第5話 「魔女の箒さ。私たちはこれで空を飛ぶんだ」

 エルザが手ずから仕立ててくれた服は、軽くてあたたかく、しっとりとやわらかで、ノアの肌によく馴染む。

 魔法を使えば一瞬だろうに、わざわざ時間をかけて丁寧に縫い上げてくれた服は、一針一針にノアを守るおまじないを縫い込んでいるのだという。朝起きて顔を洗い、ゆったりとしたそれを身に纏うとき、ノアはいつも嬉しくなる。

 ドアの前で靴を履くときもそうだ。同様にエルザが拵えてくれた木靴は、しっかりとした作りであるのに羽のように軽い。

 ドアにはきちんと鍵がつけられていたが、結局この半年、ノアがそれを使うことはほとんどなかった。第三者が侵入してくる危険のないこの森ミラージュ・フォレで、エルザやルチアに対する警戒さえ薄れてしまえば、実際使う必要もなかったのである。

 木靴を軽く突っ掛けると、ノアは自室を出て目的の部屋に向かった。

 アリの巣状に連なるいくつもの部屋のひとつには、長い梯子のある部屋がある。暖炉の間と隣接しているキッチンの、更に奥。シャベルやスコップ、袋詰めにされた土などが転がっているのを除けば、梯子以外何もない狭い部屋だ。

 その部屋にたどり着いたノアは、迷わず梯子に手をかけた。頭上目掛けてどんどん登る。やがてたどり着いた蓋型の扉を開けると、明るい緑の庭に出た。

 エルザの菜園、四季のジャルダン・ドゥ・カトルセゾン

 洞窟の母体となる岩山の頂上を平らにならし、土を置き種を撒いて作り上げた彼女の菜園は、その名の通り四季折々の果樹や野菜、花やハーブが咲き乱れる見事な庭である。そのすべてを覆う実体のない透明なドームが、外部からの目隠し及び急激な気圧や気温の変化から植物たちを守る役割を担っている。

 目を配り手を加え、今のような大菜園にするのに200年もかかったと、エルザは誇らしげに語っていた。それでもまだ加えたい植物は山ほどあるらしい。なるほど、人生に退屈しないわけだ。


「おはよう、ノア」


 きょろきょろと辺りを見回すノアの頭に、鈴を転がすような笑い声が降ってくる。

 桃の木を見上げて、「おはよう、ルチア」とノアは破顔した。とん、と軽く地面を蹴り、ルチアのいる木の枝に飛び乗る。常人ではあり得ない跳躍力は、エルザのくれた靴のおかげだ。木の上でも、水の上でも、小鳥のように飛び回れる靴──決して誇張ではなかったその性能には、慣れるまで随分と苦労した。水の上はまだ試したことはないが、いつか機会もあるだろうと楽しみにしている。

 毎朝いくつもの甘い実をつけてくれる桃の木は、この菜園で最も背の高い木だ。色々な種類を詰め込むために小さく品種改良されたものが多いという木々の中にあって、唯一原寸大のまま植わっているエルザのお気に入り。

 朝起きてまずこの庭で水やりをし、作物の収穫をするのが、エルザたちの日課らしい。最初の方こそ寝坊して間に合わないこともあったが、それは今やノアの日課にもなっていた。

 ここに上ると、この森ミラージュ・フォレの全てを見渡せる。見渡す限り続く濃密な緑の森。遠くに聳える岩山の連なりや、時折見える飛竜の影、それら全てを照らし出す太陽の光。特に朝のそれはとりわけ美しい。暁の空にゆっくりと顔を出す朝日が、周囲の雲を金色に染めながら、濃紺から橙色へ、目を見張るようなグラデーションを描く。昼も朝もない洞窟に引きこもっているノアたちに取って、それは昨日から今日へ気持ちを切り替える大切なスイッチのようなものだ。雨でも、嵐でも、一つとして同じ朝はない。


「おはよう、二人とも。今日も早いな……」


 そうこうしているうちに、黒猫スキャンダルを伴って、宵っ張りのエルザも目を擦りながら起き出してくる。今日の装いは、際どいスリットの入った、ゴシックチャイナに似た黒のドレスだ。いつもウェーブのかかっている長い髪を、今日は真っ直ぐなストレートにしている。


「おはよう、おばあちゃん」

「おはようございます、エルザさん」


 二人の挨拶に満足そうに頷くと、エルザは昇ってきた朝日に目を細めて、「今日はいい天気になりそうだな」と呟いた。

 それこそ魔法を使えばあっという間だと思うのに、エルザは毎朝一つ一つの草花に丁寧に水やりをする。どれだけ水をやっても枯れることのない、銀の如雨露じょうろたずさえて。


