The iron maiden and fallen anthem
THE IRON MAIDEN AND FALLEN ANTEM
紅香たちがジルを破った、その日の夜。
その戦いがあった廃工場に、一つの影があった。
「……ここで、潰えている」
それは、鈴の音の鳴るような、少女の声。
その身を隠すかのように、今は月が陰り、辺りを闇で包み込んでいる。
「そうみてーだなァ。何百年生きたか知らねえが、あんだけ濃い殺意の固まりでも、消えるときゃー、儚いもんだ。まァ、そうそう無いくれー殺してまわったんだ。そろそろ腹いっぱいで満足だったろ。ごしゅーしょーさまァ」
その少女の声に呼応して、もう一人の声がする。だが、影は少女のものだけだ。言葉とは裏腹に軽いその声は、多分に侮蔑の念が含まれているように聞こえる。
「それよりも、それを殺ったのは、間違いなく例の奴なのか? お嬢の目的は、そっちだろぉよ」
その声に問われた少女が、それには答えず、ふと顔を上げる。
辺りを包んでいた闇が晴れていく。暗雲が空の支配権を月に譲り、その光が、廃工場の壊れた屋根から、さながらスポットライトのように、少女を照らし出している。
艶やかな、底の知れない、深い紫の長い髪。同じ色の、アメジストのような切れ長の瞳。その名工の最高傑作のように整った顔立ちは、無機的な、どこか非生物的な美しさを秘めている。一筋の光を見上げ、それに照らされる少女の姿は、その美しさと相まって幻想的ですらあった。
「……間違えるはずがない。間違えようがない。……一時として、忘れることさえできないあの炎の感覚……」
歌うように。あるいは自分に言い聞かせるように――――少女は言った。
「そうか。ほんじゃ、俺らの旅は、ここが終着駅っつーことだな。なかなかいい暇つぶしになったぜ。あーあ、しっかしそれじゃー、まーた、おもしろいことを探さなきゃじゃん。お嬢と組んでると、いろいろ楽しかったんだけどー。しゃあねえか」
少女とはまるで逆のどこまでも軽い声が、半分は独り言のように言う。
「……油断しないで。まだ、終わったわけじゃない」
諭すように少女が答える。
ふと、その瞳が眼光の鋭さを増した。
「へいへい。わぁってますよ、おじょーさま。契約はちゃーんと、責任持って最後まで遂行しやすよ。俺様ってばそういうところは結構、律儀なのよ?」
その声が聞こえているのかいないのか、少女はその瞳を伏せた。
「……もしもーし、聞いてっか?」
あきれたように声が少女に語りかけるが、少女が意に解する様子はない。
「あーあ、まーた自分の世界に入っちまった。そのシカト癖だきゃあ、最後まで慣れそうもねーぜ、マジで……」
少々さびしげにぶつくさ言う声も少女の耳には届いていないのか、その瞳は再び虚空を見つめている。
「須佐翔悟……そして、煉獄の主にして『ラプラスの魔』の眷属……。私は……許さない。許せない……この十年間……。私は、私は、そのためだけに……」
それまで表情を一切変えなかった少女が、はじめて見せた顔。歯を噛みしめ、虚空をにらむそれは、憎悪か、憤怒か、悔恨か……それとも、悲哀か。それらがまぜこぜになったその瞳の色は、その幻想を以って、ことさら妖艶に輝くのだった。
「お姉さま……」
一言つぶやき、少女は視線を落とす。
そして再び感情の無い表情で、廃工場の出入り口へと向かって歩き出した。
ジルとの戦いから数日後。
「はああああぁぁぁぁ……」
朝一番、朝練上がりの生徒や普通の時間で登校してくる生徒が教室に集まり始める時間。周囲のクラスメートが昨日のテレビや新しいゲームの話といった、定番の話題でざわめきだす頃。紅香は、自分のクラスである2年B組の教室で、盛大にため息をついていた。
「どうしたのさ、紅香。今日は、朝からため息ばっかりじゃないか」
机の横から、生前のように静馬が話しかける。
「…………」
だが、紅香は拗ねたような目でちらりと静馬を一瞥するだけで、返答しようとはしない。
「おーい、聞こえてる?」
聞こえている。返事はしないが。
「2年B組、火ノ宮紅香さーん。見えてますかー?」
今度は机の上に頬杖をついて、紅香の顔を間近でのぞきこむ。
「…………」
