ルーフバルコニーにて。

久保香織

彼らの場合

ガラス張りの窓から春の日差しが柔らかく差し込む。暑すぎず、寒すぎず、ちょうど眠たくなるような季節であり、空間だ。

時計の針が午後3時を示す。

「そろそろ淵上さんが呼ばれる時間っすねー前の人、名前なんでしたっけ?確か化粧の濃い香水臭かった気がする」

「水内くんてばズケズケ言い過ぎよ、確かにひどかったけれど」

私が続けていうと淵上さんが笑った。

「水内くんも堀崎さんもかなり言うねー、まぁ、あの化粧癖は完全に直さないと就職できないな、四年後。じゃあそろそろ僕は上に行っておくよ」

一番ひどい言葉を残して淵上さんはエレベーターに上がっていった。


少しの沈黙のあと、突然水内くんが私の左手首をつかんだ。

「いたい?」

低く優しい声。

「誇りよ」

私は答える。

「どうして?」

私が問う。水内くんの左手首をつかんで。

「忘れないために」

首を左右に揺らし水内くんが答えた。


それで、それだけで、充分だった。わたしたちは。

過去がどんなものかだったなんて誰にもわからない。知り得ることなどできない。

10も上の淵上さんがなぜ今さらこんな三流大学に入ってきたのかもわからない。


だけどこれだけは言える。


私達は誰も命を背負って、感情と戦って、今を生きてゆく。足枷を増やしながらも。


化粧の濃い香水の女性がエレベーターから出て来て外へ向かった。私は立ち上がり「行ってきまーす」と、エレベーターへ向かった。


水内くんは、そのまま、姿を消した。

淵上さんは、チューターと熱心に話したらしい。

私は、私は、もう、ルーフバルコニーには行かなくなった。

静かな春は終わりを告げた。

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ルーフバルコニーにて。 久保香織 @kaori-s

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