「今日は何を取りますか?」

「そうだな……桃を三つと、チシャレタスを一玉。キャベツを一玉と、トマトを三つ。それと、馬鈴薯じゃがいもを7つに、エシャロットたまねぎが3つほどあればいいかな」

「だってさ、ルチア」

「はーい!」


 元気に返事をして、手袋をつけたルチアがよく熟れた大きな桃をひとつもぐ。ひょいと枝から飛び下りると、ノアは下でルチアの落とす桃を受け止めた。見事に丸く、みずみずしく、愛らしい実が、ノアの手の中で甘い匂いを放つ。

 更に二つ、三つと食べ頃の桃を全てノアに投げ落としてしまうと、ルチアはひらりと桃の木から飛び降りた。肩の少し下まで伸びた、癖のある夜色の髪が翻る。

 ルチアと協力して、ノアは次々と籠に作物を放り込んでいった。杏や李などの果実に始まり、丸々とつややかに太ったナスや、目にも鮮やかなラディッシュなどの野菜。噛むとピリッと辛い、ナスタチウムやチャイブスなどのハーブ類。果てはナデシコやプリムラなどの食用花エディブルフラワーまで、手当たり次第に詰めていくと、大きな籠はたちまちいっぱいになる。その中から先程エルザに言われた通りのものを避け、今日の収穫は終わりだ。恐らく今日の食卓に並ぶであろうそれらの野菜以外がどこに行くのか、ノアは知らない。ただ菜園の端に転送魔方陣があり、買い物に出るわけでもないのに時々卵や肉類が増えていることから、何らかのネットワークがあるのだろうと解釈している。


 みんな揃っての朝食を終えると、天候にもよるが、大体洗濯の時間になる。これがノアには新鮮だった。四季の庭の片隅に洗い場と洗濯物を干すスペースがあり、ポンプで地下水をたっぷり汲み上げて洗濯をするのだ。洗い場を水で満たし、そこに洗濯物を投げ入れて、ルチアと一緒に水が透明になるまで何度も何度も排水しながら足踏みをする。エルザは基本的に洗濯物を干す係だが、雨で洗濯が滞り、洗濯物の数が多いときは乱入してくることもある。みんなでキャアキャアはしゃぎながら洗濯をするのは楽しいし、めいっぱい体を動かすのも気持ちが良い。

 村では布も水も貴重品で、洗濯も水浴びも気軽にできる環境ではなかった。

 昨日着た服を翌日も着回すのは当然のことで、週に一度女子供が連れ立って近くの小川まで出掛けていき、洗濯と、ついでに水浴びを済ませる。獣に襲われる危険性もあるので、手早く済ませなければならない。そしてみんなで重くなった洗濯物と、満たした水瓶を持ち帰るのだ。水瓶の中身は畑に撒かれたあと、それぞれの家に分配され、生活用水になる。今となっては確認しようもないことだが、男たちは集団で狩りに出掛けた時などに、各々時間を見つけて水浴びをしていたらしい。

 冬場になると、少し事情が変わる。水が冷たくてとても水浴びなどできないため、村の隅に共用の風呂場を作り、薪で湯を沸かして入るのだ。まず男たちが入り、次に女子供が入る。その後湯冷めしないように10歳以下の子どもは家に戻され、残りの女子供で集まって、残り湯を使い洗濯をする。冬の間はどの家でも火を燃やしているため、洗濯物はそれぞれ持ち帰り、乾燥対策に家の中で干すようにしていた。温かいお湯が気持ちいいのは一瞬で、洗濯している間に湯冷めしてしまうので、決して楽な作業ではなかった。

 その点、四季の庭は外気温に関わらずいつも一定の温度を保っているし、水温もポンプの中で調節されているようで冷たくない。毎日清潔な服を着られるのはうれしいことだ。

 洗濯が終わると、自由時間になる。ここ半年、ノアはこの時間を読書の時間に当てることにしていた。体質・・のせいなのか、どれだけ本を読んでも集中力が途切れない。記憶力も上がっているようだ。何より、知識を得ることが楽しい。まだ見たことのない獣人アニマ人魚マーメイド。それぞれの生態や、それらが絡んだ歴史。植物や菌類の図鑑も面白い。引っこ抜くと悲鳴を上げるマンドラゴラ、金粉を吹く黄金茸。

 この家では、基本的に食事はみんなで行うものだ。だから、昼食も決まった時間に集まって食べる。その後はまた読書に戻ったりするのだが、最近はエルザやルチアについて森へ出掛けることも増えていた。