見えている。あくまでも返事はしないが。
「紅香さーん、紅香さーん、こ、う、か、さーん。なんで無視するのかなー?」
静馬が耳に顔を近づけ紅香の名前を連呼する。あくまでも、返事は……。
「あああああっ、うーるーさーいー!」
してしまった。
はっと気がつくが、すでに時遅し。
先ほどまでざわめいていた教室は、紅香の突然の怒号に静まり返った。教室中の視線を一身に、悪い意味で独占してしまった紅香は、顔を真っ赤に紅潮させると、即座に机に突っ伏した。
だが、逆に視覚を閉じてしまったせいで敏感になった聴覚が、色々と余計な声を拾ってしまう。
「おい……火ノ宮のやつ、またいきなり叫びだしたぜ?」
「あの娘、昨日も誰もいないところに向かって話しかけてたよ?」
「神代くんがなくなってから元気がなかったけど……大丈夫かな?」
またやってしまった。
「みんな紅香の話をしてるよ。大人気だね」
守護霊である静馬は、基本的に紅香本人か、翔悟や雪乃のように特殊な力を持つものにしか、声も聞こえなければ、姿も見えない。だが、静馬は基本的によく言えば天真爛漫、悪く言えば空気が読めない性格なので、先ほどのようによくちょっかいをかけてくるのだ。その上、本人にまるで悪気が無いのが、余計始末に負えない。
……それと、もう一人。
「紅香ぁっ!」
突然、突っ伏していた机を大声とともに叩かれ、紅香は跳ね起きた。
目の前にいたのは、そのもう一人の厄介者……風間あきらだった。
「悪いことは言わへん。あんた……ぜぇーったい、お祓い受けたほうがええ!」
どうやらこのスクープマニアのおせっかいは、そっち系の感があるらしく、静馬の気配や声、時には姿さえも時折、感じ取ってしまうようなのだ。今も、紅香に向かって話しながら、ちらちらとその横にいる静馬に視線を送っている。
「あ、風間さん。おはよー」
「ほら、今、誰かあたしのこと呼ばんかった!?」
相手に届くかどうかも分からないのに挨拶する静馬に、あわててきょろきょろするあきら。こいつら、お互いわかっててわざとやってるんじゃないか?
「はあ……確かに、お払い受ければ楽になるかもね……」
「な、そやろ? 悪いこといわへんから、やっといた方がええて! ほら、これだって、見てみいや!」
興奮気味に話すあきらが紅香の机にばんっと叩きつけたのは、一枚の写真だった。そこには雑踏の中を歩く、制服姿の紅香がいた。まったくもって、撮った覚えの無い写真である。第一、写真の中の自分は、カメラの方向とはまったく違う方向に歩き、視線もこちらには向いていない。
「ちょっ、あきら、いつの間に私の写真なんか撮ったの!?」
先ほどのことなど忘れて、またも大声をあげる紅香。
「そんなことはどうでもええ! ここ見てや、ここ!」
まったくもってどうでもよくないのだが、あきらの荒い鼻息に押されるようにして、彼女が指差す部分を見る。
「ほら、あんたの背後。よく見ると人の顔が写っとるやろ。それにあんたの腕! あるはずの腕が消えとるで! これはぜぇーったい、本物の心霊写真や!」
「ああ、ほんとだ。よく写ってるね」
静馬が写真をのぞきこみ、のほほんと言う。
「そうだね。ほんものだね。まちがいないね」
完全に棒読みで、紅香が言う。まさか、写ってる本人が横で本物だと認めているとは思うまい。
「ぬうう、その言い方、信じてないやろ」
歯ぎしりするあきらに、リアクションのとれない紅香。信じるもなにも……本人がそこにいるし、大体、自分の体だって邪神の力によって再生されたとかいう、心霊写真など鼻で笑えるくらいに信じがたい状況にあるのだ。今さら驚きも何も無い。
……そういえば、その邪神というのはどんなものなのだろう? あまりに色々なことがいっぺんに起きすぎたせいでうやむやになってしまっていたが。静馬の中にいるのだろうか。それとも……。
「んなら、とっときの話したるわっ!」
紅香の思考を分断するように、あきらがまたも鼻息を荒くする。
「わー、聞きたい聞きたい。何かな?」
相手に聞こえてもいないのに、律儀に静馬がぱちぱちと拍手をする。
「はっ! 今ラップ音が! ……まあええわ。それより……」
ごほん、と咳払いを一つしてから、あきらはじっと紅香を見つめた。
