第3話職場相談

 3


「好美、好美!」


 赤ちゃんの声が聞こえなくなってすぐ、僕はベッドから飛び出して好美の肩を揺らした。声が途絶えたのは五時を過ぎた頃だ。そんな時間に起こすのは申し訳ないが、今はそれどころではない。緊急事態なのだ。


「どうしたのおさむくん……ちょ、あまり揺らさないでっ」


 声に怒気が含まれる。心の中で謝罪しつつ、機嫌を取るために好美の顔を覗くと、薄っすらとクマができていた。熟睡が特技と豪語していた好美にしては珍しい。


「あれ好美、クマができてる。眠れなかった?」

「……おさむくんの寝言がうるさくて全然眠れなかったの」

「えっ、僕が寝言を?」


 赤ちゃんの泣き声が聞こえてきてからはずっと起きていたが、その間は一言も声を発していない。目覚める前に呟いていたのだろうか。

 しかし、それなら僕が起きた後に寝れる時間があったはずだ。もしかして、好美もあの泣き声を聞いていたのでは。それを僕の寝言と勘違いをして……勘違い、するだろうか?


「今日は気を付けてよね」

「ああ、うん。努力するよ」

「ところでさ、まだ五時だよね? こんなに早く起こすとか、何かあったの?」

「それなんだけど、ほら、由香から貰ったガラガラあるよね。それが床に落ちてるんだよ」


 僕が指をさすと、貰い物にしては真新しいガラガラが所在なさげに転がっていた。腰ぐらいの高さの箪笥の上には、ガムテープでしっかり閉じられた段ボールがある。


「僕の記憶違いじゃなければ、ちゃんと段ボールに入れたよね?」

「えっ……あー実はおさむくんが寝た後、また赤ちゃんに音聞かせてたの。それで、しまい忘れちゃった。驚かせてゴメンね」

「あ、いや、それなら良いんだ。こっちこそ驚いたとはいえ、朝早くから起こしてごめん」

「ふふふ。おさむくんが慌ててる姿見れたから許してあげる」


 好美がガラガラを取り出したと知ってホッとする。あの泣き声を聞いていた後だったから、何か不可思議な現象が起きたのかと思った。どうやら僕の早とちりだったようだ。


「それより、昨日より顔色良いじゃない。もう大丈夫なの?」


 好美が心配そうに尋ねてくる。怒ったり心配したりで朝から忙しい。そんなに感情を振り回して疲れないのだろうか。


「たっぷり寝たから心配ないよ。今日からバリバリ働いていっぱい稼ぐから、好美は体を大事にしてね。今が大事なんだから」

「そうね、今はこの子のために無理しちゃいけないわ。でも、おさむくんだって無茶は駄目よ。昨日みたいに青い顔されちゃあ気が気でないわ」

「うっ……悪かったよ」


 好美にあの声のことを言うべきだろうか。余計な心配をかけさせるなという自分と、相談をして気持ちを落ち着かせておけという自分がいる。

 迷っているうちに、好美がお腹を庇いながらベッドから降り、床に落ちているガラガラを拾って段ボールの上に乗っける。


「ちょっと早いけど、朝ごはん作ろうか。今日は甘い卵焼きだったね。手伝ってくれる?」

「もちろんだよ」


 結局、朝は好美に相談できなかった。……ここで話していれば、好美はあんなに狼狽えずに済んだのだろうか。

 早起きはしても出勤時間は変わらない。少しゆっくりする時間ができただけだ。のんびり過ごした後はいつもと同じく、職場まで車を走らせて、作業着に着替える。職場のロッカーは今日も賑やかだ。


「よう! 今日はだいぶマシな顔じゃないか」


 こうしてロッカーで五郎さんに話しかけられるのも日常茶飯事だ。この人が体調不良で休んでいる日は見たことないが、健康を保つ秘訣は何だろうか。


「五郎さんは今日も元気ですね。風邪なんて引いたことないんじゃないですか?」

「いんやぁ、そんなことないさ。これでも昔は病弱でね。よく学校を休んでいたから進級できるか不安だったよ」


 五郎さんにそんな時代があったのは想像できない。彼が休んだら天変地異の前触れかと思ってしまうから、これからも元気でいてほしい。


「まあ、俺のことよりお前はどうなんだ? 変な音は聞こえなくなったか?」

「あー……えと、それはまだ……むしろ悪化しました」

「悪化! 嫁さんは何も聞いてないのか?」

「たぶん聞いてないですね。何かあったら僕に話すと思うし……」


 僕は五郎さんに音ではなく、赤ちゃんの泣き声だったということを話す。彼は興味ありげに頷きながら耳を傾け、時折質問をはさんでちゃんと理解しようとしてくれた。これだけでも僕の心はかなり救われる。