 これもまた異世界人フォーリナーから影響を受けた概念らしいのだが、この世界には古くより一年という暦上の単位がある。そしてこれは比較的新しい概念になるそうだが、気候の変化に照準を当て、更に一年をざっくり4つに分けた四季というものがあるらしい。すなわち、寒さが厳しく作物の育たない冬、冬の寒さがほどけ、新緑が眩しい春、空の青さが深くなる暑い夏、大地の実り溢れる秋の4つだ。それに乗っ取って言うなら、ノアがこの世界にやってきたのは去年の秋、長雨が続いたのが今年の夏の初め、エルザに拾われて半年経った今は秋となり、大体一年が経ったことになる。

 エルザの四季の庭は通年あまり変化がないが、森の変化は劇的だった。木の葉は赤や黄色に色を変え、次の春に繋ぐため、太った種子を落としだす。冬の蓄えのため、小さな動物たちが、あちこちくるくると走り回ってはそれを集めていく。ふと覗き込んだ茂みの影にブラックベリーの群生を見つけ、ノアは大声を出してエルザとルチアを呼び寄せた。森で、人間たちを見たことはない。大型の獣避けの香をつけているので、大声を上げても危険な獣が寄ってくることはない。ブラックベリーを摘まんで頬張ると、甘酸っぱい味が口いっぱいに広がった。二人はこれを、『東の森の黒い悪魔』と呼び合っており、好んで食べる。近いうちにジャムや、料理のソースとして食卓に上ることになるだろう。

 家に帰ると、エルザは夕食作りに取りかかる。最近は、ノアとルチアも簡単な手伝いをするようにしていた。じゃがいもの皮を剥いたり、野菜を切ったり。こういった時、エルザはあまり魔法を使わない。魔法を使うのは、作ったものを食卓に運ぶ時くらいだ。魔法で何でもできてしまうと、逆に手作業でどれだけできるか追及したくなるらしい。その日のシチューに入っていた人参は星形だった。

 食事が済むと入浴だ。頭を洗っている間に、バスブラシが勝手に体中の汚れや汗を落としてくれる。後は猫足バスタブにたっぷりと張られた湯に浸かり、十分に体をあたためて終了。自室に戻り、少しの間だらだら過ごしてから、ふかふかのベッドに潜り込む。そういう小さな幸せを、半年間毎日噛み締めながら暮らしてきた。


 それでも時々、不安になることは、ある。

 眠れない夜、ノアはいつもエルザの部屋を訪ねた。

 エルザもまた、いつも全てわかったような顔をして待っていてくれる。


「やあ、来たな」


 ゆったりと揺り椅子を揺らしながら、エルザは編み物をしているところだった。一目で年代物とわかる木の揺り椅子は、すっかり使い込まれて、つやつやと飴色の光沢を放っている。

 エルザの部屋はいつ来ても雑然としている。ビーカー、フラスコ、試験管といった実験器具や、色々な鉱石が混じる原石類。古い鏡や燭台、真鍮の鳥籠、砂時計。ランプや香炉、束ねた木の枝、蝋燭や布。それからたくさんの本と、何に使うかよくわからないあれこれ。それらをただ眺めたり、由来などを聞いたりしているだけで、ノアの心は不思議に凪いだ。誰かと過ごし、会話をすることが、多分大事だったのだ。


「さて、今日はどうしようか。新しい薬草の煎じ方を教えてやろうか。それとも鉱石の削り出しから、研磨まで教えてやろうか」


 おっかなびっくりながらも何にでも興味を示し、教えればすぐに何でも吸収していくノアは、エルザにとっても可愛いらしい。

 薬草事典を暗記した頃から、たまにエルザはそういったことをノアに教えようとしてくれる。


「……どうしようかな……」


 エルザが無造作に放ってくれた鶏卵大の原石を、見るともなしにぼんやりと眺めながら、ノアは手のひらでころころと転がした。ごつごつした黒い石のところどころに、赤や紫の鉱石がキラキラと光っている。


