第10話 「強い女だよ、ほんとに」
筋力トレーニングを始めて、わかったことが二つある。
まずは、エリアスの訓練が思っていたよりずっと常識的な内容だったことだ。
最初は必ず全身を伸ばすストレッチから始め、最後も入念にストレッチをして終わる。訓練中も適度な休憩を挟み、決して無茶なことはさせない。
当面のトレーニング室としてノアたちに宛がわれたのは大広間だった。最初は広すぎて気後れしたものの、訓練の中で走ったりもするので、やはりある程度の広さが必要だったのだろう。訓練を始めて二週間ほど経った今は、そう思う。
「正直、意外でした。もっと、ハードな特訓をするのかと思ってたんで」
不眠不休で倒れるまで走り続けるとか、一万回腹筋するとか、我ながら随分愉快な想像をしていたものだ。朝から数えて何度目かの休憩時間、タオルで汗を拭いながら、ノアはふと思い出したそれを本人に打ち明けてみた。
「いやあ。ははは。昔は本当にそういうやつをやってたんだよな」
給仕長が差し入れてくれた水をぐびぐびと豪快に煽りながら、エリアスはそう白状した。給仕長特製のスポーツドリンクは、体を冷やさないよう常温で、レモンの風味をほんのりと加えてある。硝子の水差しに入って、目にも涼やかだ。
「戦争時代は、俺も散々殺したが、こっちもバタバタ死んでいったからなあ。悠長にやってる暇はなかったし、時間をかけて育てると……後が、辛いしな」
そんな風にしんみりした声を出されると、何と言っていいのかわからなくなる。自分も水を飲むことで、やんわりノアは返事を避けた。
「とまあ、そんな感じで、オデットにも同じことをやったわけだ。猛獣蠢く森で一週間サバイバルとかさ」
オデットは戦争孤児だ。親を亡くしてさ迷っているところを、エリアスが見つけて拾ってきたのだと言う。エリアスに拾われたとき、オデットはまだ7歳だった。そんな風に食堂でみんなから伝え聞いた話を思い出し、これにはさすがにドン引きして「うわあ……」とノアが眉をひそめる。
「わかってる。わかってるから何も言うな」
反応からして、他にも批難されたことがあるのだろう。今の自分には耳が痛いと、両てのひらをノアに見せて、それ以上の追責をエリアスが避ける。
「戦後は特に忙しくってなあ。リュカのやつも、全体に目を取られて、細かいところのフォローまで手が回らなかったんだろう。俺も忙しかったから、尚更そういう、自分が楽な稽古ばかりになっちまった。そこで死ぬならそれまでだと思って……まあ要するに、成り行きで拾ったはいいものの、あんまり興味なかったんだよな。子育てなんて、柄でもねえし。それでもあいつは頑張った。弱音ひとつ吐かず、涙のひとつ見せずについてきたんだ」
少しだけ何か悩むような沈黙を置いて、「ええい、この際だ。全部話しちまおう」とエリアスがコップの底でドン、と床を打った。
「一度だけ、岩山に置き去りにして、忘れちまったことがあってよ」
自分が強いた無茶な訓練で、いつオデットが死んでもおかしくなかったことは理解しているのだろう。エリアスの表情は暗い。
「それに気付いたときも俺ぁ、あんまり慌てなかったなあ。リュカのやつに、早く迎えに行けってせっつかれてよ。今度こそ泣かれっかなあ、めんどくせえなあってそればっかり……今思うと最低だよな」
ノアの知るエリアスは、面倒見が良く誰もに慕われるような気の良い武人だ。最低だと本人がなじった面影を、今のエリアスに見つけることは難しい。まるで別人の話を聞いているようにさえ思える。
「迎えに行ったとき、あいつぁ、言い付け通り一人で岩山を上りきってよ。岩山の上で膝を抱えてちんまくなってた。いつもみたいに無表情だったんだ。その時まで」
明かり取りの天窓から、不意に光が射し込んできた。
外は快晴で、エリアスは窓に背を向けて座っている。広い背中に遮られて、胡座をかいたエリアスの膝に影が下りた。後悔という名の闇を、今でもそこに抱いているかのように、エリアスの視線が落ちる。
「泣かれたよ。俺の顔を見るなり、口だけは真一文字に引き結んで、ぼろぼろ涙をこぼしてよ」
何度も何度も、繰り返し思い出しては後悔してきたのだろう。
こうして世間話をする中でまで、ふと思い出してしまうくらい、エリアスは今でもその涙を忘れられずにいるのだ。
「俺にしがみついてさ。置いてかないでください、何でもするから、お願いしますってよ。何度も何度も繰り返し言うんだよ」