「これからする話は、誰にも話したらあかんで。まだ極秘中の極秘なんやから」
「はいはい、わかったよ。で、今度は何が出たわけ?」
爪の先ほども聞く気にならない紅香だったが、仕方なく話を合わせる。でないと、あきらの話は終わらない。
「これはな、あたしが昨日学校帰りに、見たんやけど……」
あきらが、ずいっと紅香の目の前に人差し指を立てて見せる。
「前崎駅の雑踏の中に……天使がいたんや」
「……はあぁぁ?」
なんだかもう説明するのもめんどくさいので、おもいっきり額にしわを寄せて、全力でいぶかしんでいる様子を表情に出して見せる。だが、そのくらいでは気にしないのか、あきらは意に介した様子も無い。
「ほら、駅前に大きな交差点あるやろ。あの……なんていうか、縦にも横にも斜めにも横断歩道があるとこ」
なんとなく、言いたいことはわかる。前崎市の中でもかなり人通りの多い場所で、縦、横、斜めと横断歩道が敷かれている十字路だ。地方都市である前崎市では、それほど大きい交差点は他にはない。
「昨日は用事ができてもうて、部活せんで帰ったから、ちょうど帰宅ラッシュにぶつかってもうたんやけどな。その人通りの多い交差点を渡ってる時に、なんか白いもんが見えてん。すれ違うような感じでな。今のなんやろ思うて振り返ったら――――」
紅香はぶすっとした顔で、静馬はなにやらわくわく顔で、あきらの話を聞いている。
「白い羽根を生やした、天使がおってん。それも、超イケメンの――――なんてぇか、ちょっとホスト風な? チャラいけどかっこいい感じの。思わずそのまま見つめてたら、向こうも気づいてなぁ、あたしに……あたしに、ウィンクしてくれてん!」
最後の方は、もはや紅香のことなど見えていない様子で、あきらはうっとりと自分の世界に入っている。霊が見えるのに、この娘は生きてる人間の様子は見えないのか。
「……私にお払いを勧める前に、あきらが行った方がいいよ。……病院に。まずは眼科行って、それが異常無しなら……脳の方だね」
「なんでやねん! あれは絶対、本物の天使やって! 運命かも知れへんで、ここからストーリーが始まる的な!」
紅香にツッコミを入れてから、またもうっとりモードに入るあきら。
これは、だめだ。紅香はあきらめて、再び机に突っ伏した。
「あ、そういえばな……」
まだしゃべる気のあきらにある意味、感心する。
「なんでも、今日、こんな時期やってのに転校生が――――」
と、あきらが言いかけたところで、教室のドアの開く音がした。
「ほら、席に着け。ホームルーム、始めるぞ」
それと同時に入ってきた担任の一声で、生徒たちが席に戻り始める。
あきらもそそくさと席に戻っていく。まだ話したりないと顔に書いてあったが。
「えー、今日は一つ、大事な連絡がある」
朝の挨拶を済ませると、担任の教師が改まった様子で言う。
「今日から、このクラスに新しく生徒が加わることになった。みんな、仲良くしてやってくれ」
途端に、教室がざわめきだす。
「みんな静かに。では如月くん、自己紹介をしてくれ」
教室の外に待たせていたのか、教師が廊下に向かって手招きをする。
一歩、その生徒が教室に足を踏み入れた途端に、注目を浴びたのは転校生ではなく、紅香のほうだった。
「ぶっ!」
盛大に噴き出し、思わず椅子から転げ落ちる。
転校生はそれを見ていたのか見ていなかったのか、コケていたので分からないが、チョークの音がすることからして、紅香のリアクションはスルーして自己紹介を始めたようだ。
「えーと、ただいまご紹介いただきました、如月雪乃です。みなさんよろしくお願いいたします」
……頭が猛烈に痛いのは、コケて頭を打ったせい……だけではないだろう。
紅香は起き上がるよりも先に、思わず頭を抱えていた。
その日の放課後。
紅香、静馬、そして雪乃の三人は、翔悟の事務所へとやってきていた。
『須佐翔悟探偵事務所』は、正直、一見、探偵事務所とはとても思えない外観をしている。それどころか、ふつうの事務所にも見えないし、住宅にも見えない。では何に見えるかといえば……。
「毎度、来るたびに思うんだけどさ……どう見ても、お化け屋敷だよね」
