譲れないものは

風城国子智

譲れないものは

〈……今夜、こそ〉

 背に注がれる部下達の視線と、心の奥底からの決意に頷いてから、奥の部屋に通じる扉を押し開ける。

 一歩、歩を進めた部屋の更に奥、薄衣の帳の向こうに見える嫋やかな影を確かめると、レジェスは重い扉を後ろ手で閉めた。


 帳に映る動きのない影から何とか目を逸らし、蝋燭の僅かな光を頼りながら狼の毛皮で作ったマントを肩から外す。次に外すのは、重い剣を支える剣帯。豪奢な飾りの付いたベルトを外した時の、じゃらりと鳴った派手な音に、レジェスは今更のように驚いた。

 殊更ゆっくりと、丁寧に織られた豪奢な服を脱ぐ。帳の向こうの影は、動く気配すらない。今日は、泣いてはいないようだ。服を一枚脱ぐ度に横目で帳を確かめる。今夜こそは、……あの人を抱かなくては。


 帳の向こうにいるのは、先の戦で亡くなってしまったレジェスの兄の婚約者。レジェスの父が長を務める部族の好敵手である部族から、まだレジェスも兄も幼かった頃に嫁いできた、少しだけ年上だった兄と同い年の友好の証。


 長の嫡男であった兄が亡くなったので、次男であるレジェスが、長の後継者となった。今のところ、将来の長として、政も戦も、何とかこなしていると自負している。尊敬する兄を支えるために、人の動かし方も剣の技も、軍略も外交術も、意識して研鑽を積んでいた。今の状況は、おそらくその成果。そして。長の後継者として、同盟の証である婚姻をも、完全なものにする必要が、ある。唇を噛みしめると、レジェスは、下穿だけの姿で薄い帳を強く横に引いた。


 暗がりでぼうっと輝いているように見える丸い背中に、当惑を覚える。蝋燭の炎は、レジェスの背後にある、はず。動けなくなってしまったレジェスの前で、兄の婚約者、クレスセンシアは、躊躇うように僅かに、レジェスの方を振り向いた。

 俯いたままの顔を縁取る黄金の髪と、僅かな揺れを見せる白い胸に、レジェスの欲望が強く疼く。兄は、この身体を抱く前に命を落とした。震える腕を、レジェスはそっと、クレスセンシアの細い肩へと向けた。そして自分が、今日、この人を抱く。……抱けるのか? 不意の感情が、伸ばしかけた腕を止める。再び見つめた、目の前の女性は、確かに、『姉』として憧れていた人だった。


 姉のように慕っていた、尊敬する兄の婚約者。その姉を。……いや、迷いを振り切るように、レジェスは強く首を横に振った。この人は、クレスセンシアは、今は、……自分の婚約者。契りを結び、婚姻を完成させ、敵対しかねない部族との同盟を強固にしなければ。だが、決意に反し、身体が全く動かない。

 この人は兄のものだ。……今でも。諦めにも似た想いに、帳を掴んだままであった腕を下ろす。裂けた帳をできるだけ元通りにし、手近な敷布で女性の裸身を覆うと、レジェスはのろのろと、先程とは逆の手順で豪奢な衣装をその身に纏った。




 次の日。

 レジェスは、兄の婚約者クレスセンシアを、先頃出来たばかりの女子修道院に預けた。




 数年後。

 婚約による同盟に頼ることなく、レジェスは、この地方を支配する大王となる。

 しかし誰とも婚姻を結ぶことなく、レジェスの王国は、彼の妹の子供へと引き継がれた。

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