第7話 「あたしが、ノアを好きになったから」

 朝食のあと。

 言われた通り自室で旅支度を整えようと思っていたのだが、真っ先にノアが連れていかれたのはエルザの自室だった。新調した動きやすい服を十数枚と、下着や靴下などの小物類。今まで使っていた木靴と同じ機能があるという、革製のショートブーツ。魔力が充填ストックされており、魔力がないものでも簡単な魔法が使えるいくつかの魔道具。覚えのある夜のカーテンも入っていた。次々と手渡される。


「俺、私物もちょっと持っていきたいんですけど……」

「大丈夫大丈夫」


 魔王の城は、地図上では洞窟の正反対になる。大陸を飛び越えた先の、比較的大きめの島だ。

 生活圏が違うのだから、自生する植物や分布する動物の種類も違うだろう。そう考えて図鑑や薬草を煎じる簡易的な道具、鉱石の研磨に使う道具なんかを持っていこうと思っていたのだが、こんなに持っていけるだろうか。エルザが用意した山のようなお土産を見て、ノアは頬をひきつらせた。そんなノアの心配を他所に、エルザは鼻歌を歌いながら小さめのトランクにどんどん荷物を詰めていく。明らかにトランクの容積と入った荷物の容積が合わない。これも何かの魔道具なのだと、そうなってようやくノアは気付いた。便利な魔法だ。

 自室に戻り、私物を持って戻ってくると、エルザの自室には暖炉の間の片付けを終えたルチアもやってきていた。いつも煙管か編み棒の姿でいることの多い、エルザの杖が解放されている。


「転送用の魔方陣を描く。邪魔するなよ」


 エルザがそう言うと、シャフトの先端にぽわっと薄緑色の光が灯った。杖を動かすと、光はまるで帯のようにすーっと糸を引きながら、それに合わせて移動していく。壁に対し垂直に杖を構え、とんっとエルザが壁を打った。ぶわっと溢れ出した光が、滑るように中央に六芒星を描き、その周りを見たこともない文字がくるくると回りながら浮き上がっていく。


「ノア……」


 魔方陣の完成を待つノアに、遠慮がちにルチアが話しかけてきた。いつも直情型の彼女であるから、何かを言いよどむのすら珍しいことだ。


「突然こんなことになって、ごめんね」

「……どうして、ルチアが謝るの?」


 目を丸くしたノアに、ルチアは小さな声で「あたしのせいなの」と言った。


「あたしが、ノアを好きになったから」


 ルチアは真っ直ぐノアを見ていた。若葉色の瞳が、魔方陣からの光を受けて、キラキラと輝いている。


「そのせいで心が乱れてる。おばあちゃんも多分、わかってる。わかってるからこんなことになったんだと思う」


 苦しげに目を伏せるルチアが痛々しくて、その肩を抱いてやるべきか、ノアは迷った。出会った頃はノアより少し高いくらいだった肩が、今は随分と低い位置で震えている。


「こんな気持ちは初めてなの。恋なんて、もっと、大人になってからするものだと思ってた」

「……ルチア……」

「こんな気持ちを教えてくれて、ノアにはすごく感謝してる」


 一体、何と言ってやるべきか。

 かける言葉を無くして迷っていたノアは、ぎゅっと手を握られて、「えっ」と飛び上がった。


「心が乱れてうまく力を使えないときもあるけど、調子が良いときは自分でも驚くくらい力が出せるの。ノアのことを考えるだけで、この世に何も怖いことなんてないような気持ちになる。この力、使いこなせたらきっとすごい力になるよ。すごい魔女になれる。あたし、今はそれが楽しみなの」


 ルチアの手は震えていたが、今は、それが興奮によるものだとわかる。キラキラした若葉色の瞳は、感情の昂りによる血管の収縮で少し黄色みを帯びていた。紅潮した頬と相まって、不思議な色香を放っている。魔女だ、とノアは思った。いつかのエルザの言葉を思い出す。私の可愛い、小さな魔女──。


