュカは手もとの蝋燭を手に取った。紐の上から封蝋を垂らし、乾かないうちに印璽いんじを押す。


「ちょ、ちょっと待ってください、王様。心の準備が!?」

「何の準備があるものか」


 あたふたと慌てるノアに笑いながら、机の端に置いてあった木の箱を引き寄せて手紙をその上に置き、リュカはこちらに向き直った。


「イーディスはな、この私に、生け贄として捧げられた修道女シスターだったんだ」

「待ってくださいってばー!?」


 叫んでから、何かとても物騒な言葉が耳の横をすり抜けていった気がして、「……い、生け贄?」と恐る恐るノアが聞き直す。


「そうだ。荒ぶる魔王を鎮めるために、近隣の村の人間どもがたまさかに寄越す慰み者の一人だったのだよ」


 聞き間違いではないと頷いて、リュカが話を続ける。


「イーディスは私の元に、12の頃にやってきた。最初は如何にして引き裂き、人間どもの眼前に晒してやろうかと、いつものように考えた」


 エリアスの時と同じで、ノアには容易に信じられない話だ。

 淡々と話を進めるリュカが口をはばかる様子はなく、それがまたノアにはショックだった。


「しかし、あれは不思議な女でな。我が前に立つや、にっこり笑って挨拶などしおった。私なぞは最初、知恵が足りないのかと思ったほどだ。戯れに『足と腕、どちらからいでほしいか』と問うたらな、『足がないと水を汲みに行けないし……手が無いとお洗濯ができないわ……困ったわどうしましょう』などとくだらないことで延々悩みおる。じきにわずらわしくなって、私はイーディスを部屋から追い出した。それが良くなかったんだな」


 不意に、おかしくてたまらないというようにリュカは笑い出した。その瞬間空気がゆるむのを感じて、いつの間にかつめていた息をノアが吐き出す。


「皆には言ってないがな、あれは先見さきみの女だった。私の元に来ることも、あのやり取りも、イーディスに取ってはもうすでに夢で見た光景だったのだ。そうしてまんまと私の目から逃れると、あれはたちまちみんなに馴染んでしまった。気がついたら、外堀から埋められていたというわけだ」


 ニヤリと唇の端をつり上げ、リュカはさも爽快という風に、愛した女の強かさを語った。椅子から立ち上がり、肖像画の前まで歩いていって、ノアにも見えるように絵にかけられている布をめくってくれる。


「イーディスには、誰もに好かれる才があった。仲間の中には、人間を嫌う者も憎む者ももちろんいたが、不思議とそう言った感情にさわらぬ振舞ふるまいを心得た女だった。戦争孤児ということで幼い頃から修道院に入っていたと聞いたが……そこでの経験がイーディスをそういう風に作ったのかもしれぬ」


 花畑の中で、穏やかに笑う少女の顔がそこにあった。まるで絵から飛び出してきそうなほど生き生きと描かれた、金の髪に蒼い瞳の少女だ。使われた色の数ひとつ見ても、イーディスに対するリュカの愛が伺える。


「こんな風に、花の中で笑っているイーディスが好きだった」


 描かれたイーディスの頬に指で触れて、その時の穏やかな気持ちを思い出すように、微笑みすら浮かべてリュカは目を閉じた。


「それを見るたび、私は戦争のことを束の間忘れて、安らぐことができたのだ」


 けれど浮かべた仄かな笑みはすぐに消えて、結ばれた唇がかたく強張る。


「忘れもしない、五年目の秋の終わりのことだ。人間たちが、私たちの領土になだれ込んできた。秋の収穫を終え、冬に備えて後顧の憂いを断っておきたかったのだろう。近場からかき集められた兵士たちには、もちろんイーディスの故郷の人間たちもいた」


 ──イーディス様のことは、とても悲しい出来事だったの。

 いつかのオデットの言葉が、ふっと耳に立ち返る。この物語がハッピーエンドにならないことは最初からわかっていて、それ以上リュカを見ていられずに、ノアは下に視線を落とした。


「イーディスは武器も持たず、私に背を向けて、人間たちの前に両手を広げて立ち塞がった」


 ──殺してはいけません。死んではいけません

 ──私たちは同じ神から生まれた兄弟。兄弟が互いに憎み合い、争うことを神が喜ばれるはずがありません

 ──私の父や母は、魔族に殺されました……でも、それと同じくらい、私の父も母も、戦争でたくさん魔族を殺したのです

 ──そしてただひとり残されたのがこの私です! 父も母もなく、修道院に入れられ、生け贄としてただ殺されるために魔族に捧げられる……私のような思いを、あなたたちは自分の子どもにさせたいのですか!

