第8話 「見た方が早い」
魔王の城を、上から順番に回っていく。大広間の真下には食堂があり、吹き抜けを挟んでその向かいが給仕室だ。
給仕室では既に朝の仕事が始まっており、美味しそうな匂いが漂い始めていた。パンを焼く香ばしい小麦とバターの香り。肉を焼く脂の甘い香り。香草やスパイスの混じりあった複雑な香りは、それだけで食欲を刺激する。
念のため気配を殺しながらこっそり覗いてみたものの、みんな忙しそうに働いており、二人に気付く様子はなかった。
何せこの城の住民全員の食事を一手に引き受けているのだ。両手どころか、自在にうねる髪の毛まで使って、大わらわで仕事をしている者までいる。
「見ての通り、四方が海に囲まれているのでな。魚には困らないのだが、それにも飽きというものが来よう。種族によっては、肉食の者も、菜食の者もいる。幸い、この城に頼らずとも一人で生きていける同胞たちが世界中にいるのでな。そういう者たちが、時々大陸から肉や卵を送ってくれるのだ。エルザも毎日のように、野菜を送ってくれているようだしな」
給仕室を見たあとで、リュカがこの城の食料事情について説明してくれた。
菜園の余った野菜たちは、どうやらここに渡っていたようだ。
リュカの人徳の為せるわざだろう。給仕室の片隅に
次のフロアには大浴場があった。360度を海に囲まれ、川もないこの島で真水を確保するのは大変なことだ。外に雨水を貯めるタンクがあるにはあるようだが、それで賄えるのは生活用水の一部だけ。
そこでもやはり魔法の存在が重要になってくる。汲水と排水の魔法がかけられた二つの魔道具のうち、一つを大陸にある大河の下流に、もう一つを海に沈めて循環させることで、真水を確保しているらしい。
魔道具は大浴場と、食堂、各階にあるトイレなどの水回りに設置されており、必要に応じて必要な量を確保できる。
武骨な外見からは考えられないほど、なかなかに文明的な城だ。
その下のフロアは書架だった。
立派な書架だが、あまり人は寄り付かないらしい。目を輝かせているノアに対し、「他の者たちにも、もう少し学んでほしいんだがなあ」と苦笑混じりにリュカが不満を垂れる。
ノアに本を与えたエルザと同じ理由で、彼もまた仲間たちに知識を持たせたいのだろう。知識は荷物にならない財産だ。
そこから下は一般居住区になる。この城に居住区は二つあり、魔王の側近二人と、直属の近衛兵たちは有事のため大広間の向かいにあるスペースにそれぞれの自室を与えられている。
そこにひとつ空きがあるということで、先ほどなしくずし的にノアの居住スペースが決まった。
ドアにつける鍵も、もう貰って施錠もしてきた。道すがら荷物を置いてきたので、今のノアは身軽だ。荷解きは後で時間があるときにやればいい。
「居住区の部屋は、大体どこも同じような作りだ」
空室を開けて、ノアに中を見せながら、そうリュカは教えてくれた。
「ベッドと、食事をするためのテーブルと椅子。ここに、みなそれぞれ私物を持ち込んで暮らしている」
「食事といっても、みんな食堂で食べるわけじゃないんですね」
「まあ、な」
何故だか顔を曇らせて、リュカは言葉の先を濁した。
それに口を挟む間もなく、「ここから先は一気に行こう」とリュカがノアを担ぎ上げる。
何をするのかと思う間もあればこそ、「しっかり口を閉じておけよ」と前置きして、ひょいっとリュカは廊下の手すりを飛び越えた。
ええええええええええ。
律儀に口を閉ざしたまま、ノアは心の中で絶叫する。大分下りてはきたものの、それでも吹き抜けの下までは随分な距離だ。みるみる床が近付いてくる。
訪れるであろう衝撃に備えてぎゅっと目を瞑り、ノアは全身を強張らせたが、思ったような衝撃はない。一体どのように力を逃がせばそうなるのか、リュカは綿毛のようにふわりと着地した。
これも何かの魔法なのか、着地の瞬間、薄青色の光が波紋のように広がる。
「大丈夫か? ノア」
「今度から、せめて事前に告知をお願いします……」
口ではノアを気遣う様子を見せながらも、リュカに悪びれた様子は微塵もない。
無意識に呼吸まで止めていたらしく、肩から下ろされたノアは、ぜえぜえと息を弾ませながら懇願した。
ノアの様子に苦笑しながら、「んー」とまたリュカが言葉を濁す。さっきとは違い、どう話を切り出したものか迷っているような雰囲気があった。
「というかな、居住区……特に下の階には、あまり近寄らないでほしいんだ」
「どうしてですか?」