「なんだ、気分が乗らないか」


 どこか浮かないノアの表情に、エルザはふと首を傾げた。

 ややあって、ノアの手のひらからひょいと原石を取り上げ、「やめだ、やめだ」と立ち上がる。


「散歩に行こう、ノア」

「散歩?」


 今度首を傾げたのはノアの方だった。梯子の部屋まで連れて行かれて、どうやら四季の庭を目指しているらしいエルザに、ますますわけがわからなくなる。


「ちょっと……この先は庭ですよ。それに散歩って、こんな時間に?」

「そうだ。きりきり梯子をのぼれ。こんなところに閉じこもっているから、気持ちがむのだ」

「こんなところって……そんなところに好き好んで数百年も住んでいるくせに」

「それもそうだ。わはは」


 唇を尖らせたノアの言葉を楽しそうに笑い飛ばし、ノアに続いて梯子を上りきったエルザが、持ってきた編み棒をくるりと手の中で回す。

 ナイフにも、煙管にも、自在に姿を変える魔女のロッド。魔女は一人前になるとそれぞれ一本ずつ杖を持ち、様々な魔法をかけた装飾を施しながら、生涯をかけて育て上げるのだという。エルザのそれは黒檀の木を削り、磨き抜いたもので、長さは1.5メートル程。形はT字だが、横線が片方長く、ややL字型に近い。長い方の横線はやや湾曲した造りで、鳥の嘴のように穂先が細くなっている。黒曜石オブシディアン黒瑪瑙ブラックオニキスがちりばめられ、それはそれは美しい黒一色の杖だ。

 エルザが杖を下方に振ると、シャフトの後端から、楕円を更に細く長く引き絞ったような光が何本も現れ、ちょうど箒のような形になる。


「なんだか箒みたいですね」

「魔女の箒さ。私たちはこれで空を飛ぶんだ」

「……空? を飛ぶ?」

「論より証拠というやつだ」


 言うが早いか、エルザは地面に対して平行になるようにロッドを持ち、ひょいっと無造作に放り投げた。落ちもせずふわふわと中空を漂う箒に、横乗りに腰かける。風もないのに、エルザを乗せた箒は、重力を感じさせない軽やかな動きでそのまますいっと浮き上がった。くるりとゆっくりノアの頭上を一周して、元の場所に戻ってくる。


「どうだ」

「す──すごいです! まさか空が飛べるなんて……魔法ってほんとにすごいですね!」


 ドヤ顔で箒から飛び降りたエルザに、ノアは食い気味に飛び付いた。まっすぐな称賛に呆気に取られ、「あ、うん」と反射的にエルザが応じる。

 やがてエルザは、「そう素直に褒められると、ちょっと恥ずかしいな」と目を泳がせながら爪の先で頬を掻いた。やや頬が赤い。


「言っておくがこの世界じゃ、そんなに珍しいものでもない。魔力や道具に頼らなくても、自前の翼で飛べるやつだっているわけだしな」

鳥人バードドラゴンなんかですね」

「そうだ。よく勉強しているな」


 ノアの頭を撫でて誉めると、エルザは何もない空間に指で円を描き、その円の中におもむろに腕を突っ込んだ。横から見ると、エルザの手が何者かにすっぱりと切られ、消えたようにすら見える。少し視線をずらすと、円の中ではうにょうにょと不思議空間が渦を巻いていた。なんだこれ。エルザが作り出した空間であることは間違いないのだが、あまりにも意味がわからなすぎる。

 気を揉んでいるノアを横目に、エルザはしばらくその空間をかき回し、やがて何事もなかったかのように腕を引っこ抜いた。その手に掴まれていた、大きな漆黒の一枚布が、風を孕んでふわりと広がる。向こう側が透けるほど薄く、散りばめられた透明な石のかけらが、月の光に反射してキラキラと煌めいていた。伏し目がちのエルザの瞳にも光が映って、幻想的な雰囲気に、ノアが一瞬言葉を失う。


「『夜のカーテンリドー・ド・ニュイ』だ」

「すごい……すべすべですね……この星みたいにキラキラしたのは何ですか?」

「水晶の欠片だ。前に、水晶は鉱石の中でも一番魔力を通しやすいと教えたろう? この布にも魔法がかかっている。『透視』と『内部の温度調節』の魔法だ。薄いが抜群にあたたかいぞ」


 そう言うとエルザはノアに頭から布を被せ、首の前に布の端を手繰り寄せて留め具をつけてくれた。そして待機していた箒に腰かけ、ノアに手を差し伸べる。


「『透視』というのは?」

「夜のカーテンは、中にいるものの姿を隠す。要するに、透明になれるんだ。私は魔法で箒ごと姿を消せるが、お前にはその術がないからな。さあ、箒をまたいで。しっかりと掴まるんだ」


 言われた通りにノアが箒にまたがると、エルザはひとつ頷いて、視線をすっと空に向けた。その視線に引かれるように、箒が空に浮き上がる。一瞬重力に引かれて体がずしっと重くなるが、やがて箒が減速すると、落ちるような感覚とともにふわっと体が軽くなった。四季の庭の上をゆっくりと一周したあと、箒は夜の森へと舵を切る。少しの間目的もなく箒を走らせてから、エルザは「どうだ?」と一言も喋らないノアを振り向いた。