石で造られた、まるで遺跡のような門に、枯れた池、そしてツタの這い回る洋館。三階建てのその屋敷のてっぺんには、二本の尖塔。洋風のお化け屋敷の見本というものがあるのなら、きっとこんな感じだろう。
「そうなのです。翔様にも、手入れをするようにいつも言うのですけど、全然やってくれないのです。もっとかわいい外観にしたいのに」
「これをかわいくするのは……相当、難しいと思うけど」
多分無理、という言葉を飲み込みながら、紅香は玄関のドアを開ける。
「翔さーん、いるー?」
玄関の鍵が開いているのだからいることはいるのであろうが、正直、この屋敷の中を探すのはめんどくさい。なにしろこの建物は、玄関ホールから見るだけで左手に二部屋、右手に三部屋とさらに二階、三階にも部屋があるのだ。大声をあげて歩くほうが早い。
と、思ったのだが、翔悟が普段、事務所として使っている、一番近くの部屋から返事の代わりにいびきが返ってきた。
紅香はズンズンと効果音が聞こえてきそうな勢いでその部屋へと入っていく。
洋館のような部屋に、事務机やファイルキャビネットが立ち並ぶという、なんともアンバランスな部屋。案の定、その事務机の椅子にもたれかかって、その事務所の主が高いびきをかいていた。
紅香はやはりズンズンと翔悟の元まで歩いていき、そしてその耳元で叫んだ。
「翔さん! 起きろぉっ!」
「どわっ!」
直後、静馬と雪乃が思わず目をつぶるほど派手な音を立てて、盛大にコケた。
「てってててて……。紅香、なんてことすんだ」
よほどしたたかに打ちつけたらしく、翔悟が腰をさすりながら言う。
「我、復讐を完遂せり!」
してやったり、という顔で紅香がにんまりと笑う。
「なんだよ復讐って。俺が何をしたってんだ」
「私だって翔さんのせいで今朝コケたんだから、その仕返し」
「まったくもって話がわからん。だから何の話だ」
不機嫌そうにぼりぼりと頭を掻く翔悟に、紅香はびしっと雪乃を指差してみせる。
「なんで! 雪ちゃんがうちの学校の転校生になって入学して着てんのよ! おかげでびっくりして席から転げ落ちたんだから!」
「自業自得じゃねぇか……。大体、俺はお前のために雪乃を行かせたんだぞ?」
「どういうことよ」
今朝コケたことをよほど根に持っているのか、憮然とした表情で紅香は口を尖らせる。
「あのなあ、ジルを退けたとはいえ、お前がまだ狙われてるって状況に変わりはないんだぞ。むしろ、お前が奴らに力を示したことにもなるんだ」
その答えに、ふと紅香がまじめな顔になる。
「そうだよ、奴らが何者で、何のために邪神の復活を狙っているのかわからないけれど、ジルは奴らの中で、少なくとも力のある部類に入っていたと思う。それを倒したってことは、それ以上の力があるって、奴らに見せつけたことにもなる」
うなづきながら、静馬が言う。
「だから、雪乃を僕らの護衛役に送り込んだ、ってことだよね」
「静馬、分かってたんなら何で言わないのよ」
紅香が再び、口を尖らせる。
「だって学校で僕がしゃべっても聞いてくれないじゃないか」
「うぐっ……」
図星を突かれて、紅香が黙り込む。
「まあ、そういうわけだ。事が収まるまでは、なるべく行動をともにしてくれ」
「だったら、そうならそうと最初から言ってくれればいいのに……」
「紅香は、雪といっしょのクラスは嫌ですか?」
未だぶつぶつと文句を言う紅香に、雪乃が潤んだ瞳で言う。
「うっ……」
そんな風に言われると、弱い。
「……ごめんね。そうじゃないよ。ただ、ちょっと驚いたからさ」
あはは、と笑う紅香に、翔悟が思わず渋い顔を作る。
「おい、俺に対する時と大分、リアクションが違うぞ」
「そりゃあ、女の友情だよ。ねっ」
「なのです」
なぜか完全に結託した二人を見て、翔悟は静間に視線を移す。
「じゃあ、俺らは男の友情でも……」
「謹んで遠慮しとくよ」
しれっと言う静馬に、翔悟はついにそっぽを向いてしまった。
「いいのさ。俺のような探偵には、孤独がよく似合うのさ……」
ふう、とため息をついてハードボイルドを気取ってみる翔悟。
「……と、ところで雪ちゃん。学校はどうだった?」
「楽しかったですよ。髪の色とかがこれですから、ものすごい質問攻めに合いましたけど」
「主に男どもからね」