「ノアがいないのはちょっとさみしいけど……帰ってくるんだよね?」

「うん。他に行くところもないし──」


 そう言いかけて少し悩み、「俺の家はここだからね」とノアは答えた。「待ってる」と嬉しそうにルチアが笑う。今度は年相応の、無邪気で朗らかな笑顔だった。


「話は終わりでいいか?」


 魔方陣を描き終わったエルザが、「行くぞ」とノアを急かす。


「玉座の間、直通魔法陣だ。リュカによろしくな」

「伝えておきます。エルザさんも、ルチアも、元気で」


 俺にもルチアくらい勇気があればいいのに、とノアは思う。

 この世界にやってきて、一番ノアに良くしてくれたのはエルザだった。不安な夜に一緒に居てくれた。ともすれば恐怖に足をとられそうになるノアをすくい上げ、何度も何度も、光の方へ手を引いてくれた。実らない想いだとわかっていながら、どうしても、好きにならずにはいられなかったのだ。


「行ってきます」

「行ってらっしゃい、ノア」


 頭を冷やす必要がある。その意味で、今回のことは、ちょうどいい機会なのかもしれなかった。


 ***


「よく来たな。私がこの城の主、リュカである」

「ノアと申します。魔王様に置かれましては……」

「良い良い。堅苦しい挨拶は抜きだ。顔を上げよ。エルザから話は聞いている。記憶のない不死身のフォーリナー。全く、難儀なことよな」


 転送魔方陣を出た先は、エルザの言った通り玉座の間だった。上手側の上段に玉座があり、向かいにある部屋の扉まで、まっすぐに赤い絨毯が敷かれている。ノアがまろび出たのは、玉座と扉を結ぶちょうど中間点に当たる位置だった。エルザのことなのでいささか心配ではあったが、どうやらキッチリ話は通っていたようだ。咄嗟に片膝をついて頭を下げたノアに対し、玉座から降ってきた声は落ち着いていた。


 ……この人が、魔王様?

 恐る恐る顔を上げ、改めてノアは驚きとともに魔王の姿を仰ぎ見た。声でかろうじて男性とわかるが、玉座に座っていたのは、女性と見まがうほどに美しい青年王だった。輝くような白銀の長い髪を胸まで伸ばし、柘榴石ルビーのような濃い赤色をした目を楽しげに細めて、ノアを見ている。インナーこそシンプルな白い貫頭衣だが、布地の光沢ひとつ、襟や裾に施された刺繍ひとつ取っても、質の良いものだと一目でわかる。帯につけられた留め具や、見事な光沢を放つ滑らかな黒いローブも、一級品に違いなかった。髪と同じ色の眉毛は少し短めで、それが彼を余計に幼く見せているが、この世界で見た目は何の判断材料にもならないとノアは既に知っている。そもそも、彼が戦争を終わらせて、ゆうに100年は経っているのだ。


「エルザは息災か?」

「はい。あの、とても……元気です」

「そうか。それを聞いて安心したぞ。あの魔女と来たら、久しぶりに連絡を寄越したかと思えば『明日そっちにうちの子一人送るからよろしく』なんて意味不明なことを言って……自分の近況ひとつ話さず一方的に話を切り上げおってな」


 寄せた眉に指を当て、苦みばしった顔でリュカがため息をつく。この人も苦労してるんだな……とノアは内心でめちゃくちゃ同情した。


「申し訳ございません。何分わたくしも今朝聞かされたばかりでして……しがない居候の身では、止めることもかなわず……」

「……今朝? あの魔女正気か? いや……すまない。お前も苦労してるんだな……」


 同情したかと思えば、今度は逆に同情され返してしまったノアである。


「うむ。良い。ここにいる間は、ゆるりとせい。口調も崩して構わぬ。子どもが遠慮などするでない」

「えっ、でもさすがにそれは」


 不敬すぎるのでは?

