第2話音の正体
2
「朝……」
カーテンの隙間から差す僅かな光が暖かい。
隣のベッドで眠る好美はいまだに寝息を立てている。時計を見ると六時半を過ぎたところだ。そろそろ起こさないと慌ただしい朝になってしまう。パンを咥えながら出勤するのは遠慮したい。僕は好美を起こすために重い体を奮い立たせた。
「好美、朝だぞ」
「……んー?」
好美の肩を掴んで優しく揺さぶる。幸せそうに寝ているのに起こすのは気が引けるが、ここで起こさなかったら絶対に怒られる。
何回か揺らしてみると、目をしょぼしょぼさせて、ぎゅっと僕の手を握ってきた。もう起きたから止めてくれという合図だ。
「おはよーおさむくん」
「ん。おはよーさん」
「あれ? おさむくん顔色悪いね。眠れなかった?」
「ああ、うん……ちょっと、ね」
好美に昨夜の出来事は話したくない。デリケートな時期に余計な心配をかけさせるのは体に良くないだろう。赤ちゃんはここまで順調に育っているが、ちょっとした油断が命取りだ。僕は寝付きが悪くて困っちゃうよ、と適当に誤魔化して大きく伸びをした。
「無理そうだったら仕事、休んでも良いからね」
「うん。でも大丈夫だよ。たまたま寝れなかっただけだから」
安心させるように微笑むが、好美は引っかかるところがあったのか、眉を顰めている。僕はこれ以上踏み込ませないために、カーテンを開けたり、タンスから服を出したりして、好美の追求から逃れようとする。その様子を眺めていた好美は今は何を言っても無駄だと判断したのか、朝ごはんを食べよう、と話題を切り替えた。
「やっぱり朝は卵焼きかなぁ」
「おさむくん、本当に卵焼きが好きだよね」
「卵焼きは何をかけても美味いからね。今日はケチャップな気分だよ」
「分かったわ。明日は醤油かしら?」
「うーん……ソースにしようかな」
早朝から明朝の卵焼きを想像する。ぐぅと小さな音を立てて空腹を訴えてくる。好美は耳ざとくその音を聞き、笑いながら朝食の準備に取りかかった。
好美が料理を作っている間は、テーブルを拭いたりご飯をよそったりする。体を動かしていると嫌なことを忘れられる。テーブルが綺麗になる頃には、夜中に聞いた音はすっかり頭の隅に追いやられていた。
「いただきます」
僕と好美は声を揃えて挨拶をした。いつもと変わらない味に舌鼓を打つ。好美が作る卵焼きは基本的にしょっぱい。僕が甘い方をリクエストすれば砂糖を入れてくれるが、何も言わなかったら醤油と塩を入れて焼く。最近はしょっぱいのが続いている。そろそろ甘い卵焼きが恋しくなってきた。
「好美、明日は甘いので頼む」
「そういえば最近は砂糖を入れてなかったわね。私も甘い卵焼きが食べたくなってきちゃった」
今日の食卓も非常に和やかだ。一年後にはここにもう一人加わるのだから、今から楽しみで仕方がない。
綺麗に食べた後は出勤の時間まで家事をする。といっても、皿洗いや洗濯機のスイッチを押すぐらいしか出来ないが。
結婚をする時、好美と相談して家事育児は分担してやると決めた。きっかけは昨今テレビやネットで話題になっている、家で何もしない夫の特集を見たからだ。僕の父親と似た男性が出てきたのは衝撃的だった。父親は家事の何もかもを母親に任せていた。僕もそれに甘えていたと思う。
特集を見た好美は「あり得ない!」と憤慨していた。僕も第三者の目線から「これはないな」と呟いてしまった。今までの生活を棚に上げたのである。これを見てからは、好美に自慢されるような夫になりたいと思った。
僕の座右の銘はありきたりだが『有言実行』だ。その日から僕は家事の仕方を学び、今ではある程度のことは簡単に出来るようになっていた。教えてくれた母親には感謝しかない。
「それじゃあ、行ってくるよ」
「お仕事頑張ってね。無理そうだったら早退するんだよー」
好美に見送られて家を出る。今日の朝食も美味しかったし、家事も時間内に終わった。体調が悪いことを除けば、とても良いスタートを切っている。
車のエンジンをかけ、僕が五年間働いている工場に向かう。なんとなく面接しに行ったらぜひ働いてくれと言われ、流されるがままに就職してしまったという経緯があるが、周りは良い人が多いし、給料も五年後には家が建てられるぐらいには多い。今となっては就職して本当に良かったと思っている。工場の規模が大きいせいで駐車には毎度苦労するし、廊下ではぶつからないように気を張る必要があるのが欠点だが、そんなものは些細な不満でしかない。
今日もロッカーは沢山の人で賑わっている。ここは正社員も派遣も関係ない。フラットな関係を築ける場所だ。
「あっ、五郎さんおはようございます」