「死にたくなったね」と吐き捨てるようにエリアスは続けた。
「俺はその頃、大分参っちまってた。親しい人間をみんな亡くして、
上から下にぐいっと手のひらで顔を撫で下ろし、ぶはっとエリアスが息を吐く。まるで何年も息の仕方を忘れていたかのように深く息を吸って顔を上げ、「目が覚めるような思いだったよ」とエリアスは語った。
「こんなちっちぇえガキが頑張ってんのに、俺は何をウジウジやってんだって」
そんな風に自らの転機を振り返り、胡座の両膝に置いた手を、ぎゅっとエリアスが握り締める。
「あいつは夢魔だ。サキュバスになるか、インキュバスになるか、性別だってその頃はまだ定まっていなかった。教えられる前に親が死んで、力の使い方もわからねえ。ただ俺に言われた通りにやるしかなかったんだ。帰る場所もねえ。行く場所もねえ。安心して──泣ける場所もなかった。そんなことに、その時ようやっと気付いたんだ。大袈裟かもしれねえが、こいつを一生守ろうと思ったよ。それくらいしねえと償えねえってな」
いつからか飲むのを忘れていたコップの水を、ノアがゆっくりと飲み干す。その杯が空になるのを待って、「悪い。思ったよりなげえ話になっちまった」と気まずそうにエリアスは謝った。
「要はそれで反省したんだな。戦争も終わって、無茶な訓練の必要もなくなったし。周りが見えるようになって、自分が下のやつらにどんだけ怖がられてたかってのもわかったしな。今思うと申し訳ないことをしたよ」
「……っていうか、それ、ちゃんと本人に謝りました?」
飲み干したコップを脇に置いて、ノアが尋ねる。衝撃的な話ではあったが、二人の間できちんと決着がついているのなら、今更外野が言えることは何もない。喧嘩のようなじゃれ合いはいつものことだが、少なくとも日頃オデットがエリアスに向ける眼差しに、薄暗いものはなかった。
「言ったよ。こう……その場で抱き締めてな。すまなかった、一生お前を守るから許してくれって」
腕を広げて、再現ディスチャーをするエリアスに、「いやいやいやいや」と立ち上がって軽く柔軟しながらノアが突っ込む。この時間に水分補給をしたあと、軽く組み手を交わすのが最近の流れだ。
「絶対おかしいでしょそれ。唐突すぎますよ」
「まあ、簡単に許されることじゃねえわなあ」
二人ぶんのコップと水差しを部屋の隅に寄せ、ノアに合わせて立ち上がりながら、「でも、あいつは許してくれたよ」とエリアスは笑った。
「ただ、あなたに守られるつもりはありませんって最初にきっぱり言われちまった。それから実際、昼夜問わず棒切れ振り回して、さっさと剣なんか覚えてさ。今じゃ肩を並べて戦って。強い女だよ、ほんとに」
片腕を上げてもうひとつの手で肘を持ち、腕を伸ばす体操をしながら、「ところでちょっと、聞きたいんですけど」とノアはエリアスに話を振った。
「エリアスの好みって、どんな女性なんですか?」
エリアスは不思議そうに「随分と話が飛んだなあ」と首をひねったが、ノアの中では何も話を飛ばしたりしていない。
「そうだなあ。素直に言っちまうが、見た目はオデットみたいなのが好みなんだ。あいつは男の夢を反映するサキュバスだから、ずっと一緒にいた俺の好みに寄っちまったんだろ。しかし、何しろあいつはやかましいからなあ。もう少し淑やかな女が好きだな、俺は」
彼女が聞けば怒り狂いそうな話だが、オデットの不在を良いことに、エリアスは律儀に答えてくれた。
噂をすれば影、というが、そこでバーンとドアを開け放ってオデットが入ってくる。
「あら? もう組み手は終わったんですの? 随分早いですわね」
「悪いな、これから始めるところだ」
「まあ。でしたら、お早くお願いしますわ。この後の予定もありますので」
オデットの言葉を受けて、部屋の中央で、エリアスとノアは向かい合った。
相手に対して半身で構え、片手を前に、片手を後ろに引いて脇を締める。足の向きやらは定まっていない。異世界より持ち込まれた合気道だの空手だのが、色々混ざりあってできた構えらしい。
「行きますっ!」
最初は馬鹿正直に突っ込んでいくばかりだったノアだが、一週間もする頃には多少の戦術を練るようになっていた。
圧倒的なスタミナと
とにかく数を稼ぐことが大事だ。間断なく打ち込んで、隙を探す。あるいは隙ができるように誘導する。エリアスは打ち込まれるノアの拳を、油断なくひとつひとつ叩き落とす。