 冷たい汗をかきながら、ノアは王の両隣に控える側近と思わしき二人に目をやった。右隣に筋骨たくましい大柄な茶髪の男性、左隣には気の強そうな黒髪の美女がはべっている。二人とも物々しい甲冑を身にまとっており、男性は身の丈もありそうな戦斧、女性は細目の長剣を地面に突き刺すような形で携えていた。どちらもその気になれば、ノアの首など一瞬で両断できそうな鋭い輝きを放っている。

 ノアと目が合うと、男性はやれやれと肩をすくめていたずらっぽく笑ってみせた。女性も、困ったような笑顔で頷いてくれる。部屋の両側にずらりと並んで、控えている兵士らしき人々も動く気配はない。どうやらお咎めはないようだ。


「失礼しました。お言葉に甘えます。ところで魔王さまは、エルザさんとはどういう関係で……?」

「あれとは昔の茶飲み友達でな。もう300年ほどの付き合いになるか……この国を作るときにも、随分と助力してもらった。設計にも色々と助言してもらって……信じられるか? この城変形したり、足を生やして移動したり、魔力で打ち出す大型大砲まで備えているんだぞ……」

「ひえっ……」

「詳しく知りたいだろう? 知りたいよな? まだ日も高い時刻だが、とりあえず城の案内は明日にして、宴にしよう。存分に私の思い出話に付き合ってくれ。よもや異存はあるまい?」


 ぐいぐい来る魔王の圧に耐えきれず、ノアは側近二人に目で助けを求める。男性は素知らぬ方向を向いてわざとらしく口笛を吹き、女性は明らかにげんなりとした表情をしていた。頼むから巻き込まんでくれ、というオーラを全身から発している。耳タコなのだろう。今日は寝かせてもらえないかもしれない。何しろ、300年分の愚痴である。


「宴だ! 食料庫を開けい! 酒が尽きるまで語り合おうぞ!」

「は、ははーっ!」


 どこかウキウキ楽しそうな魔王じょうしに対し、応じる部下たちの声は心なしか小さい。

 程なく大広間にドヤドヤと食事や酒が運び込まれ、何もわからないまま魔王に連行されたノアは、半ば強制的に酒宴に巻き込まれることとなった。


 ***


 砂漠を旅する夢を見た。実際には、ノアは砂漠を旅したことはない。洞窟の家にあった本で、読んだことがあるだけだ。初めて口にした酒のせいだろう。猛烈な喉の渇きを覚え、ノアは目を覚ました。


「み、水……」


 ふらふらと起き出して、その辺の水瓶を覗いてみるが、大半の中身が酒である。既に空になっている物も多い。やっとの思いで水差しを見つけたノアは、もはや誰のものかもわからないコップに水を注いで、一息に煽った。口元を拭いながら、辺りを見回す。

 死屍累々、としか形容しえない惨状がそこにあった。

 誰も彼もが、ぐったりと床に伏している。大イビキをかいて眠るもの、夢見が悪いのか青い顔をして唸っているもの、何故か半裸のもの、それに押し潰されているもの……様々である。ノアの回復が早かったのは体質のせいだろう。挨拶に来る人来る人が酌をしていったので、いつの間にか結構な量を飲んでいた。ノア自身は預り知らないことだが、常人ならば死んでもおかしくない量だ。同じくらい部下に酒をすすめられていた魔王の側近二人は、完全に沈黙し屍と化している。側近の二人は、男性が名をエリアス、女性がオデットと名乗った。結局最後までノアを離さなかったリュカも、うつ伏せに横たわっているエリアスの背中を枕に、あられもない姿で眠っている。俺が魔王暗殺に来た刺客だったらどうするんだろう……と思いながらノアはリュカに手を伸ばした。せめて、脇に置いてあるローブでもかけてやろうと思ったのだ。ぱちり、とリュカが目を開ける。同時にビュン、と風切る音がして、ノアの首をかすめるものがあった。次いで、背後からガスッと何かが突き刺さる音。


「ん……何だ、お前か。見知らぬ気配だったから、うっかり殺してしまうところだったぞ。ふああ」


 寝ぼけ眼で体を起こすリュカそっちのけで、ノアは自らの首に手を当てた。どくどくと血の吹き出す気配がする。手のひらを見ると、べったりと血が付着していた。恐る恐る背後を見ると、積み上がっている酒樽のひとつに、短刀が一振り突き刺さっている。


「いや……多分普通に死んだと思います」


 手で出血を抑えながら、蒼白な顔でノアは答えた。傷はすぐに塞がるが、失った血は戻せない。エルザの実験でわかったことのひとつだ。血の量と位置からして、短刀は頸動脈を正確にかっ切っていた。何の因果か、以前エルザにざっくりやられたところと位置もそう変わらない。見事な腕前だった。


