マスターB 2

 A・ファーレンハイトが保健室に入ると、デスクに向かっていたマスターBが優しい笑顔で振り向いた。


「遅かったわね。あなたにしては珍しい」

「はい。少しお話があります。お時間をいただけませんか」

「私に?」

「はい、そうです」


 それを聞いたマスターBは落ち着いた声で、健診の手伝いをしていた女性の上級エージェントを下がらせる。


「ガウス、もう良いわ。後は私がやるから」

「分かりました。失礼します」


 A・ガウスは素直に従い、この場には二人だけになる。

 保健室の真ん中にはカーテンと衝立で仕切りがしてあり、その向こう側では男性の上級エージェントの健診が行われていたが、そちらも今は人の気配はない。


「とりあえずは健診を終わらせてからにしましょう」

「はい」


 マスターBに言われるまま、A・ファーレンハイトは一通りの健診を受けた。



 その後に服装を整えた彼女は改めてマスターBに話をはじめる。


「お話というのはマスターTのことです」

「彼が何か?」

「あの人は何者なのですか? 彼を組織に誘ったのはマスターBとマスターCだとの噂ですが、それは本当でしょうか」


 ファーレンハイトの問いにマスターBはしばらく何から話したら良いものか迷っていたが、やがて決心したように真っすぐな瞳で彼女を見詰めた。


「見たのね? マスターTの技を」

「はい」


 穏やかな表情と深い色の瞳、柔らかい声は変わらないのに、言葉と態度だけで受ける印象が一気に危険な香りを秘めた妖しいものに変わる。マスターBもまた組織の一員、マスターの一人なのだと思わされる瞬間。

 緊張した面持ちで頷くファーレンハイトに、マスターBはかしこまった丁寧な調子で告げる。


「今すぐに全てを明かすことはできませんが、話せることは話しておきましょう。私とマスターCとマスターTは、お互いに面識こそなかったものの、同じ場所で働いていました。その縁で私たちはマスターTを組織に誘ったのです。それは彼の力が必要になる時が来ると判断してのこと」

「……お話が婉曲すぎて、よく分かりません」

「マスターTは必要があってこの組織に存在し、あなたも必要があって彼の下についているということです。疑問は多いでしょうが、耐えてください」


 彼女は確かな意図を持って、A・ファーレンハイトをマスターTの下に送った。

 それを教えてもらえただけでもファーレンハイトは少し安心できた。しかし、もう一つだけ彼女は聞いておかなければならないことがある。


「分かりました……。でも、マスターTは私を必要としているのでしょうか?」

「どうしたの? あなたらしくもない」


 下級エージェントのころは自信に満ちていた彼女だが、今はあまり役に立てていない自覚があった。活躍の場を与えられていないならまだしも、任務に同行させてもらっておきながら、ほとんど何もできていない。これまで何事も自分の腕で切り抜けてきたという自負のある彼女にとって、それは辛いことだった。


 ファーレンハイトは他のマスターの前でこのような弱音を吐くことはない。相手がマスターBだからこそ言うのだ。

 彼女にとって――いや、組織で育った全てのエージェントにとって、マスターBは母親のような存在。男女を問わず、仕事上のことだけでなくプライベートな悩みも打ち明けられる、唯一の人物なのである。


 マスターBは微笑を浮かべ、彼女に慈しみのまなざしを向けて諭した。


「あなたはマスター候補に選ばれて、気負いがあるようですね。下級エージェントのように、言われたことをやっているだけでは気がすまないんでしょう?」

「いえ、そんな……」

「違わないはずですよ。マスターTはあなたに何を命じましたか?」

「とくには何も……。私は何も期待されていないみたいで……」


 落ち込むファーレンハイトをマスターBは慰める。


「私たちはあなたの能力を十分に高く評価しています。だからこそ、あなたをマスター候補に選んだのです。マスターTの下で活躍できなかったとしても、それを理由に評価を下げることはありません。あなたたちマスター候補がマスターの下で働くのは、マスターとしてのふるまいを身につけてもらうためであって、そこで役に立てたからどうの、活躍したからどうのとは言いません」

「……はい」


 そう返事はしたものの、ファーレンハイトは腑に落ちない気持ちだった。マスターの下での行動が評価の対象外というのは、とても不自然な気がするのだ。

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