 ──私たちはお互いに優しくできるんです! 過去に何があったとしても……憎しみ合うことをやめて、愛し合えるんです! 信じてください! 今の私を見て、わかる人がいるはずです! お願い、私を見て! 戦争を! こんなくだらない戦争をやめてください!


「身体中を槍や剣で貫かれながらの、実に堂々とした演説だったよ。最後まで振り向かず、倒れもせず、私には何の言葉も残さずに、イーディスは逝ってしまった。女は怖いな。やることが壮絶に過ぎる」


 イーディスの最期をやれやれと肩をすくめながら語って、「ただ、わかる人間は確かにいたんだ」とリュカは教えた。


「イーディスの村の人間たちだ。魔族に取り入って豊かな生活を送っている女が何を、と他の人間たちが嘲笑いながらイーディスを串刺しにしていく中、私たちと彼らだけが動けなかった。中には、泣いている者もいたよ。五年も前に生け贄として捧げられた彼女がその瞬間も生きていたことで……愛されて健やかに育ったのだとわかる形で彼女がそこにいたことで……魔族と人間との間に、殺し合うばかりではない道が──手を取り合って一緒に生きていける道が確かにあると知ったんだ」


 まさしくイーディスは、命をもってそれを証明したのだ。並大抵の覚悟でできることではない。

 肖像画から離れたリュカが、歩いてきてノアの向かいのソファに腰かける。


「あれは、不思議な光景だったな。イーディスが立ったまま息絶えたあと、狂乱していた場が、段々と静まり返っていった。動かない私や、一部の村人たちに戸惑ったのだろう。私は、その場で講和条約を提案した。イーディスの村の人間が、正しくその話を王都に持ち帰ってくれて、戦争は締結。イーディスは戦争を終わらせた立役者になったというわけだ」

「……王様は、イーディス様を助けようとは思わなかったんですか?」


 どうしてもそこだけが納得できずに、ノアは訊ねた。随分とあっさりした話の終わり方が更に不満を募らせて、無意識にリュカを責めてしまう。


「……イーディスは、病を患っていた。初めから長くは保たないと、わかっていたのだよ。だからこそ、そこを死に場所と定めたのだ。私は……私には、止められなかったよ」


 長い足を組んで、何でもないことのようにリュカは答えた。けれど悲しそうな瞳が、もし助けられたのなら、と語っている。かあっと顔を赤くして、「すみません」とノアは謝った。


「俺、そんな、事情も知らずに……」

「何を謝ることがある。今のは、言い忘れた私が悪かった」

「でも、すみません。王様がそれを考えなかったわけがないのに……」


 エリアスに下手なことを言うなと忠告されておいてこれでは、目も当てられない。額に汗してしどろもどろに謝るノアに、「謝ってばかりだな、お前は」とふとリュカが笑う。


「ここでの生活は楽しかったか?」

「えっ?」


 突然予想外の問いを投げられたことに驚いて、「は、はい、あの」と更に言葉が怪しくなる。


「洞窟の家は女の人ばかりだったので気を遣うことも多かったんですけど……ここには男の人も多くて、それが結構気楽で、楽しかったです。魚釣りとか、海で泳いだりとかもして……伸び伸びできました」