「えっ、誠か」

「あっ、大丈夫です!」


 血相変えて詰め寄ってくるリュカを、慌ててノアが片手で押し留める。


「これくらいの傷、すぐにふさがりますから」


 ノアの言葉通り、血はすぐに止まった。長くは待たせず、裂かれた皮膚も元通りに塞がる。


「……なるほど、不死身か」

「……お見苦しいところをお見せしました」


 先ほどの水差しから頂戴した水で袖を濡らして、血で汚れているであろう首を、しょんぼりしながらノアは拭った。

 周知の事実ではあるものの、再生能力をあまり人前に晒したくないと思っていたところにこれだ。村人たちに殺されかけた記憶は、ノアの中で未だに尾を引いている。いわゆるトラウマというやつだ。後から考えてみれば、あの地崩れの中から無傷で生還できるはずもない。どこかしら傷つき、再生しているところを見られたのだとすれば、『化け物』と呼ばれたことにも得心がいく。

 エルザとルチアはあまり気にする素振りもなかったが、だからこそ、親切にしてくれた人からの冷たい視線にノアは慣れていなかった。


「エルザから聞いてはいたが……」


 傷痕ひとつないノアの首をまじまじと眺め、「本当に、難儀なことよ」とリュカは物憂げな様子でため息をついた。何を言われるかびくびくしているノアを見て、「ふむ」と首をひねる。


「お前、腹が減ってはいないか?」

「えっ?」


 何を言われるかと身構えていたノアは、あまりに予想外なリュカの言葉に、一瞬反応が遅れた。「いえっ、まだ……」と慌てて付け足したノアに、「私もだ」と少し笑って、リュカが立ち上がる。


「少し歩こう。城の中を見せてやる」

「ありがとうございます。でも、王様が勝手に出歩いて、みんな心配しませんか?」

「この様子では、みな起き出すのに時間がかかろう。それまでに戻ればよい」


 リュカにいざなわれて、ノアは大広間を出た。昨日連れて来られたときは大勢で移動したためよくわからなかったが、ドーム型の天井から下層階までが真っ直ぐ吹き抜けになっており、それを丸く囲むような形で廊下がある。手すりに掴まって下を見下ろすと、高所恐怖症ではないノアでも、思わず怯んでしまうくらいに高い。吹き抜けを挟んだ両側には階段があり、各階への移動はそれで行うようだ。


「上から回って行こう。この大広間は、玉座の間のちょうど真下に当たる。玉座の間から更に上に行って天窓を開ければ、外の空気が吸えるぞ」

「それは……正直ありがたいですね……」


 大広間に今なお蔓延している酒精アルコールの匂いにすっかり辟易していたノアは、一も二もなくリュカの提案に飛び付いた。二階分の階段を登ると、そこはもう先ほど見た天井だ。近くで見るまでわからなかったが、幾重にも積み重なった頑丈な装甲で、天井は固く閉ざされている。リュカがなにやらがちゃがちゃとその一部をいじると、外へと続くハッチが開き、そこから陽の光が差し込んだ。太陽の位置からして、どうやらまだ早朝のようだ。洞窟の家では暖炉に火を入れるほど寒かったが、気候が違うのか、外は上着がいらないほど温かかった。このまま太陽が昇れば、暑いくらいの気温になるだろう。リュカも黒いローブを脱いでいる。促されるまま短い梯子を登って天井の真上にある物見台に立ち、初夏の爽やかな朝の空気を、ノアは胸いっぱいに吸い込んだ。エリアスの背中は寝心地が悪かったのか、リュカも腕を伸ばして体を反らし、寝起きの体をほぐしている。


「下を見てみろ」


 促されて下を見る。建物自体が卵形になっているため下の方まで細かく見通すことはできないが、外周の外側はすぐ海になっていた。朝日を受けて、水面がキラキラと反射している。海ならエルザの庭からも少しは見えたが、森から出てしまうし、気軽に行けるような距離でもなかった。見渡す限り360度が海と言うのは新鮮な経験だ。思わず興奮してしまう。エルザから貰った新しい靴で、本当に水の上を歩けるだろうか。夏の空の下、海面を飛び回るのはさぞかし涼しく、気持ちいいだろう。


