Hallowed be thy name

 HALLOWED BE THY NAME



 頬に吹き付ける油くさい風で、紅香は目を覚ました。あちこち体が痛い。ひどい打ち身のようだ。頬を拭うと、砂塵が吹きつける中にいたのか、ざりざりとした感触が爪を立てた。

「……ここは?」

 周囲を見渡す。コンクリートむき出しの壁。鉄で作られた丈夫そうな柱。動かない機械。そこは、ジルの領域に連れてこられる前に向かっていた、廃工場だった。

「おお、目が覚めたか。なんか最近、お前の寝起きに立ち会うパターンが多いな」

「帰ってきたんだね。よかったよかった」

 声のした方に目をやると、そこには鉄柱を背にタバコを吸う翔悟と、ふわふわと宙を舞いながら微笑む静馬の姿があった。

「静馬……翔さん……」

「たいしたもんだ、あのジルを二人だけで倒すとはな。怪我はないか?」

「……あちこち、体が痛い。うわ、青あざができてる。精神世界とかそういうんじゃなかったの? あそこ」

 肩や腕を見て驚く紅香に、翔悟がふと目を逸らす。

「そうか、よっぽどの激闘だったんだな。現実世界の体に影響を及ぼすなんてな~」

「……翔様」

 その翔悟の向こうから、雪乃が姿を現した。その目はこれ以上ないほどのじっとりとした非難の色を帯びている。

「紅香のその痣は、翔様のあの運転のせいでしょう! 後ろで紅香がどっかんどっかんぶつかってる音を聞いたのです!」

「な、なんのことだか俺にはさっぱりだぜ」

「翔悟ぉ~っ!」

 突然荒いしゃべり方になった雪乃が、ぽん、と猫の姿になる。途端に『フーッ!』と怒りの声をあげて翔悟に飛び掛った。

「いて、いててててて! かむな、ひっかくな、食いつくな! しょうがないだろ、あの場合!」

「ぷっ……。あははは、あはははははは!」

 その様子に、紅香と静馬が思わず笑い出す。

「あははは……。ん……?」

 腹をかかえて笑っていた紅香の目に、ふと、あるものが目に入った。

 紅香はその『あるもの』に駆け寄り、手に取る。それは、根元から真っ二つに折れた、さび付いたナイフだった。

「……それって……」

 いつの間にか、紅香の肩越しにそれを見ていた静馬が言う。

「……どうした?」

 雪乃に噛み付かれていた翔悟も、その雪乃を肩に乗せてやってくる。

「翔さん……これが、ジルの本体だったんだよ。今はさびちゃってるけど……」

 紅香が、翔悟にナイフを渡す。

「……そうか、人間じゃなさそうだと思ってたが……付喪神だったのか」

「つくもがみ?」

 おうむ返しに言う紅香に、翔悟はうなずく。

「ああ。有り体に言えば妖怪の一種だ。『器物は百年を経て魂を得る』って言ってな。人の念にさらされたり、逆に打ち捨てられた物は百年たつと魂を持つと言われている。それが付喪神だ」

「そう。あいつにつかまれた時に気づいた。魂の流れがナイフを中心に巡ってたからね」

 静馬がナイフを覗き込んで言う。

「……こいつの記憶を探ってみるか。これだけ朽ちてると、ノイズがひどいかもしれないが……」

「記憶を探る?」

「まあ、見てな」

 訝しげに聞く紅香に、翔悟が返す。彼がその両手でナイフを包み込むように持つ。静かな光がその手から放たれ、それは徐々に、軟体のような不定形から人のような形へと変わっていく。

「なに? これ……」

「このナイフが持つ記憶さ。恐らく、最初に持っていた者の記憶に行き着くはずだ」

「それも、陰陽師の力?」

「……まあ、な。それより、見てみな」

 静馬の問いを曖昧に濁した翔悟は、目の前に展開されていくそれの記憶を指した。

 それは、三人の人間だった。一人は外国人の若い男性。一人は同じく外国人の女性。残るもう一人は――――。

「ジル! ……いや、違う? すごく似てるけど……」

 ひどく、ジルに似た女性だった。だが、あの派手な緑色の髪ではないし、目つきも険しくない。ジルから毒気が抜けたらこうなるのではないかと思わせる容姿の女性だった。

 三人は口論しているようだった。音までは聞こえてこないので何を言っているのかは分からないが、女性が男性に寄り添い、ジルに似た女性に何かを言っているようだった。その表情は、明らかに侮蔑に満ちていた。

 ジルに似た女性が男性に向かって何かを叫ぶ。そこに浮かぶ悲しみの表情は、懇願しているようにも見える。

 男性は疎ましげにジルに似た女性を一瞥すると、寄り添う女性と深くキスをする。

 ジル似の女性は、それを見て、うつむく。嗚咽さえ届かないものの、その顔から涙が零れ落ちるのを、紅香は確かに見た。

 そして女性が顔を上げたその時――――寄り添う男女を暗い瞳で睨むその目は、まさに殺人鬼、ジル・エンジェルリッパーのそれだった。

 彼女の目から流れる涙が止まった時。その女性は懐からあのナイフを取り出し、男女に向かって駆け出し――――。そこで、その記憶の映像はノイズを伴って、消えた。

 そのナイフの記憶が消えてしばらく、紅香たちはそれぞれが言葉もなく、立ち尽くしていた。

「……最初は、一件の殺しだったんだな。その動機は愛憎の果て――――か。直接の原因は推して知るべし、だが」

 翔悟が重い口を開く。

「それが何をまかり間違ったか、殺し続けてしまった。逃走のためか、当人を殺しても収まらない殺意のためか。……まあ、後者だろうな。その殺意が付喪神として、ナイフに憑いていたんだ」

 ふう、と翔悟はタバコの煙を吐き出すと、その火を消した。

「あの人……どれほどの月日をさまよっていたんだろう。もう人間だった頃の記憶はなかったのかな?」

 うつむいて、紅香が言う。

「……恐らく、なかっただろうね。それがあの人にとって良かったのか、悪かったのか――――僕たちには、わからないけれど」

 囁くように、静馬が答えた。

「ただ――――もしも救いがあるとすれば――――あの人はもう、殺さなくて済む。その内にあっただろう殺意に、駆り立てられなくて済むんだ。そんな風に、思うしかない」

「……そうだね」

 うつむいたまま、紅香が言う。そして、静かに立ち上がった。振り返って、翔悟を見、雪乃を見、そして静馬を見て、微笑んだ。

「さあ、帰ろう。もう、私たちがここにいる理由もないんだから」

「ああ、そうだな」

「翔さん、帰りは安全運転してよね。ほんっとあざだらけで痛いんだから」

 そう言って紅香がいたずらっぽく笑う。

「わかってるよ。そもそもあんな事態だから飛ばしただけだっての。普段は安全運転してるって」

 翔悟が帽子を被りなおしながら言うと、それにまるで異を唱えるかのように、雪乃が鳴いた。

「『どうだか』って言ってるよ」

「ぷっ、あははははは……」

 静馬の言葉に紅香が笑い、翔悟は憮然とした顔で舌を出す。

 それぞれが普段の自分に戻りながら、三人と一匹は外へと向かって歩き出した。


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