彼と彼女の一年間

出会いと新生活

マスターT

 マスターTは謎の多い人物である。

 彼は組織のエージェントから成り上がった者ではなく、外部からスカウトされた者なのだが、人事担当のマスターFの手を介していない。

 彼はマスターBとマスターCの強い要望によって新たなマスターとなった、曰くつきの人物だった。


 ほとんどのマスターは上級エージェントを従えているが、マスターTは新参ということで、数人の下級エージェント以外の部下を持たず、その下級エージェントも常につき従っているわけではなかった。

 つまりA・ファーレンハイトがマスターTの初めてのまともな部下になるのである。

 そういう人物の下につくことにファーレンハイトも不安がなかったわけではないが、これも経験だと前向きに考えていた。

 組織内でもマスターTの噂はほとんど聞けない。

 容姿は短髪の東洋人風の男性で、いつも目元をミラーバイザーで覆っており、潔癖症なのか両手に黒い手袋をしている――と外見に関する情報があるだけで、内面に関する情報は全くない。

 どんな仕事をしているのかも、完全に伏せられている。



 A・ファーレンハイトはマスター候補に選ばれた翌日、マスターTにあいさつをしに行った。

 新しく支給された上級エージェントのコートに合わせて、下ろしたての黒いスーツに身を包み、気分はエージェントになったばかりの時のよう。無機質なコンクリートの廊下を胸を張って歩く。


 ――このように組織内では訓練や任務以外では戦闘服を着用せず、フォーマルスーツを着るのが普通だ。

 彼女のような戦闘任務をこなす女性エージェントは、こういう時もマニッシュなスタイルでいることが多い。髪を長く伸ばすようなこともなく、そうしたスタイルは私生活にも影響する。


 これまで全く接点のなかった人物との接触に、ファーレンハイトは少なからず緊張していた。

 マスターTの部屋の前で一度深呼吸をした彼女は、意を決してドアをノックする。


「失礼します」

「どうぞ」


 A・ファーレンハイトは許可を得て入室する。

 あまり物の置かれていない殺風景な部屋に、でんと置かれている大きなデスクが最初に目に入る。

 マスターTはデスクの前で椅子に座ったまま、背筋を伸ばし姿勢を正してファーレンハイトを迎えた。噂どおりに目元はバイザーで隠れている。

 灰色のスーツとベストを着ている彼は、小さく咳払いをして彼女に問う。


「君が新しいマスター候補?」

「はい、よろしくお願いします」


 堂々としたA・ファーレンハイトの態度に、マスターTは気圧されたように頷き、辺りを見回した。


「あー、すまないね、何の用意もしてなくて」


 彼は立ち上がると、部屋の隅に置かれていた折りたたみ式の机をデスクの横に移動させ、そこにキャスター付きの椅子を一脚据えた。


「とりあえず、これで。今のところは仕事がないから、適当に暇を潰しててくれ」


 ファーレンハイトは言われるままに、今用意されたばかりの安っぽい席に着く。

 その位置からはデスクで雑誌を読んでいるマスターTの横顔が見える。彼の表情は真剣そのもの。

 雑誌の題は「スーパーテクノロジー4月号」……最先端の科学技術を紹介する雑誌だ。「メカニック」、「ジオメトリー」、「アストロロジー」――デスクの上の書架には、他にも学術的な専門誌が並んでいる。

 バイザーをかけていて読みにくくないのかなと思いながら、ファーレンハイトは彼について以前から気になっていたことを尋ねた。


「マスターT、少しお尋ねしてもよろしいでしょうか?」

「はい、何でしょう!」

「普段はどんな任務をなさっているのですか?」

「一口では言いにくいんだけど、まあ、いわゆる狩りというか処分というか、そういうのを……」

「殺しですか」

「まあ、うん……まあ」


 マスターTは「殺し」という言葉に抵抗を見せた。彼からは危ない香りがしないと、A・ファーレンハイトは不審に思う。

 マスターであれエージェントであれ、殺しに関わる人間は特有の空気を持っており、ファーレンハイトにはそれが分かるのだ。

 態度もどこかおどおどしていて気弱そう。本当に殺しができるのかと彼女は怪しんだ。

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