「武骨な城であろう? ふふ。大変な突貫工事だったからな」


 リュカが言うのは、天井と同じく、幾重にも装甲が重なっている城の外壁のことだろう。様々な金属の板を組み合わせて作られている。整備のためか所々に梯子がついている他、排煙のためにか、あちこちからパイプが飛び出していた。城の上の方には窓らしき出っ張りもあるにはあるが、それより下になると梯子の他は窓すらなくのっぺりしている。なるほど、エルザの言った要塞という言葉の意味もわかろうというものだ。


ようの気を浴びたくなったら、ここへ来るといい。お前には必要なものだろう。開け方は後で教えてやる」

「ありがとうございます。あの……王様たちには必要ないんですか?」


 あれほど立派な吹き抜けがあるのに、天井のドームには小さなハッチがひとつだけ。窓の数も異常に少ない。いささか違和感がある造りだ。


「そうさな……お前たちフォーリナーは異世界からの来訪者だと言われているが……この世界でかつて起こった人魔戦争のことは知っているか?」

「はい。本で読んで、大体は」

「そうか。あのときに我らは、日の光の下を追われた。いや……厳密に言うなら、そのずっと前から追われ続けてきたのだ。やがて我らは夜闇の中を安息地と定め隠れ潜むようになったが、それでも奴らは追ってきた」


 ノアと並ぶようにして手すりに背を預けたリュカは、空を仰ぎ見て、眩しそうに目を細めた。片手をブラインド代わりに、目の上にかざす。


「最後の居場所まで奪われてなるものかと我らは400年も反抗したが、結局元いた棲み家を取り戻すことはかなわなんだ。あれほどの犠牲を出してまで……祖霊もさぞかし怒り狂っていることだろうな」


 空を見ているようで、その目はここではないどこか遠くを見ていた。リュカの中にも、未だ心を苛まれる記憶がくすぶっているのだろう。戦禍の中を生き延び、そして終焉へと導いた王。どうして、戦争を終わらそうと思ったのか。ノアは尋ねたかったが、その心に踏み込んでいくには、お互いのことをまだ知らなすぎる。


「我らの中には、もはや日の光が毒となるようなか弱いものたちもいる。大広間から下は炊事場を挟んで居住区が続くが、下の階層に行けば行くほど、弱いものたちが住んでいる。そして居住区の最下層には、水棲のものたちが棲む。これらは別に弱いものとも限らん。この城の地下は、一部海と出入りできるように作っておってな。その点で都合が良かったのだ。いざというときは上層階を我らが、下層階を彼らが守る。そういう約束をしている」

「まだ、人族が追ってくる可能性があると考えているのですか?」

「わからぬ。ただ、用心に越したことはないだろう。このように不細工な城でも、100年も住めば愛着が湧く。みすみす壊されたくはないからなあ」


 体を反転させて、手すりに体を預けたリュカが、実感のこもった声で言う。愛おしげに城を見下ろす眼差しを見て、「そうですね」とノアは相槌を打った。


「俺も、そう思います」


 誰も彼もバカみたいにはしゃいでいた昨夜の酒宴を思い出す。エルザの土産の一部はどうやら相当に良い酒だったようで、封を切ったときには歓声が上がった。それもバカ騒ぎの一助となったのだろう。一目でわかる異形のものも数多くいたが、みんな笑顔で優しく、満ち足りているように見えた。みすみす壊されたくないというのは、城ではなく仲間たちとの安穏な暮らしなのだろう。


「いざというときは、城ごと逃げ出しましょうね。この城、走れるんでしょう?」

「わはは。そうだな。その手があったか。いやはや、無駄な機能だとばかり思っていたが、案外役に立つ日が来るかもしれんな」


 リュカの不安をこの一時だけでも軽くできたら、と殊更ことさらに明るい声でノアは提案した。リュカもその意図を組んで、笑ってくれる。


「さあ、次に行こう。早くしないと、みんなが起き出してしまう。朝食を用意してくれる給仕長に大目玉を食らってしまうぞ」

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