にこりと笑う雪乃に、紅香が肩をすくめる。
「……そうか」
ふと優しく微笑む翔悟に、紅香は少し驚き、そして笑った。なんだかんだで、やはり雪乃をいきなり学校に行かせるのは心配だったのだろう。二人の笑顔に、どこか陰陽師と式神という主従関係以上の絆を見たような気がした。
「そういえば、変な話を聞いたのですよ」
「変な話?」
怪訝な顔で聞き返す紅香に、雪乃はうなずく。
「あきらさんって人が、『天使をみたんやー』って……」
「雪ちゃんにも言ってたんだ、あいつ……」
「……天使?」
呆れ顔の紅香だったが、翔悟の瞳がふと、剣呑な色を帯びたように感じた。
「どうかしたの?」
「いや……まさかな。なんでもない」
そう言って被りを振る翔悟の瞳には、どこか不安定な光が宿っていた。
その夜。須佐翔悟は街を歩いていた。
時刻はすでに、午前零時を回ろうとしている。だが、この辺りでは最大の都市である前崎の街は、まだ眠らない。いや、むしろ、昼間の明るさから隠れていたものや、目を背けていたものが、徐々にその目を覚ましだす時間だ。それが、良しきもの、悪しきもの問わず。
帽子を目深にかぶり、翔悟はいまだ喧騒の収まらない繁華街の裏道を歩いていた。建物を隔てた、一本隣の通りでは、いまだ喧騒が続いている。
「……あの中に、いるかもしれないってこと、か」
しばらく、その騒がしい通りを見つめる。が、すぐにきびすを返す。
やがて、翔悟の足は裏道沿いにある、一軒のバーへと向かった。バーとは言っても、繁華街からは外れた、雑居ビルの二階にある、こじんまりしたものだった。
迷いもなく、翔悟はその入り口へと続く階段を上っていく。さほど上らないうちに、件のバーの入り口が姿を見せた。
「いらっしゃい。おや、須佐さんでしたか。お久しぶりですね」
入り口のドアをくぐると、カウンターでカップを磨いていたバーテンダーが、翔悟を見た。
丸い縁取りの、眼鏡をかけた青年。柔和そうな瞳と、落ち着いた佇まいがカウンターの向こうに立つ姿に妙に板についている。
「よく言うぜ。少し前からあたりつけてたんだろ? 咲見。近づいてきてるのは俺だって」
笑いながらカウンターに着く翔悟に、バーテンの青年、咲見はくすくすと笑う。
「まあ、一応は。でも、この職業をしていると、どうしても相手に合わせて挨拶をしてしまうんですよ。来ることがわかっていても、です」
そう言いながら、咲見はウィスキーのロックを翔悟に差し出す。
「ジャックダニエルの、ロックです」
「ホントに、わかってらっしゃる……」
翔悟は一口、ウィスキーを飲んでから、タバコに火をつける。やがて紫煙を噴き出すと、ふと咲見に視線を送った。
「……ってことは、俺が何をしにきたのかも、大体わかってるよな?」
「まあ、一応は」
先ほどと同じ一言を放った咲見が、微笑んで見せる。その眼鏡の奥にある切れ長の瞳が、静かに輝いた。
「……今回は、ちっとばかりやばい橋かもな。ものがものだけに、目立ちすぎだ」
「そうですね。教会の使いも、もう来ています」
咲見の言葉に、翔悟は一口、ウィスキーをあおった。
「……あの子か?」
「ええ」
翔悟の短い問いに、咲見が同じく短く答えた。
「……そうか」
それだけ答え、翔悟はタバコを灰皿に押し付ける。
「いろいろと、決着つけなきゃ、か」
一言つぶやくと、翔悟は残りのウィスキーを一気にあおった。
翌日、日曜日の朝。
「それじゃあ、行ってきまーす」
「行ってくるのです」
紅香と雪乃は、連れ立って翔悟の事務所を出た。ここの所、まだ出張から親が戻らないのをいいことに、紅香は翔悟の事務所の一室を借りて寝泊りしている。もちろん、邪神の力を狙う連中から身を守るためだ。
「おう、いってらっしゃい。あんま遅くならないようにな」
まだ9時前だというのに、すでになにやら事務仕事を始めつつ、翔悟が答えた。
「はいはい、わかってるって」
奥の事務所に大声で返し、紅香は玄関の扉を閉める。
今日は翔悟が溜まった事務仕事を片付けるらしいので、紅香と雪乃で食料の買出しに出ることにしたのである。
「探偵ってのも大変だね。あんなに書類を片付けなきゃなんだ。なんかもっとハデなアクションばっかりやってるのかと思ってたよ」