「植田か、おはようさん。ん? どうした、顔色が悪いぞ」
僕の隣のロッカーは、
入社時期は同じなのに、僕よりも早く仕事を覚えて皆から頼られている。何事にも動じず、素早く若手のフォローに入るその姿は僕の憧れだ。テキパキと行動するその動きは初めてとは言い難く、実は製造業に従事していたのでは、という噂がある。確かめていないが、手際の良さを見るに本当のことだと思う。
五郎さんの作業場は僕と離れているが、顔を合わせればなにかと面倒を見てくれる良いお爺さんだ。
「ちょっと寝不足でして……」
「そうなのか。何年もこの仕事やってると昼も夜もシッチャカメッチャカになるからな。そりゃ寝れない日もある。あまり無理はするなよ」
「ええ、本当にやばくなってきたら早退します」
「それが良い。じゃあ俺は先に行ってるから、また後でな」
先に着替え終わった五郎さんが作業場へと向かう。僕はそれを見送ってから、ゆるゆると自分の作業着に腕を通した。
ゴウンゴウンと、機械的な音が響く作業場。工場内には耳栓が必要なほど大きい音が鳴る場所もある、と聞いたことがある。
そうだ、音だ。昨夜の変な音を思い出す。あれの正体は何だったのだろう。冷静に考えてみれば、家の中から断続的に音が聞こえるのはおかしい。朝まで鳴っていたなら、家の欠陥を疑うけど、そうではない。それに、寝室の方がハッキリと聞こえるのも不思議だ。
今日もまた聞こえるんじゃないか? 嫌な想像をして憂鬱になる。
「植田さん大丈夫っすか? いつもよりペースが遅いですよ」
気持ちが沈んでいる僕に話しかけてきたのは、最近ここに配属されてきた松本だ。設備の拡張で人手不足になるから、新しい作業員を募集して来たのだが、これがなかなか仕事の覚えが早くて助かっている。
それにしても、松本に心配されるぐらい不調なのかと不安になる。自分では大したことないと思っているが、他所から見たらかなり酷いのだろうか。
「部品の組み立ては一通り覚えたんで、休憩室で休むと良いっすよ。何かあったら呼びますから」
「うーん……じゃあ、そうさせてもらおうかな」
松本の言葉に甘えて休憩室に向かう。彼はちょっと言葉遣いがなっていないが、作業中に話しかけられることはあまりないから大丈夫だろう。
休憩室の扉を開けると、五郎さんがコーヒーのカップを持って寛いでいた。こんな時間にいるのは珍しい。
「おや、植田じゃないか。お前も休憩か?」
「五郎さんがこの時間に休憩は珍しいですね」
「今日は色んな所に救援に行っていたからな。午後からも忙しくなりそうだから、早めの休憩をとってたんだ。今日は休んでいる人が多いから大変だよ」
「季節的に花粉症ですかね?」
「花粉の量は例年通りってアナウンサーの姉ちゃんが言っていたから、各自ちゃんと対策してるはずなんだがなぁ。困ったもんだ。まあ、部品に鼻水やら唾やらが飛んでも困るし、休んでくれた方がありがたい」
花粉症に縁がない僕に彼らの気持ちはわからないが、鼻水がぐじゅぐじゅ出てくるのは嫌だなぁと思う。想像すると鼻がむずむずしてきた。
「対策をしてもなる時はなるし、今日は仕方がないですね。こんな日もありますよ」
「だな。まあ植田の場合、他人の心配より自分の心配をした方が良い。まだ本調子じゃないんだろ?」
「ええまあ……あの、ちょっと話聞いてもらって良いですか? 話したら楽になるかもしれないので……」
「まだ時間あるし、悩みがあるなら聞くぞ」
持つべきは優しい同僚だ。僕は五郎さんに昨夜の出来事を詳細に話した。彼は季節外れの怪談だなと笑うことなく、真剣に話を聞いてくれた。
「ふーむ……変な音か。その話が本当なら今日も聞こえるんじゃないか?」
「やっぱりそう思いますよね……どうしましょう……」
「とりあえず耳栓を買うべきだな。睡眠薬は医者に相談して処方してもらう方が安心だろう。まだ午前中だから早退して病院に行くか?」
「そうですね。作業も捗らないし、さっさと病院に行って今日はゆっくり休みます」
五郎さんにお礼を言って工場長を探す。広い工場だから見つからない時は本当に見つからない。十分くらいウロウロしてようやく見つけると、開口一番「調子悪いのか?」と聞かれた。今日はやたらと体調のことを心配されるが、よっぽど青い顔をしているのだろう。早退すると伝えると、滅多に部下の心配しない工場長が労ってくれた。
病院での診察は呆気ないほど早く終わり、副作用の少ない睡眠薬を処方された。最後に「これで寝られないようならまた来てください」と言われたので、とりあえず今日は様子を見ることにした。本当に眠れるのか疑問だが、いきなり強い薬を出されても困る。妥協も大切だ。