「歩きながら説明しよう。お前には酷かもしれんが、見た方が早い」
最下層は、中央を基点とした十字路になっており、そこから四つの道が伸びている。そのうちの一つに、リュカは足を進めた。
道は途中で更に十字に分かれ、碁盤のマス目のように、いくつもの部屋が並んでいる。そこまでは上層階と同じだが、決定的に違うところもあった。
牢屋のように分厚い扉で入り口が覆われており、目線の高さと床の下の方に太い鉄格子がはまっていることだ。
「ニンゲンッ」
不意に、鋭い声がノアの耳を打った。
甲高いのにどこかしわがれていて、女のものか男のものかもわからない、どこか耳に障る声だ。
ガシャンッという音に反射的に身を竦ませながら、ノアは慌てて声の出所を探した。
すぐ隣にある部屋で、下の鉄格子を、緑色の皮膚で覆われたしわくちゃの小さな手が掴んでいる。
鉄格子の隙間から、ギラギラした目がノアを見ていた。
「ひっ……」
驚いて腰を抜かしたノアに、「ニンゲンッ! ニンゲンッ!」と口から泡を飛ばしながら、部屋の住人が鉄格子を掴んでガシャガシャと揺すぶる。
座り込んだまま動けないノアを見て、更に興奮してしまったようだった。
鉄格子の隙間からノアに向けて必死で腕を伸ばすが、あとわずかのところで及ばず、住人が悔しそうに尖った歯をギリギリと軋ませる。
「ウ──ウゥウー! ニンゲンッ! ニンゲンコロスッ! ニンゲンッ! ニンゲンッ!」
「ゴブリンだ。力の弱い種族でな。人魔戦争の折には、真っ先に人族に狙われ、随分と数を減らした」
少しも躊躇わず床に膝をつくと、ゴブリンの手を取って、手に手を重ねながら、「大丈夫、大丈夫だ」とリュカはゴブリンを慰めた。
「ウゥ……マオウサマ……ニンゲン……ニクイ……ニクイ……」
手と同じ色のしわくちゃの醜い顔を歪めて、ゴブリンがポロポロと涙を溢す。
リュカの手をぎゅっと握りしめ、苦しそうに背中を丸めて、ゴブリンは子どものように泣きじゃくっていた。
「ニクイ……オレタチヲミナゴロシニシタ、ニンゲンガニクイ……スミカヲウバッタ、ニンゲンガニクイ……ニクイ……」
「よしよし。お前にも、ノアにも可哀想なことをした。今、眠らせてやるからな。起きたときには全て忘れている。大丈夫、戦争は終わったんだ。もう何も怖がらなくていいんだよ」
ゴブリンの額に指を当て、「ゆっくりおやすみ」とリュカが囁く。ゴブリンはぴたりと動きを止め、鉄格子から腕を出したままこてんと倒れて寝てしまった。
「100年経っても、消せぬ恨みがある。色褪せぬ悲しみがある。このゴブリンは、戦争の折には、ほんの幼い子どもだった。もう大分年を取ったが……目の前で親を殺された記憶が、消えぬという。記憶を消す魔法を何度使っても、何かの折に触れては思い出す。自由にさせておくと何をするかわからぬでな……こうして閉じ込めておくしかないのだ。寿命も近い。もう一生、ここで過ごすしかないであろうな」
寝息を立てるゴブリンを見ながらため息をつき、「すまない。嫌な思いをしただろう?」とリュカはノアを振り向いた。
「……他にも、いるんですね」
「そうだ。察しがいいな。最下層は、そういった輩ばかりだ。あのゴブリン以外は、ここに来たときに眠らせた。近付くなと言ったのは、そういう意味なんだよ。どうか、彼らを刺激せず、余生を静かに過ごさせてやってくれ」
「……わかりました」
最下層についた時の薄青色の光は、ここの住民を眠らせるためのものだったのだろう。可哀想に思うが、同時に自分にできることは何もないとわかってしまう。対話をしても、いたずらに彼らを苦しめるだけだ。
頷いたノアの背中をぽんぽんと叩いて、「ありがとう」とリュカは静かに礼を述べた。
「ここから先はセイレーンや、ケルピーなどといった水生種族の棲みかだ。案内したいが……それはまた今度にしよう。一応、別の道もあるしな」
この階の住人でなくとも、人間を厭うものもいるのだろう。
部屋で食事をとる者がいるのかと問いかけたとき、リュカは答えなかった。
部屋に鍵をかけさせられたのも、余計なトラブルを起こさないためなのかもしれない。
この先にある海を見てみたいという気持ちは、すっかり萎んでしまっていた。
それを察したのか、「そろそろ戻らないと、本当に給仕長に怒られてしまうぞ」とリュカがおどけてみせてくれる。
見え見えの芝居に乗っかって、ノアは上に戻ることにした。
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