「報告やらなんやら、細々した書類がいろいろありますからね。テレビみたいにかっこいいことばっかりやってるわけじゃないのです」
他愛ない話をしながら、近くのバス停へ向かう。
「紅香には向いてないね。声が大きいから尾行とかにも向かないし、宿題は忘れてくるのが当たり前だし」
もちろん、紅香の後ろには静馬の姿がある。
「うるっさいな!」
紅香は握りこぶしで静馬の背中をたたく素振りを見せるが、もちろん当たるはずもない。それを見て、静馬は笑いながらふわりと頭上へ舞い上がった。
「あはは、当たらない当たらない」
「ムカーッ! 下りてこーい!」
腕を振り回しながら地団太を踏む紅香に、雪乃が苦笑する。
「紅香……まわりから見たら、変な人ですよ」
「う……またついやってしまった」
「ふふふふ……狙い通り」
などとやっている間に、三人はバス停へと到着する。交通の主な手段が車である前崎市では、バス停も、その本数も多い。
「あ、ちょうど来ましたよ」
雪乃がさした方向を見ると、確かにバスがやってきたところだった。
バス停に止まったバスに、三人が乗り込む。日曜日の朝ということもあって、席はガラガラだった。
「さて、今日はどこで買い物しよっか?」
「今日は駅前のスーパーで豚さんが安いのです。とんかつにしましょう」
「いいねいいねぇ」
バスの前の方に陣取ってそんなのんきな会話をする紅香を、ふと違和感が襲った。
バスの、一番後ろの席。誰もいないように思っていたそこに、誰かがいた。
――――あそこ、人がいたっけ?
紅香が疑問を持った、刹那。その人物がゆっくりと立ち上がった。
一見、早朝にはもっとも似つかわしくない様相の、長身の男。真っ黒な、大きく胸元のはだけたジャケット。髪は赤っぽい茶髪でやや長く、それに隠れた顔は窺えない。ただ、その細い顔の口元だけは見えている。
――――笑っていた。
「あーあ、見っかっちゃった」
刹那、男の姿が揺らめいた。
「……え?」
次の瞬間。それは、目の前にいた。
「やあ、どーも、邪神憑きのお嬢ちゃん」
「なっ!?」
二人には見えていなかったのか、静馬と雪乃が、同時に男を見て驚愕する。
「おいおいおい、人の顔を見て驚くなんて、ショックだなー。それとも、驚くほどのイケメンってことかな?」
雪乃と紅香を交互に見た後、男はどこか含みを持った視線を静馬に送る。
「……こいつ、僕が見えてる」
静馬が紅香の耳もとで囁く。
「……紅香、バスが止まったら、ダッシュで降りて、逃げてください」
同じく、雪乃が小さな声で紅香に言った。
「こいつ、人間じゃないです……!」
言い終えた瞬間、雪乃がすばやく動いて、バスの非常ボタンを叩いた。けたたましく非常ベルが鳴り、急ブレーキのGがその場の全員を襲う。
「おおおっ!?」
男が意表を突かれた様子でつんのめる。
紅香と雪乃は、その隙にバスの料金箱に千円札を押し込みながら、外に飛び出した。
「おつりはいらないのです!」
バスから飛び出しながら、雪乃が叫んだ。
「ちょっと、なに!? あいつ、敵なの!?」
「恐らく……敵です! くっ、まさか白昼堂々と襲ってくるなんて!」
駆けながら怒鳴る紅香に、雪乃が怒鳴り返す。
バスが停車したのは、ちょうど駅前へ差し掛かったところだった。行き交う雑踏の中へと、三人は紛れ込むように逃げ込む。
刹那――――。空で爆音が巻き起こった。
「ちょっ、今度はなんなの!」
紅香が後ろを振り返ると、緊急停止したバスの出入り口の側に、あの男が立っていた。男は右腕を空へ掲げ、もう片方の腕を懐へと入れている。
あいつが何かしたのか。紅香は直感した。
「雪ちゃん、このままだと関係ない人が巻き込まれちゃう!」
「でも、どうすればいいのですか!」
「こうする……のよっ!」
紅香は服の影に隠しながら、右手だけを異形へと変化させる。そしてその右手でマンホールの蓋をつかんだ。
「うりゃああああああっ!」
気合の一声とともに、紅香は力任せにマンホールの蓋を……ひっぺがした。
「で、こっちよ」
そしてその異形の右手で、マンホールの中を指して見せる。
「紅香……段々、人間離れして行くよね」
「なんか言った?」
「なんでもございません」
