A・バール

 A・ファーレンハイトは午後5時になるとマスターTの部屋から出て、施設内の喫茶店に向かった。

 仕事上がりはここで一息つくのが、多くのエージェントたちの習慣になっている。ファーレンハイトもその例に漏れない。


 エージェントと言っても普通の人間、四六時中任務をこなしているわけではない。例えば戦闘員なら任務のない時は上司の指導の下で訓練をするなどしてすごし、終業時間になれば自由に行動して良いのだ。


 喫茶店に入った彼女は同年代の友人であり、同じくマスター候補でもあるA・バールを見かけて声をかけた。


「バール!」

「ファー!」


 バールは手を振って、ファーレンハイトを招く。二人はいっしょに円形のテーブルに着いた。

 A・バールもA・ファーレンハイトと同じく女性のエージェントである。

 彼女はラテン系で肌色はやや濃く、薄い茶髪を短くまとめている。身長はファーレンハイトより頭半分くらい低い。

 他人からクールと言われるファーレンハイトとは対照的に、バールは柔和な顔つきで人懐こい性格であり、服装もスーツの下半身はタイトスカート・ストッキング・ローヒールのパンプスと女性らしい。

 特別に戦闘能力が優れているわけではないが、彼女には一度見たものを忘れない完全記憶能力があった。

 ゆえに彼女は情報処理を担当するマスターRの下に配属された。


「上級エージェントのコート、なかなか似合ってるじゃん」

「バールこそ。ところで、そっちのマスターはどんな人だった?」

「うーん、これが結構厳しい人でさあ……。挨拶もそこそこにあれしろこれしろで大変だったよ。もうてんてこ舞い。まあ今までみたいなただの雑用よりはましだけどね」


 マスター候補になる前のバールは、非戦闘員のマスターの下で誰でもできるような仕事しかさせてもらえていなかった。そのころに比べれば、今は能力を発揮できる場所にいるのだ。


「ファーは?」

「えっ……ああ、こっちはそんなに忙しくはなかったかな……。まあ初日だし任務もないし」


 全く仕事がなくて暇を持てあましていたと、ファーレンハイトは言いにくかった。初日だから仕事がないというだけならまだしも、マスターTはまるでノープランで今後の予定も立てていなかった。

 下級エージェントのころは能力を買われて十分に活躍の場を与えられていたのに、このまま暇が続くようでは飼い殺しだ。

 そんな彼女の心配をよそにバールは悪意なく羨ましがる。


「良いなぁ」

「良くはないよ。一日中座ってるだけ。これじゃ腕が鈍っちゃう」

「うへえ、ご立派な心がけだことで」


 バールにちゃかされてファーレンハイトは眉をひそめた。それを見たバールは苦笑して謝る。


「へへ、ゴメン、ゴメン。それでマスターTって、どんな人?」

「どんな……って、まだよく分からない」

「仕事は?」

「殺しらしいけど」

「けど?」

「そうは見えなかった」

「ふーん?」


 のん気な会話を交わしながらも、ファーレンハイトは本気でこの先どうなるか不安だった。

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