ここ2、3日は、エリアスの方からも攻撃が飛んでくるようになっていた。エリアスの攻撃はいちいち重たいので、良いのを貰うと気絶は免れないが、攻撃の際にはエリアスにも隙ができる。
右手で突き出された拳を右手で受け流し、反動を利用してくるりとターンすると、ノアはエリアスの腹を狙って左肘を繰り出した。
渾身の力を込めたはずの肘だが、エリアスは難なく空いた左手で受け止める。
大柄なエリアスに、成長したとはいえまだまだ細身のノアだ。力量の差はなかなか埋まらない。
「うおっと。今のは危なかったなあ」
「……あり、がとう、ござい、ました」
本気で攻めたつもりだったのに、完全に止められてしまった。ちょうど良い頃合いだったので攻撃を止め、息を弾ませながらノアが礼を言う。
「うーん。今のは相手の左手をどう制すかが問題だなあ。どう思う、オデット」
「難しいですわね。左足で押さえられれば良いのですが、それだとどうしても攻撃力が下がります。お腹ではなく、裏拳で顔面を狙ってみては? どんな相手も、鼻面を殴られれば多少怯みます。その隙にたたみかけるというのは」
「おいおい、左手を制す話だろ。どこを狙おうが、左手が自由なら防がれる危険がある。ていうか可愛い顔してえげつねえな、お前」
「わたくしは剣士ですわよ! 剣さえあれば今の一撃で、左手ごと胴を真っ二つにできましたわ!」
「だからえげつねえって。それに、今は
エリアスとオデットが戦術談義を始めてしまったので、耳だけはそちらに置きながら、ノアは一人最後のストレッチを始めた。組み手の前の軽い柔軟とは違う、強ばった体をしっかりほぐすための体操だ。
筋力トレーニングを始めて、わかったことのもう一つ。
予想外に、ノアは筋肉がつきやすい体をしていた。これも体質に
そのため思ったよりずっと早く訓練は進み、現在のノアは、午前中を筋トレと組み手に当て、午後はオデットから剣の指導を受けている。
「おっ。悪いな、一人でやらせちまって」
最後のストレッチも中盤になって、ようやくノアを放置していたことにエリアスが気付いた。それに少し遅れて、「大変ですわ!」と真っ青になったオデットが泡を食って立ち上がる。
「魔王様がお待ちなんですの。早く行かなければ!」
「えっ、行くってどこに?」
いつもは午後の訓練の前に食堂に行き、食事休憩を挟むのが常だ。スケジュール的にオデットは午後から合流でも問題ないのだが、何故かいつも食事前に合流する。その疑問の糸口をさっき見つけてしまった気がするのだが、そこはそれ、とにかくここまではいつも通りだったのだ。
平常時は背中に折り畳んでいる羽を広げたオデットに、ノアは目を丸くした。当然、エリアスも何も聞いておらず、二人して目を見合わせる。
「今日は風が気持ちいいから、外で食べましょうって魔王様がおっしゃって。お弁当はもう運んでありますの。素敵でしょう」
「お前なあ、わかってんのか? そりゃあサボる口実だ。簡単に騙されやがって……女はそういうの好きだよな」
「ええ、だいすきなの」
機嫌良さそうににっこりと唇をほころばせ、オデットははっとしたように口元を押さえた。誰も突っ込んでなどいないのに、ふるふると震えながら顔を真っ赤にして、「いいから、早く行きますわよ!」と二人を急かす。
「サキュバスの羽で二人を抱えて飛ぶのは無理ですわ。エリアス、ノアはあなたが抱えてきてくださいね」
羽をはためかせてふわりと浮き上がったオデットは、大広間の天井付近に一つだけある天窓を開けてひょいと外へ飛び出した。「おう」と短く応じて、エリアスも翼を広げる。オデットの羽とは違い、エリアスのそれは、普段は見えも触れもしない翼だ。エーテルの翼に魔力を与えて実体化させるのだという。
エリアスは
7つの種族の境界は実は割と曖昧で、一般に魔性の力──魔力を帯びたものが魔族と呼ばれる。
その中に置いて、竜人族は最も特殊な一族である。
竜人族は、ずっと昔から竜と暮らしてきた一部の
その成り立ちから、竜人族は例外なく全ての者が魔力を持つ。
ひときわ高い戦闘力を誇るがために戦争では矢面に立ち、それゆえに先ほどエリアスが語った通りほとんどの者が戦死した。
エリアスは数少ない生き残りなのだ。
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