マンホールの中へと踊りこみながら、紅香は静馬をねめつけるが、そのリアクションはにべも無い。
三人は地上の喧騒をよそに、マンホールのはしごを降りていく。
「ふう……」
やがて、下水道へとたどり着くと、紅香は一つ、息をついた。
「……それじゃ、とにかくここから離れましょう。多分、ここに逃げ込んだのはすぐにばれるのです」
「……いや。私、ここに残る」
しかし紅香は、駆け出した雪乃にかぶりを振った。
「……何言ってるのですか? そんなことしたら追いつかれるですよ」
「雪乃は翔悟さんに知らせてきて。ここは大丈夫だから」
「静馬さんまでなにを……。危険なのです!」
しかし雪乃の潤んだ叫びに、静馬までも微笑んで見せる。
「こうなったら、聞かないから」
そう言って、静馬は紅香を指して見せる。その表情には、静かながら、怒りが浮かんでいた。
「こんな街の中で……人を巻き込むの上等で仕掛けてくるなんて、許さない! でも……そんなやつ相手に逃げる自分は、もっと許せない!」
その怒声を耳にして、雪乃は再びため息をついた。
「わかりました……。その代わり、怪我なんかしたら……私のほうこそ、許さないのです!」
「……了解っ!」
紅香に鋭く視線を送る雪乃に、紅香はふと微笑んで見せる。その笑顔を見、一つうなづいて見せてから、雪乃は走り去った。
「さて、これで怪我もできないね」
「そこは守護霊さんの腕の見せ所、でしょ」
言いながら、紅香は両腕を異形へと化す。
やがて、それを待っていたかのように、はしごを下ってくる音が聞こえ出した。
「さあ、来るよ」
そして姿を現したのは、一組の男女だった。
「ありゃ、お嬢。向こうさん、待っててくださったようだぜ?」
一人は先ほどバスの中に現れた長身の男。そして、もう一人は――――。
「……………」
意外なことに、紅香とほぼ同い年くらいの少女だった。深い紫の髪と瞳がどこか神秘的な空気を纏っている。
「……静馬、行くわよ!」
紅香のセリフに静馬は一つうなづくと、紅香の腕に吸い込まれるように消える。
「……我が守護天使アンセムに命ず。汝、我が武装となりて彼の者を討て」
刹那、少女の側に立っていた男の姿が消え、少女の手に突如として剣が現れる。
「なによあれ、どういうこと?」
困惑する紅香に、静馬が答える。
「どうやら向こうも、僕たちと同じタイプみたいだね。守護者が守護対象の武器になるみたいだ」
「でも、さっき天使って……」
言いかけた紅香だったが、その声を駆ける音がさえぎる。
少女が駆け、すでに紅香の目の前まで踏み込んできていた。
「はやっ……!」
少女が袈裟懸けに切り下ろした斬撃を、紅香は異形化した両手でなんとか受け止める。だが少女は止められたと見るや、即座に剣を引いた。体重をかけ、斬撃を止めていた紅香が前へとつんのめる形で体勢を崩す。
すかさず少女は引いた姿勢からくるりと身を翻し、その勢いを乗せて紅香の足元を払った。
「くっ!」
崩れた体勢でかわすことのできない紅香は、とっさに受身を取って地を転がる。その一瞬前まで頭があった場所を、少女の剣が貫く。
「……こいつ、強い」
受身を取った反動で立ち上がりながら、紅香は改めて相手を見る。
相手は、自分と同じくらいの歳の少女――――だが、武器を手に攻めてくるそこには、どこか少女らしからぬ、深い怨嗟のようなものを感じる。
「あんた……何者なの」
その私怨めいた雰囲気に、紅香は思わず少女に尋ねていた。
「……如月水葉。教会より、あなたの中の邪神を討伐するために来た」
水葉と名乗ったその少女の言葉には、感情の抑揚というものがない。だがその鋭い視線に込められているのは、紛れもない敵意。
「教会? 邪神を復活させようって奴らじゃないの?」
紅香は困惑した。こないだ戦ったジルもそうだったが、自分と静馬を狙っているのは邪神を復活させるのが目的だったはずだ。
「あなた……何も知らないのね。いいわ、教えてあげる」
水葉は、静かに剣を下ろす。
「あなたの中にいる邪神は、本来、煉獄――――地上と地獄のあいだにある場所に存在し、死んだ罪人に罰を与える役割を持つもの。邪なる紅の竜、パーガトリィ」
「紅の竜……パーガトリィ……」