 伸び伸びできたのは、集団の中で、誰もノアの不死を気にするそぶりがなかったからだ。そういう意味で、得難い体験ができたと確かに思う。


「そうかそうか。そう言ってもらえると、嬉しいのう。またいつでも遊びにおいで」


 にまにまと嬉しそうに笑って、デスクまで行って戻ってきたリュカが、先ほどの小箱と手紙をノアに預ける。


「エルザにこれを、必ず届けておくれ」

「はい、必ず届けます」


 頷いて、ノアは小箱と手紙を受け取った。小さな箱だが、手にずしりと来る重さがある。今ノアが持っているトランクと、似たような魔道具なのかもしれない。


「ノアよ。この言葉は……いずれお前の薬になるかもしれない。あるいは、毒になるかもしれない。深くは考えずに聞いておくれ」


 床に転送魔方陣用の巻物スクロールを敷きながら、そう前置きしてリュカが言う。


「顔を上げて、もっと堂々と生きよ。死ねないから生きるのではなく、人はただ、生きたいから生きるのだ」

「生きたいから、生きる……?」


 この時のノアにはまだ意味のわからない言葉を、それでもノアはしっかりと心に留め置いた。いつか毒でなく、薬になることを信じて。


 ******


 転送魔方陣から出ると、そこはエルザの部屋だった。ノアにとってはこの世で一番恐ろしい魔女が、煙管を食みながら、仁王立ちになっている。


「やーっと帰ってきたか、ノア」

「すみません……」

「昼からずーっと待ってたんだぞ、こっちは」

「すみません……」

「まさか夜になるとはなあ……ルチアはもう休ませてしまったぞ。久しぶりにお前に会えると、楽しみにしていたのになあ」

「それは本当にすみません……」


 大袈裟に悲しがる様子から、どうも本気で怒っているわけではないらしい。ノアも適当に合わせていたが、最後の言葉だけは本当のようで、どうにも心が痛む。「それはって何だ、それはって」とノアの頭をぐりぐりと拳で押さえつけてから、エルザはふーっと紫煙を吐いた。


「まあちょっと、こういうことになるんじゃないかと予想はしてた」

「楽しかったです、魔王さまのところ」


 お説教の終わりを悟って、途端にノアが声を弾ませる。一晩中語って聞かせたいような出来事が、たくさんあった。


「うんうん、そうだろう。いい勉強になったろう。まさか二年も帰ってこないとは思わなかったけどな」

「いや~~俺、わかってはいたんですけど戦う才能あんまりなかったみたいで……魔王様がいつまでも居ていいって言ってくれたので甘えちゃいました」


 あははと力なく笑いながら、頭をかいてノアが弁明をする。

 もう駄目、というところになってからの諦め癖や、決め時に相手のことを思って力を緩めてしまう癖、どうせ治るからと細かな傷を放置してしまう癖──いざ実戦形式の訓練を始めるに当たって、悪癖でしかない癖がごろごろと出てきたのだ。矯正のために相手をしてくれたエリアスやオデットは実際大変だっただろう。


「お前らしいなーって思いながら毎日リュカの報告を聞いてたよ。なかなか頑張ったじゃないか」


 椅子に座って足を組みながら、優しい笑みでエルザは応じた。そして、「本当はもっと、居させてやりたかったんだけどな」と残念そうに唇を尖らせる。


「……どういうことですか?」


 褒められて嬉しかったが、どうにも含みがありそうな発言に、ただ喜んでもいられずノアは聞いた。


「お前も聞いたろう。近いうちにお前以外の異世界人フォーリナーがこの世界にやってくる。時期すら定かでなし、本人がどういった性格なのかもわからんが……どうあれこの世界に良くないものを持ち込むようだ」


 ふーっとまた紫煙を吐き、少しの沈黙を置いて、かたわらの煙草盆にエルザが煙管の灰を落とす。


「これは魔女のならわしなのだが……魔女は18歳になると、独り立ちのための試験を受ける。要は挨拶周りのようなものなのだが……この世界に散らばっている魔女たちを訪ね、出される課題をクリアできれば合格だ。合格できれば、それに応じた報酬を受けられる」


 煙草盆に煙管を置いて、語り口は変わらないまま、不意にエルザは話を変えた。時期的にちょうどルチアの試験と被るのだと察して、ノアは黙って話の続きを待つ。


「私は……どうにも嫌な予感がするのだ。呑気にそのフォーリナーが現れるまで待っていては、試験もどうなるかわからんとな」


 エルザがそこまで言うからには、やはり大した事態なのだ。ここまで真面目に頑張ってきたルチアはどうなるのだろうと、目でノアは話の続きを急かした。


「そこで私は、ルチアの魔女試験を少し早めることにした。齢17になる明日、ルチアはこの家を出て、試験のためこの世界を回ることになる」


 ここまで黙って聞いていたノアだったが、これにはさすがに「明日ぁ!!?」と大声を上げてしまう。「ルチアが起きるだろうが!」と抑えた声で怒鳴られ、舌の上に乗っていた続きを、なんとかノアも一旦飲み込んだ。


「せ、せっかく帰ってきたのに……話したいことたくさんあったのに……二年も帰ってこなかった俺が悪いの……? せ、せめてもっと早く言ってくれれば……」


 そうして小声でぶつぶつと嘆くノアを、「まあまあ。話は最後まで聞け」とエルザがたしなめる。


「試験に出すと言っても、あれはまだ右も左もわからぬ未熟者」


 話を聞けと言っておきながら「そこで、だ」と勿体ぶるように溜めに溜めてエルザは言った。


「お前にも、ついていってもらいたいのだよ。ノア」

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