留守番 3
しかし、A・ファーレンハイトも少し変だとは思っていた。
彼女はエージェントになって十年も経っていない。いかに実力を見こまれたと言われても、上級エージェントを一年務めただけでマスターになって良いのかという疑問が浮かばなかったわけではない。
新しいマスター候補たちは揃いも揃って若すぎるのだ。情報を見る限り十代後半の者がマスター候補になるのは、今回が初めて。年齢は関係なく実力で選んだと言われても、本当なのかとマスターTが疑いを持つのは分からなくもない。
では、どうして数合わせをする必要があるのだろうか?
急に若いマスターを増やすことに何の意味があるのだろう?
ファーレンハイトが真剣に考えているとすぐ横に人の気配を感じた。彼女が慌てて書類を伏せて顔を上げると、そこにはA・バールが立っていた。
「どーしたの? そんなに慌ててぇ」
バールはいやらしい笑みを浮かべている。
ファーレンハイトは警戒心を顔に表して彼女を見た。
「……いつの間に?」
「そんなに驚くことないじゃん。普通に入ってきたんだけど。私が入ってきたのにも気づかないくらい、何に熱中してたのかな?」
「何でもないよ」
平静を装ってごまかすファーレンハイトだが、バールは見逃してくれない。彼女は何もかもお見通しという顔で、ファーレンハイトにすり寄る。
「マスターがいないのを良いことにデスクを物色するなんて……悪い子だねぇ、へへへ。品行方正で知られたA・ファーレンハイトともあろうお方が、まさか
――組織内ではマスターは幹部を表す言葉にすぎず、主人という意味ではない。女性のマスターをミストレスとは言わないし、エージェントとの間で主従関係もないから業務外のことには拘束されない。
エージェント同士では冗談で「うちのマスター」、「あなたのマスター」などと言い合っているが、もしエージェントがマスターに対して呼びかけや返事のつもりで「マイ・マスター」とでも言おうものなら、すぐに「私はあなたの主人ではない」と当人から注意される。
その程度のことは上級エージェントであるバールも十分承知しているので、これは痛烈なジョークだ。
ファーレンハイトは反論できず沈黙する。
ただ品行方正と他人に思われていたことは意外だった。彼女は孤児になるまではそれなりの暮らしをしていたので、いわゆる「まじめ」でいることが普通だと思っていたのだ。
バールは何も言えないファーレンハイトに、同情するような優しい声をかける。
「分かるよ、マスターTは秘密が多いもんね。このことは黙っててあげるから、私にも彼のことを調べるの協力させてよ」
バールは交渉上手だ。
もう弱みを握られたようなもので、ファーレンハイトは断ることができない。
「それは良いけど、とくにしてもらいたいことなんかないよ」
「とりあえず、その資料見せて。何か分かるかも」
彼女はしぶしぶバールにマスターとマスター候補の書類を見せた。
バールは書類を一枚一枚めくりながら言う。
「んー、大したことは書いてないね。ちょっとがっかり」
予想外に冷静な反応がファーレンハイトには不可解で、問いかけてみた。
「私たちは数合わせだって」
「間違ってはいないんじゃないかな」
「……何のために数が必要なの?」
「そりゃ組織を大きくするためだよ。時期的に考えて、邪悪な魂に対抗するためじゃないかな」
バールの冷静な考察は納得がいくもので、ファーレンハイトは少し安心した。
確かに彼女の言うとおり、マスター候補になって最初のマスター会議では邪悪な魂の拡大と血と涙の活動が問題になっていた。
ファーレンハイトはさらに続けて疑問をぶつける。
「それでも若いマスターである必要はないんじゃない?」
「優秀なのを選抜したら偶然若い人だけだったとか? それか年齢のバランスを考えたのかも。創始グループが40以上で、第二期が30以上、第三期が30前後、第四期は20後半ぐらい? 今は若すぎるけど将来的には良い感じになりそう。邪悪な魂が急拡大したのが想定外だっただけで、初めは余裕のある計画だったのかも」
理路整然とした推理はケチのつけようもないが、ファーレンハイトには言葉にできない引っかかりがあった。
いつまでも浮かない顔をしている彼女にバールは言う。
「うちは情報を扱う部署だから、この書類も見たことがあるよ。実はマスターRにも聞かれたことがあってね。どうして実績もない若いエージェントがマスター候補になるのかって」
「マスターTとマスターRは同じ疑問を持っていた?」
「そうじゃなくて、私の予想だけどマスターRがマスターTに疑問を伝えたんじゃないかな。あの二人、結構仲が良いんだよ」
どのくらいマスターTはマスターRと親しいのだろうかと考えると、ファーレンハイトの心は落ち着かなくなった。
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