夜想曲
観月
夜想曲
だれもいない音楽室。
私はピアノの前に座る。
「さよならノクターン。また、恋におちたら弾いてあげる」
心の中で、そう話しかけてから、私は鍵盤に指をゆっくりと落とした。
ショパンのノクターン二番を弾くと、甘くて、優しくて、温かい日向の恋の薫りがする。
「この曲、ママとパパの思い出の曲なのよ。高校生の時、パパがリクエストしてくれてね、ママなんて、ピアノ下手くそだったのに、毎日何時間も練習して、パパの誕生日にプレゼントしたのよ」
なんて甘いエピソード。
こんな話を聞いて育ったからかもしれない。恋する気持ちが音楽になったなら、きっとこんな音色なんだと、いつの頃からか思っていた。
小さい頃からピアノは嫌いじゃなかった。
一生懸命練習していたら、中学生になってしばらくした頃、新しい先生を紹介された。
男の先生だった。ピアノの先生と言うと、女の人だと思っていたから、少し驚いた。
初めて会ったとき、眼鏡の奥の目が、ラクダに似てるな、と思った。
ラクダって、まつげがすごく長くて、優しい目をしている。ふれあい動物園で見たことがある。
あのラクダのまつげに勝てるのは、ママの本棚にある少女漫画の主人公しかいないんじゃないかと思ってたんだけど、どうやらそれは間違いだったらしい。
だって先生は、ラクダにも少女漫画の主人公にも負けないくらいの綺麗な目をしていたから。
「和音さん、発表会ではなにか弾きたい曲はありますか?」
って聞かれた時、私の中にはあの恋の音色が流れていた。
「ショパンの……ノクターン……」
「ショパンのノクターン?」
「はい。ショパンのノクターン。二番を弾きたいです」
まだ無理ですよって言われたらどうしようって、ドキドキしていた。
「ああ。有名なやつですね。まあ、ノクターンなら弾けるんじゃないかな?」
私は嬉しくて、一生懸命練習した。
すごく有名な曲だから、間違えないように頑張りましょうねって、先生に言われたから、間違えないように、丁寧にさらった。
慣れてくると、指は勝手に動いてくれる。
そうすると、私はメロディーを感じながら、いろいろなことを考え始める。いろいろなことを考えるのだけど、ショパンの二番目のノクターンを弾くときは、いつも先生のことが思い浮かんでいたのだった。
でも、恋の終わりは突然だった。
それは発表会当日のことだった。
演奏を終えた私に、女の人が声をかけてきた。
その人はその日の発表会の手伝いをしているようだった。短い髪で、スーツのよくに合う人で、その人からは思いがけないほど甘やかないい匂いがした。
「あなた、和音ちゃんね? すごく上手だった。ちゃんと歌って弾けてたわね」
って言われたけれど、私、ちっとも嬉しくなかった。
だって、先生とその女の人が舞台袖で密やかに言葉をかわしているのを見たとき、わかってしまったから。
恋人同士なんだって。
「あのスーツ着てお手伝いしていた女の方。先生の奥さまなんですって」
って、ママから聞かされたときは、やっぱりって思った。
それ以来、ノクターンの二番を弾くと、心の中が切なさでいっぱいになって、きゅっと心臓が小さく痛む。
だから、しばらくサヨナラしようと思う。
だって、二番のノクターンには、やっぱり優しい恋が似合うとおもうから。
「さよなら、ノクターン」
いつか素敵な彼氏が現われるまで。
きっと、ほんの少しの間だと思うわ。
<了>
夜想曲 観月 @miduki-hotaru
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