次はドラッグストアを目指す。目的は耳栓だが、一種類しかなかったらホームセンターにも行くつもりだ。
熟睡するためには部屋の環境はもちろん、自分が不快に思わないようにする必要がある。
耳栓が合わなくて、また一晩中あの音を聞いていたら気になって眠れなくなる。朝まで起きているのは精神的に辛いのだ。
病院から車を走らせて十分後、あまり馴染みのないドラッグストアに入って耳栓を探す。天井に吊るされている看板を頼りに店内を歩き、こぢんまりとしている耳栓コーナーを見つける。一種類しかないだろうと思っていたが、意外にも三タイプの耳栓が売られていた。これなら僕に合う耳栓が見つかるだろう。
まず目についたのはスポンジタイプ。これは圧迫感があるから合わない人はとことん合わないが、遮音性がとても高い。
次にフランジタイプ、遮音性を調整できるから異常な音にも気づけるが、これは睡眠用ではなく、大きい音が鳴る機械を使う時に使用するものだ。長時間つけるのには向いていないから、これは候補から外しておこう。
最後にシリコンタイプ。売られているのは粘土タイプで、唯一耳穴に入れないタイプだ。自分の耳の形に合わせられるから圧迫感がなく、遮音性も高いのが特徴だ。寝てる間に外れてしまう可能性があるが、買ったばかりのものなら大丈夫だろう。
優先順位を考えると、絶対に欲しいのは高い遮音性、次に装着した時の不快感だ。となると、一番良いのはスポンジタイプだが、長時間つけていると耳が痛くなって不快感も出てくる。
今日は寝不足だから多少違和感があっても眠れるが……迷うなぁ。スポンジとシリコン、二つとも買ってしまおうか。実際につける時に考えよう。僕は二種類の耳栓を手に取ってレジへと向かった。
「ただいまー」
「あれ? 早いね、お帰りなさーい」
耳栓を買って真っ直ぐ家に帰ると、好美は驚きつつも迎えてくれた。この様子だと留守にしている間、変な音は聞いていないようだ。やはり夜中に現れるのだろう。
「やっぱり体しんどそうだよ。色が青い……」
「ははっ、今日だけで何回言われたことか」
「とりあえず、おさむくんは手洗いうがいをしてね。あっ、睡眠薬貰ってきたんだ。じゃあ、それも飲んじゃってね」
好美に背中を押されてキッチンへ行く。本当は日が昇っている時に寝たくはないが、起きていたら「早く寝なさい!」と言われそうだ。
怒った好美は怖い。普段は怒りと無縁な優しい顔をしているのに、怒ると目を吊り上げて睨んでくるからギャップが凄まじい。
怒り顔の好美を思い出して身震いする。頭から追い払うように睡眠薬を一気に流し込んで寝室へ行く。すると、シーツや枕が綺麗に整えられていた。寝る準備をしている間に綺麗にしてくれたのだろう。
耳栓はシリコンタイプを選択した。耳栓を使うのは初めてだから、スポンジタイプだと違和感や痛みで目が覚めてしまうだろう、という判断からだ。夜中に起きてくれるなよと願い、僕はゆっくり目を閉じた。
――あァー! ゥあー……アぅぁアぁぁ!
うるさい、うるさい。
ああ、頭が痛い。
誰だ? 人がゆっくり寝ているのに耳元で叫ぶ奴は。
耳……耳といえば耳栓はどうした? こんなに大きな声が聞こえているんだ。耳から外れているかもしれない。
ぽんぽんと耳に触れて耳栓を探す。ちゃんと入っている。なんだ、ちゃんと入っているじゃないかと思ったのもつかの間、じゃあ今もなお聞こえてくるこの、『赤ちゃん』の泣き声は――
急に頭が覚醒する。赤ちゃんはまだいない。好美のお腹の中だ。
――ウぁアア! アぅああァうぅェあ! うェっ、ぇウ、アァぅえゥ!
声が大きくなる。まるで、赤ちゃんが乳を求めているかのような騒ぎだ。友人の赤ちゃんもこんな声で泣いていたのを覚えている。
手を施しようがない状況だ。何よりも、怖くて目が開けられない。耳元で声が聞こえるということは、赤ちゃんが僕の隣にいるのだろう。
脳内では血まみれの赤ちゃんが、ハイハイしながらこちらに向かってくる映像が流れている。ホラーゲームで何回も見た光景だ。
ボゥっと眺めていると、赤ちゃんの首が落ちて、中から長い髪を振り乱した女性が出てくる映像に切り替わる。頭の中で展開されるゲームはなかなか終わらない。
ああ、このゲームのタイトルはなんだっけ。赤い……赤い……思い出せない。
タイトルも時間も分からないまま、僕は声が聞こえなくなるまで、血走った目をした女性に追いかけられ続けた。
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