紅香は、水葉の言葉を小さく反芻する。そういえば、ジルにとどめを刺した時に自分の手から放たれたのは、炎だった。今から思えば、あれは罪人を焼く、煉獄の炎だったのだ。
「それは西洋の教会からしてみれば、聖書のドラゴンのように、悪魔とされるもの。地上に出てきてはならない。何があっても、決して」
くっ、と水葉の剣を持つ手に力が入る。その瞳に、射抜くような鋭さが再び宿る。
「だから、私ごと殺して煉獄に送り返そうっていうの? 神様がやることにしては、ずいぶん乱暴なんじゃない?」
紅香は静かに両手を構えなおす。
「それにさっき、地上で関係ない人も巻き込むところだったじゃない! なに考えてんのよ! それも神様のご命令だったらかまわないわけ?」
紅香のその言葉に、水葉の視線の鋭さがなおのこと増していく。
「――――私は、その邪竜を滅するためだけに、この十年を生きてきた。いまさら、あなたなどにわかってもらおうなどとは思わないッ!」
刹那、水葉が剣を振り上げた。
「我が武装、アンセムッ! 今こそその力を以って邪悪なる我が敵を討てッ!」
「任せな、お嬢ッ!」
その剣からアンセムと呼ばれた男の声が響き、剣がまばゆい光を纏う。
「なに!?」
「紅香、任せて!」
静馬が紅香を庇うように前へ出る。
「行けッ!」
水葉が鋭く剣を振り下ろすと、剣の纏っていた光が空をほとばしる。
「この……はあっ!」
静馬が光を振り払うようにしてかき消す。
だが、その刹那――――。
「っ、紅香!」
静馬が驚愕の声とともに振り返った。その先には、静馬の脇をすり抜けた水葉の姿がある。光での飛び道具を盾にして距離を詰めたのか。
「くっ、このぉ!」
大きく振りかぶって振り下ろされた斬撃を、紅香は両手で受け止める。が、止めたと思った瞬間、片方の足をすばやく払われた。同時に、水葉が剣を引く。紅香は完全に体勢を崩して、またもつんのめる。
「散りなさい」
背後から水葉の声と空を切る音が聞こえた。紅香はあえて体勢を立て直そうとはせず、むしろ勢いをつけて倒れかけた方向へと加速する。頭上、ギリギリのところを剣がかすめるのを感じながら、紅香はまたも受身の要領で立ち上がった。
だが先ほど違ったのは、紅香は即座に反撃に転じたことだった。
「このっ……食らえっ!」
異形の豪腕を大きく振りかぶって、紅香は水葉に殴りかかる。
「アンセムッ!」
「あいよ!」
紅香の渾身の右ストレートを、具現化したアンセムが両手で止める。
「くうっ……」
紅香は追撃をあきらめ、一旦距離を置いて静馬と合流する。
「おお、いってェ……。折れちまったかと思ったぜェ。お嬢といい、この子といい、最近の女の子はこえぇーなァ」
アンセムという男がぶらぶらと両手を振って見せる。言葉とは裏腹に、その口調にはまだどこか余裕が感じられる。
「そんなに痛かったのなら……次で終わらせてあげる!」
「……望むところ」
紅香が両腕に力を込め、水葉が剣を構えなおしたその時――――。
「……そこまでだ」
地上へ続くはしごから、二人の間に飛び込んできた影があった。
「翔さん!」
「……須佐、翔悟……!」
翔悟は紅香、水葉、双方の目の前に手を差し出す形で仁王立ちしている。
「お前ら、真昼間から目立ちすぎだ。人の目に付くべからずという、俺たちの掟を忘れたか?」
ゆっくりと拳を下ろす紅香に対し、水葉は紅香に向けたのと同じ鋭い視線を――――あるいはそれ以上に鋭い視線を注いでいる。
「あなたが……そのようなことを言う資格があるのかッ! 姉さまを守ることができなかった、あなたが!」
「資格……か」
翔悟はゆっくりと水葉に向き直る。
「……ないだろうな。だが……俺にも覚悟がある。こうしてでも守ると決めた以上、その決意を貫くより他にない」
翔悟のその言葉に、水葉がふと背を向けた。
「……この人数で戦うのは、確かに目立ちすぎる。この勝負、預けるわ……」
言うが早いか、水葉は下水道の暗闇の向こうに消えた。
「翔さん……あいつは一体誰? 何者なの?」
紅香の問いに、翔悟は一つため息をつく。
「とりあえず、いったん事務所に戻ろう。そこで説明する」
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