「音じゃなくて、赤ん坊の泣き声だってのか……やっぱ心霊現象なんかね?」


 五郎さんが口に人差し指と中指の爪を当てて考えはじめた。彼は幽霊の存在を信じていない。前にオカルト話になった時にそう言っていた。嘘を言っているつもりはないが、信じ切るのは難しいだろう。これが職場の同僚ではなく、まったくの赤の他人同士だったら信用できなかったと思う。


「信じたくありませんが、ここまでくると霊の仕業だと思うんです」

「幽霊の仕業として、何かヤバイことしなかったか? お地蔵さんを倒したとか、お守りを破いてしまったとか」

「そんな罰当たりなことはしてませんけど、そうですね……ヤバイことではないんですけど、妻の妹から珍しく赤ちゃん用のおもちゃを貰いました。ガラガラなんですけど、それを貰った日に音を聞いたんですよ」

「妹さんからの贈り物が珍しいのかい?」

「ええ、重度のケチなので」

「ほぉん。じゃあ、そのガラガラが元凶なんじゃないか? 一度調べてみたらどうだ」


 こんなことは考えたくないが、由香は幽霊が憑いていると知ってて送ってきたのだろうか。手紙ではまったく触れられていない。

 彼女の家で心霊現象は起きなかった? 仕事が終わったら電話してみよう。ガラガラが原因であれば何らかの異常があったはずだ。


「まあ、家に憑いてる可能性もあるから、あんまり酷いようなら神社の神主にでも相談すると良い」

「はい、そうします。聞いてくれてありがとうございます」

「なぁに、これぐらいならお安いごようさ」


 五郎さんは大きく伸びをして、ロッカールームの出入り口へと歩き出す。僕も作業靴を持って、段々小さくなっていく背中を追いかけた。

 仕事後、僕は車内で由香の家に電話をかけたが、五回、六回、七回……いくら待っても呼び出し音は止まらない。時間は八時半だ。今日は機械のトラブルで残業をしたから遅くなってしまった。この時間なら家にいるはずなのに……どこかに出かけているのか?

 工場の駐車場は少しぐらい長くいても問題ないが、あまり遅くなると好美が心配する。三回ぐらいかけ直しても出なかったので、僕は仕方なくエンジンをかけて車を発進させた。運転中、折返しの電話がかかってくると期待していたが、自宅の近くになってもまったく反応がなかった上に、寝る前になっても反応はなかった。


「好美、由香と圭一くんが出かけてる理由って何だと思う?」

「どうしたの急に」

「ガラガラのお礼をしようと思ってね」


 好美に悟られないように振る舞う。義妹を疑ってますと言ったら、離婚しますと言われてもおかしくない。なんだかんだで姉妹仲は良いのだ。

 ちなみに圭一けいいちくんというのは由香の旦那だ。非常に穏やかな好青年で、僕とは趣味の話で盛り上がることがある。


「うーん……電話に出ないなら、断れない飲み会にでも行ってるのかな? 二人共職場が同じだから揃って巻き込まれるのよね」

「そういえば同じ会社だっけ」

「部署も同じだったはずよ」


 由香と圭一くんは社内恋愛の末、めでたく結婚したのだ。今は子供を作る気はなく、貯蓄が十分になったら考えると言っていた。由香が許可するまで何年かかることやら。


「飲み会なら今日は帰ってこないかな」

「たぶんね。おさむくん、明日は休みでしょう? お昼にゆっくり電話すると良いよ。朝はお酒が残ってると思うからダメよ」


 指でバッテンを作って注意される。結婚前、好美はちゃんと飲み会だと言っていたのに、それを忘れて早朝から電話したことがある。その恨みがまだ残っているのだろう。


「あれはゴメンって。もう早くから電話しません」

「うむ、よろしい」


 好美は笑って枕に顔を埋める。僕は何かあると朝から騒ぎ立てる質なのかもしれない。これは反省しないと。

 ふわぁと欠伸が出る。そろそろ寝てしまいそうだ。病院でもらった睡眠薬が効いている証拠だ。

 耳栓はスポンジタイプを装着した。シリコンタイプでも駄目だったからスポンジタイプでも意味がないだろうと思ったが、やってみないとわからないと思い直したのだ。違和感はもちろんある。ずっと耳に入れていたら痛くなりそうだ。そんな圧迫感も感じる。

 そして、僕はある決心をした。今日も声が聞こえてきたら神社に行く。いつまでも心霊現象に悩まされる趣味はない。


「お休み、おさむくん」

「うん、お休みなさい」


 好美がベッドに身を預けたのを確認し、寝室の電気を消した。

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