天地が返る 1

 A・ファーレンハイトは数秒の間に何度も戦闘になった場合をシミュレートした。

 彼女が導き出した結論は「ここでまともに戦ってはいけない」。一人二人は何とかなっても、全員を倒しきることは不可能。

 彼女は迷わず、この場から逃走することにした。


 幸い現状は警戒されているだけで、すぐに戦闘に入る段階ではない。彼女は目の前のを刺激しないように、丁寧にマスターFに断りを入れる。


「すみません。手を洗いに行ってもよろしいでしょうか?」


 彼女は全員の様子を窺いながら片足だけ少し後ろに引いて、誰が射撃の用意をするか見る。

 反応したのはマスターIだった。彼は力を抜いて両腕をゆっくり下げ、ファーレンハイトからは見えないように袖から小さなナイフを取り出して、隠し持っている。


 マスターFはファーレンハイトに言った。


「そう時間はかからないが、そんなに急いでいるのか?」

「ええ。失礼します」


 彼女は背後のドアのノブを片手で捻って引く。

 同時にマスターIが極小のスローイングナイフを投擲した。さらにマスターFが二丁のマシンピストルを構えようとしている。

 その動きを見たファーレンハイトは体を半回転させて小さく開いたドアの隙間に滑りこませると同時に、空いたもう片手でオートマの拳銃を腰から抜いて撃つ。


 一瞬の攻防。

 彼女の早撃ちはマスターFのマシンピストルを片方だけ弾き飛ばした。それに動揺してマスターFは射撃が遅れる。

 ファーレンハイトはナイフをあえて腕で受け、廊下に転がり出る。直後に激しい銃撃がドアに浴びせられた。半秒でも遅れていればハチの巣だった。


 何とか会議室から脱出した彼女は、腕に刺さった二本のナイフを抜きながら拳銃を片手に全力で駆けた。どこへ逃げれば良いのか分からないが、とにかく本部にはいられない。

 廊下で見知った顔のエージェントたちと目が合う。彼らは驚いた顔をして、彼女に拳銃を向けようとする。


(ああ、やっぱり! 皆敵なのか!)


 どうしてこんなことになってしまったのかとファーレンハイトは歯を食い縛る。

 彼女は立ち塞がる者、攻撃してくる者は迷わず撃って、包囲網を張られる前に最短ルートでの脱出を目指した。


 窮地の彼女はますます集中して射撃の精度を上げていく。さらに彼女は本部を守るエージェントの配置も完璧に記憶している。この状態の彼女は並のエージェントでは相手にならない。

 ナイフが刺さっていた腕の痛みも今は飛んでいる。視界に映るもの全てが十分の一ぐらいの速さになるだけでなく、数秒後の世界の影がぼんやり目に見える。怪物を相手に戦ってきた彼女もまた怪物じみてきていた。



 ファーレンハイトは本部から離れた人通りの多い街中に逃げこみ、乱れた息を整える。

 本部が市街地に近い場所に移ったのは幸いだった。黒い炎はあくまで影の存在。E国内で騒動を起こしても見逃してもらえるほど、強い力は持っていない。


 彼女は大きく深呼吸をした後、どこに行こうか考えて途方に暮れる。

 しばし思案した末に彼女はマスターTのいるアパートに行ってみようと決めた。

 他に行くべき場所は分からなかったし、もし本当に彼が体調不良で休んでいるのなら、彼はそこにいるはずだ。

 わずかな望みを胸に彼女は再び歩き出す。

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