「やべー! 怖すぎてお尻がむずむずします! 生きた心地がしません! でも、楽しい!」


 上空は風があって、声が通らない。力いっぱい握りしめた箒の柄からは手を離せないまま、ノアは声を張り上げた。


「震えが止まらないように見えるけど……」

「止まらないですけど! 楽しいです!」

「わはは。何だ、それは。変なやつだな」


 震えながらも夢中になって景色を眺めているノアに、エルザが楽しそうに笑う。宙に浮かぶ何とも言えない不安な感覚には、木靴でぴょんぴょん飛び回って、実のところちょっと慣れているノアだった。宙を蹴って二段階くらい飛べるのも確認しているので、万が一落ちてもパニックにならなければ多分無事に着地できる。着地を失敗しても体質上死にはしない。厳密に言うと一度は死ぬのだが。


「ノア、見えるか?」

「はい」


 エルザに促され、その示す方向を見て、「四季の庭ですね」とノアは答えた。


「こんな遠いところまで、来たんだ」

「なに、目に見える距離なんて、すぐそこさ」


 長い髪を風に遊ばせながら、ふと遠くを見て、「世界は広いからな」とエルザが呟く。


「時間だってたっぷりあるんだ。お前の仲間だって、お前が生きてさえいれば、そのうちきっと見つかるさ」


 夜の森に視線を巡らせていたノアは、その言葉にはっと顔を上げた。

 よしよしと布の上から頭を撫でられて、この人には敵わないなあと諦め混じりにノアが思う。思いきるように唇を一度ぎゅっと噛みしめてから、胸にずっと飼っていた不安を、ノアはぽつりぽつりと明かしていった。


「なんとなく……心細くて。この世界にたった一人だって、時々思うことがあるんです。エルザさんたちは良くしてくれるのに……すみません」

「気にするな。気持ちばかりは、どうしようもないことだ」

「……同じ境遇の人に、やっぱりいつか、会えるなら会ってみたいと思うんです。記憶を取り戻すきっかけになるかもしれないし、能力のことも、何か知っているかもしれない。もしかしたら何も得られないかもしれないし、その人は俺が元いた世界じゃなくて、全く別の世界から来た人かもしれない。でもその人が笑って、幸せに暮らしていてくれたら……たとえ王都で飼い殺しになっていても、その人なりの居場所を見つけて、頑張ってる様子が見れたら……うまく言えないけど……俺が、元気出ると思うんです。俺も頑張ろう、みたいな……ほんと、うまく言えないんですけど……」

「大丈夫、ちゃんと伝わってるよ」


 溢れた涙を拭うノアの頭を撫でて、「お前は本当に泣くのが下手だな」とエルザはため息をついた。


「子どもが泣き声の殺し方なんて、覚えるもんじゃない。下手な我慢をするな。遠慮もいらん。ワガママを言え。お前たち子どもは、たくさん愛されて、大人になるんだ。全く、こんなんじゃまだまだ外には出せないな」

「外?」

「子どもは外にも『遊び』に行かなくちゃな。部屋で本を読むより、実際体験したほうが身につくこともある。百聞は一見に如かずってやつだ。ほら、飛竜が通るぞ」

「う、わあ…………」


 エルザに促されて頭上を見上げ、ノアは思わず息を呑んだ。ごつごつと硬そうなぶ厚い皮膚。鳥の羽根とは違う、被膜のある長い翼。風に乗って悠然と飛んでいるのは、特徴を見るに竜種の一つ、ワイバーンだ。


「こんなに近くに飛んでるのに、気付かなかった……それに、想像していたより大きいです」


 風に乗って、徐々に降下していくワイバーン。交差する一瞬大きな目がぎょろりとノアの方を向いて、慌ててノアはフードを被り直した。知性ある瞳が、確かに一瞬ノアをとらえた。


「な? 本を読むの実際に見るのとではまた違うだろう。この時間に飛んでいるのは珍しい。羽音も消していたし、きっと私たちの気配を察して寝床から偵察に来たんだろうな。縄張りにこれ以上近付くのは危険だから、そろそろ私たちも帰ろうか」


 品定めするような瞳が忘れられず、上の空でノアは頷いた。


「んー、いや待てよ? ホームステイってのもありかな……」


 そしてそんなノアを見ながら、エルザが呟いた言葉も、もちろん聞いてはいなかったのである。

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