留守番 2

 マスターTの椅子に座っていると、A・ファーレンハイトは自分が主人になったような気分になる。この場には誰もいないので咎められる心配もない。少しの後ろめたさは感じるものの、椅子の座り心地は悪くない。

 デスクの右手に見える、いつもは彼女が使っている机には、将来誰が座ることになるのだろうか?


 自分もマスターになったら部下を持つようになるのだと彼女は想像した。

 他の戦闘任務を担当するマスターのように部隊を率いて戦場に赴き、部下たちの手本となるような働きをすることになるのか?

 それとも射撃の腕を買われたのだから、マスターDのように訓練で後進の育成に注力することになるのだろうか?

 どちらにしても本当に自分にできるのだろうかと彼女は不安になった。

 彼女が自分のキャリアのためにマスターTから学べることは、ほとんどないように思われるのだ。

 今ごろであれば自分はマスターIの下について、多くの任務をこなしていたのだろう……と彼女は考えたが、振り返ってみれば彼が任務にA・ルクスを連れていたことはなかったと気づいて、留守番ばかりも嫌だなとため息をついた。



 ファーレンハイトはマスターTと毎日のように行動をともにしていたが、未だに彼のことはよく分からない。少しずつではあるが秘密を明かしてもらえて、一定の信頼を得たのかと思えば、今回のようにふっと置いていかれる。

 もっと自分から彼に接近するべきなのかと彼女は考える。しかし、個人的な交流を深めることについて彼女は否定的だった。

 こんな仕事をしているのだから、いつ永遠の別れが来るかもしれない。親しくなればなるほど、失った時に負う心の傷は深くなる。対人関係は事務的なものに止めておくのが、お互いのためだと彼女は信じていた。


 仲間を失ったからといって、怨恨と憎悪のために我を忘れて復讐に走るようでは、優秀なエージェントとは言えない。

 そうした意味ではマスターEは良い反面教師だった。マスターでありながら部下と関係を持ってしまい、復讐のために暴走する彼の姿を彼女は好ましいものとは捉えられなかった。

 だが、ファーレンハイト自身も親しい者がいないわけではない。仮の母として親身になってくれたマスターBは敬愛しているし、A・バールは親友だ。

 ファーレンハイトが心を許す二人の共通点は戦闘員ではないこと。お互いに命を預け合うようなことはないし、先立たれる心配もない。それに寂しさを感じないこともないが、仕事のことで仇討ちを望むこともない……。

 エージェントはあくまで仕事だから戦うのであって、怒りや憎しみで戦うわけではないのだ。


 だが、個人的な信頼関係を築かずに、その人の核心に触れるのは難しい。

 心を許せない者に秘密を打ち明けることがあるだろうか?

 全く知らない者だから話せることもあろうが、同じ組織で働く者同士の時点で無関係ではない。



 心にもやもやしたものを抱えながら、彼女はマスターTのデスクの上を見回した。


 まず目に入ったのはデスクの左側の書架。

 彼はもともと研究者だったのか、それとも被検体でありながら学術的な好奇心が旺盛だったのか、書架には最新の学術誌が揃っている。

 雑誌名で年度と月の古い順に左から右へ並べられているところからは、彼の几帳面な性格が窺える。

 書架の左端――いつもファーレンハイトが座る席からは見えない所には、なぞなぞやパズルの本といっしょに「女性の部下にどう接するべきか」という内容そのままなタイトルの本があった。

 彼には彼の苦労があるのだろう。


 デスクの端に置いてある卓上カレンダーには何も書きこまれていない。単に用事がないだけのか、いちいちカレンダーに予定を書きこむ習慣がないのか不明だが、卓上メモも白紙だ。

 よく見ればデスクの上にはパソコンがない。機械類は内線電話とプリンター、そして卓上自動クリーナーだけ。

 他に何かあるとすれば、引き出しの中か……。



 マスターTが不在の今が彼の秘密を探るチャンスなのではと、ファーレンハイトはよこしまな心に駆られた。

 彼の書置きには「デスクに触れるな」という文言はなかった。常識として他人のデスクをあさるのは良くないと彼女も分かっていたが、好奇心には勝てなかった。


 四段ある一番上の引き出しには鍵がかかっていた。当然だが彼にも見られたくないものはあるのだ。


 上から二段目の引き出しを開けてみると、中には組織の業務連絡の紙が重ねて入れられている。

 マスター会議について、電気設備メンテナンスのお知らせ、臨時マスター会議のお知らせ、健康診断のお知らせ、清掃について……。

 とくに彼の秘密に関係しそうなものはない。


 上から三番目の引き出しの中には、白紙の定型文書が入っている。

 休暇届、早退届、報告書、始末書、各施設の使用許可願、請求書……。

 こちらも関係なさそうだった。


 一番下の引き出しの中には、彼の個人的な書類が入っている。

 健康診断結果にはとくに変わったことは記されていない。

 その下には……各マスターとマスター候補の個人情報が記された書類が重ねて置いてあった。


 個人情報といっても欄内には大したことは書かれていない。

 顔写真とコードネーム、年齢、生年月日、元の国籍、組織に入った日付、組織内での経歴ぐらいのもの。本名や組織に入るまでの経緯までは明かされていない。

 既に組織にいないマスターの分もあるが、注目すべきはマスターTが記したと思しき、欄外の走り書き。

 マスターAのものには「ABL」と、マスターBのものには「アラベル・ベーリング」と、マスターCのものには「クロード・アルフォンズ」と小さく書かれている。

 おそらくは本名なのだろうが、マスターAの書類にある三つのアルファベットに関しては不明だ。


 他にも興味深いことが書かれている。

 マスターHは資金管理を、マスターJは設備管理を、マスターKは諜報活動を、マスターMは暗殺任務を担当していた。

 マスターGはマスターDが、マスターRはマスターBが直接組織に勧誘した。


 マスター候補にも走り書きがある。

 A・ルクスの書類にはマスターAの書類にあったものと共通するものであろう三つのアルファベット「HID」と、マスターAの書類にはなかった「outer number」の文字が……。


 さらには全てのマスター候補の書類に次のような手書きの注釈がある。


「実績不明、数合わせか?」


 数合わせと疑われていたことを知り、ファーレンハイトはムッとした。彼女は自分には優れた射撃の腕があると自負していた。

 彼女に限らず、マスター候補には皆どこかしら秀でた能力がある。バールには完全記憶能力があり、A・ルクスには超人的な力がある。

 その他のマスター候補のことは詳しくは知らないが、何かしら優れている所があるのだろう。そうでなければマスター候補に選ばれるはずがない。

 それを「数合わせ」と切って捨てられては立つ瀬がない。

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