第4話 「私の夫は、吸血鬼だ」

 暖炉の間に行くと、既に全員が揃っていた。

 まず、鼻歌混じりに縫い物をしていたエルザが、顔も上げずに「遅いぞ、ノア」とノアを迎える。

 続いてルチアが、「おはよう、ノア」と笑って、自分の隣の椅子を引いてくれた。テーブルの上で丸くなっていたスキャンダルが、恨みがましそうな目でノアを一瞥し、ふいっと顔を背ける。


「おはよう、ルチア。せっかく迎えに来てくれたのに遅くなってごめんね、スキャンダル」


 ノアは腕を伸ばして、あやすように黒猫のすべらかな毛皮を撫でた。ふんっと鼻を鳴らし、けれどスキャンダルはノアの手を拒まない。

 エルザとルチア、そして金の眼をした黒猫スキャンダル。ノアの新しい家族のすべてだ。


「さあ、全員揃ったな。さっそく朝ごはんにしよう」


 バスケットに縫いかけの布を入れてしまうと、エルザは指揮者がタクトを振るように長い指を翻した。暖炉の間に隣り合う小さなキッチンから、パンの詰まったバスケットやマグカップ、布巾や小皿が行進するように躍り出て、テーブルの真ん中に集まる。スキャンダルの前には、銀色のスープ皿。恭しく進み出たミルクピッチャーが、なみなみとそれをミルクで満たした。


「頂きます」


 胸の前で祈るように指を組んだエルザにならい、ノアとルチアも口々に言って指を組んだ。さっそくバスケットに手を伸ばして、めいめいにパンを頬張る。エルザは銀のボウルから、ガラスの小皿に二つ、ヨーグルトを取り分けてくれた。とろりと赤いジャムをかけて、二人の前に並べてくれる。


「二人とも、よく噛んで食べるんだぞ」

「……母親みたいなこと言うんですね」


 二人を見守る優しげな目に、いきなりがっつきすぎたかと子どもらしくもなく恥じて、ノアは照れ隠しに唇を尖らせた。


「ママが恋しいなら、私に甘えてもいいんだぞ?」

「遠慮します。そもそも俺は、母親のことも覚えてないですし」


 ノアの言葉に、二人が目を丸くして顔を見合わせる。まずいこと言った? と眉を下げて目で問いかけるエルザに、ルチアがぶんぶんと首を縦に振った。自分から話を振っておきながら気を遣われたりするのは本意ではなくて、慌てて「気にしないで下さい」とノアが手を振る。


「そういえば、ルチアのお母さんは?」

「あたしのママは、あたしをおばあちゃんに預けて、一年くらい前からパパと世界旅行中なの。今回は10年くらいかけて回るつもりだって言ってた」

「私は母方の祖母に当たるんだが……まったく、仕方ないな。あいつらは」

「だってママだもん。一ヶ所に留まれる人じゃないよ。むしろ、あたしが10歳越えるまでよく我慢したなって感じ」


 嘆息したエルザに、ませた口を聞いて、ルチアは肩をすくめてみせた。ノアの常識で言えば、親が子どもを置いて姿を消すのに10年は長すぎるような気もしたが、今目の前に座っているのは見た目はともかく実年齢945歳の老婦人オールドミスだ。

 魔女に取って10年は、瞬きほどの短い時間でしかないのかもしれない。


「でも、あたしはおばあちゃんといられて幸せ。二人とも時々手紙をくれるし、色々お土産送ってくれたりするし。あ、ノアにも後で見せてあげるね。あたしのお気に入りはフェニックスの羽根。この間なんか、久しぶりに長い手紙が来たと思ったら、便箋9枚も使って、パパが超かっこよかったときの武勇伝しか書いてないんだもん。いつまで経ってもラブラブでやんなっちゃうよね」

「そうだね……」


 突っ込んだら負けな気がして、けたけたと笑うルチアの言葉に、目から光を無くしたノアが曖昧に頷く。話に聞く限り、エルザの破天荒な性格は孫のルチアだけでなく、自らの娘にもしっかりと受け継がれているらしい。


「エルザさんの旦那さんは、どういう人だったんですか?」


 そうなると我らが美魔女と恋をして子まで成してみせたルチアの祖父に俄然興味が湧いて、ノアはエルザに水を向けた。ぴしり、と空気が凍る。否、よく見るとぴしりと音を立てたのはエルザの持つマグカップだった。黒猫の絵が描かれたかわいらしいマグカップが、あわれエルザの手の中で、粉々になってテーブルに飛び散る。同じ黒猫のスキャンダルは、ノアが目を向けたときにはすでに忽然と姿を消していた。本能で危険を悟ったのかもしれない。ルチアは平然とパンを食べているように見えたが、よく見れば蒼白な頬に滝のような汗を伝わせている。


「……私の夫のことを聞いたのか?」


 割れたマグカップの中に残っていたミルクの雫が、エルザの手のひらを伝ってぽたぽたとテーブルに落ちた。


「え……いや、あの」

「私の夫のことが聞きたいのだろう?」


 どうやら何かの地雷を踏み抜いたらしいと、そのときになってやっとノアも気付いたが、時すでに遅し。背後におどろおどろしい黒い影を漂わせながらにっこりと微笑むエルザの気迫に押されて、もう結構ですとも言い出せず、ガクガクと震えながらノアが頷く。


「いいだろう。教えてやる。私の夫は、吸血鬼だ」


 ピシピシとつめたく凍っていくマグカップの欠片を見ながら、震えが止まらないのはけして恐怖のせいだけではないとノアは悟った。テーブルを這い寄ってくる霜から、隣のルチアが慌ててパンの入ったバスケットを回収する。


「きゅ、吸血鬼」

「そうだ。あの浮気者のことだから、おそらく生きてはいるのだろうが……もう百年も帰ってこない」

「百年……」


 そら恐ろしい話である。パキン、と音がして、先程スキャンダルが残していったスープ皿が凍りついた。それよりもエルザに近い割れたマグカップは、もはや細かな氷の結晶となってきらきらと空気中に漂っている。


「遠い昔、私がまだ『漆黒の魔女』と呼ばれていた頃の話だ。その当時をして、純血の吸血鬼は珍しかったからな。滅多に姿を現さない割に、なかなか有名だったんだ」

「は、はあ……」


 じわじわと侵食してくる霜に内心穏やかではないが、これ以上地雷を踏むわけにはいかないと、ノアは黙ってエルザの話を聞いた。


「ワルプルギスのパーティーで、私から声をかけた。面白そうなやつだと思った。初対面の私に向かって、笑いながらやつは頼みがあると言ったよ。“とびきりの媚薬を調合して欲しい、『漆黒の魔女』を落としたいんだ”……とな。ああ、今思い出してもそんな言葉に軽々しくよろめいた自分が憎らしい」


 ぴたり、とテーブルの縁まで来て、霜の侵食は止まった。少しでもエルザから離れようとのけぞり、背中で椅子に張り付いていたノアが、「う、うん……?」と首を傾げる。


「ちゃんとすればそれなりなのに、髪はいつもボサボサだし、言わないと髭も剃ろうとしないし、いつ見てもヘラヘラしてるし、私と会う前まで、女癖も相当悪かったと聞く……あいつがその気になれば匿ってくれる女の一人や二人……どうせ今もどこかの女とよろしくやっているに違いないのさ。あの浮気者め……私だけだと言ったのは嘘だったのか……」

「……要は、旦那さんが帰ってこなくて寂しいんですね?」


 愚痴に見せかけた盛大な惚気に脱力して、緊張から解き放たれたノアは、ついまた言わなくてもいいことを言ってしまった。ぎろりと鋭い目で睨まれて、ごめんなさいとノアが飛び上がるより先に、「そうだ」とエルザが答える。


「私はさびしい」


 組んだ腕を下にして、力なくテーブルに突っ伏したエルザは、乱れた黒髪の間から地を這うような声を聞かせた。


「何百年経ってもドロシーたちは仲良しなのに……どうしてあいつは私の元に帰ってきてくれないんだ……」


 誰に向けるでもなくぶつぶつと呟くエルザに、どう声をかけていいかわからず、ノアが隣のルチアに目で助けを求める。今まさにあんぐりと口を開けてパンにかぶりつこうとしていたルチアは、気まずそうに口を閉じて首を振った。


「ほっといていいよ。おばあちゃん、こうなると長いから」


 バスケットの中から別のパンを取ってノアに渡しながら、「ちなみに、ドロシーはママの名前」とルチアが言い添える。


「おじいちゃんには、あたしも会ったことないんだ。でも、すっごく強い吸血鬼だって聞いてる。ママたちが旅に出るとき、本当はあたし、着いてくるかって聞かれてたの。あたし、断った。おばあちゃんはせいせいするって言ってたけど、きっとおばあちゃん、さびしがるだろうなって思ったから。スキャンダルを拾ったのもノアを拾ったのも、多分、さびしいからなんだと思う」


 パンをあらかた食べ終えて満足したのか、ルチアはヨーグルトに手を伸ばした。一連の流れですっかりフローズンヨーグルトになってしまったそれは、スプーンでかき混ぜるとしゃりしゃりと涼しげな音を立てる。にゃあ、という鳴き声に足元を見ると、いつの間にかスキャンダルが戻ってきていた。


「……スキャンダルも、エルザさんに拾われたの?」

「うん、おじいちゃんがいなくなってしばらくしてから、おばあちゃんが外で拾ってきたんだって。それから今まで百年生きてる時点で普通の猫じゃないのは明らかなんだけど、別に悪さもしないしね」


 ノアは吸血鬼のことはよく知らない。しかし子どもの寝物語フェアリーテイルとして村に伝わっている話では、吸血鬼は確か、動物に姿を変えたりもできたはずだ。ひょいとテーブルの上に飛び上がったスキャンダルは、慰めるようにぽふぽふと肉球でエルザの髪を撫でている。


「まさか……ね」


 フローズンヨーグルトに頬を緩ませているルチアを横目に、冷えたパンをかじりながら、ノアはぼそりと呟いた。それが聞こえたのか、ちらりとノアを見たスキャンダルが、また一声にゃあと鳴く。


「やっぱり喧嘩して庭で十字架に張り付けにしたのがまずかったんだろうか……」


 エルザはぶつぶつと、まだ呟いている。内容については、聞かなかった振りをした。

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