第八十七話 死が二人を……

「アリスっ!」


 呆然自失と言った様子のアリス。無防備な彼女に、俺はそのまま抱き着いた。存在に縋りつくように、その身体を引き寄せる。


「幸人さん……どうして、どうして、ここに……?」


 困惑したままに呟くアリス。一瞬はっとした様子を見せると、そのまま子どもがいやいやするように、彼女は何とか俺の腕の中から抜け出そうとした。


 決して彼女のことを離したくはない。しかしここは路上、しかも周りには人が大勢。注目が集まっているのはひしひしと感じるので、ばつの悪さを感じつつ、俺は彼女の背中から腕を離した。


 気まずいままに向かい合う。アリスは顔を下に向けて、下唇をぎゅっと噛んでいる。左手首の当たりを手で押さえて、その指は手首の辺りを世話しなく動く。。


 言わなければいけないことは山ほどあるはずなのに、一つも言葉が出てこない。先ほどまでは、ただ勢いそのままに突っ走っていた。だがこうしてそれを失うと、今度は理性が幅を利かせ始める。軽はずみなことは避けるべきだと、警鐘が鳴っていた。


 さらに、このアリスの態度。なんとなく予想はしていたが、やはり歓迎されていないようだ。実際に目の当たりにすると、やや怖気づいてしまう。


「アリス、理由を聞かせてくれないか? もし俺に落ち度があるんだったら、はっきり言って欲しい。可能な限り、直してみせるから」

「そんな、幸人さんに悪いところなんて……違うんです、そういうことではないのです。お願いですから、わたくしのことなど放っておいてください。アリスは――貴方と前世で契りを結んだ女は、もうこの世界のどこにもいないのです!」


 強い拒絶――アリスはこちらの身体を軽く押しのけてくる。わきをすり抜けて、信号の点滅する横断歩道へと向かって走り出した。


「待ってくれ、ちゃんと話をしよう、アリス!」

「離して、離してください、幸人さん!」


 その細腕を反射的に掴んだ。ここで彼女を逃したら、もう一生会えなくなってしまう。彼女が手の届かないどこかに行ってしまうような…………そんな気がした。 


 アリスは決してこちらには顔を向けない。背中を向けたまま、何とか俺の手を振りほどこうとしてくる。思いの外、抵抗してくる力は強い。


 ワンピースの袖のさらさらとした手触りを感じながら、しっかりと腕を掴む。薄く柔らかな肉に、俺の指が食い込んでいく。あまりにも華奢すぎて折れてしまいそうだ。筋違いな不安が頭を過る。

 

「ダメです、ダメなのです、幸人さん。わたくしたちは、一緒にいてはいけない運命なんですっ――!」


 ようやくこちらに向いたその顔は真っ赤だった。その目には涙が浮かんでいるが、歯を食い縛って懸命に堪えている。それでも数滴が、彼女の白い肌に透明な線を引いた。


 運命――それを彼女が口にしたのは二度目。あの時も彼女は泣いていた。ただ、今ほど激しくはなかった、悲壮な覚悟を決めたように、さめざめと涙を零していた。


 アリスの泣き顔を、俺は息を呑んで見つめていた。つい腕を掴んでいた力が緩む。彼女の悩みの――今回の行動の一端が、その言葉に込められているように感じた。


 ざわざわと周囲の喧騒が激しくなって、ようやく我に返った。傍から見れば、痴情のもつれによる揉め事。なるべくなら関わり合いになりたくないのだろうが、女性の方が泣いているとなると話は変わってくるかもしれない。


 しかもこのご時世、往来で騒ぎを起こそうものならばすぐに拡散する。難儀な時代になったものだ、と昔の自分が少しだけ心の中で顔を出した。


 それでも、周りに対して配慮する余裕は俺にはない。今一番言わなくてはいけないことを、声を大にしてでも告げなければ。


「運命だとか、そんなこと言うなよ! あのあばら小屋で達したのと同じ結論を、そんなに簡単に下さないでくれよ!」

「幸人さん、やっぱり記憶を……」


 はっと、彼女が一瞬泣き止んだ。目を真っ赤にはらしながら、怯えを含んだ眼差しでこちらを遠慮がちに見つめてくる。


 俺はゆっくりと首を縦に振った。


「ああ。――とりあえず、ここじゃなんだから場所を変えないか?」


 俺の提案に、彼女は小さく頷いた。まるで何かに観念したように。




        *




 近くの、こじんまりとした喫茶店にやってきた。客は少なく、空席が目立つ。俺たちはその奥の、あまり人目につかないテーブルで向かい合っていた。


 道中、アリスは一言も口を利かなかった。さすがに泣き出すということはなかったが、ずっと俯いたままで、俺のやや斜め後ろをとぼとぼとついてきた。


「なあアリス。どうして、いきなりいなくなったりしたんだ」


 ウエイトレスが去っていくのを見計らって、俺は話を切り出した。俺たちの前には、運ばれてきたばかりのカップが置いてある。


 アリスはすぐに口を開かない。下を向いたまま、テーブルのあちこちに視線を巡らせていく。話すべきか、この期に及んで悩んでいる様子だった。


 俺としては、急かすような真似はしたくない。とりあえず、運ばれてきたばかりのホットコーヒーに口を付けた。その苦みや渋みが、神経をより研ぎ澄まさせてくれる。


「…………全てを思い出したのならば、わかるはずです。わたくしはそもそもにして、幸人さんに好かれるような女ではなかったんだよ」

「どうして?」


 俺は優しく問いかけた。そんな検討違いのことを気にする彼女のいじらしい姿が、ちょっと微笑ましく映った。


「だってわたくし、散々あなたに酷いことを――」

「それはもう済んだ話だろ。俺だってお前に何度も危害を加えたわけだし。それはあの夜、水に流したはずだ」


 俺の言葉にアリスはぐっと言葉を詰まらせると、そのまま顔を真っ赤にしてしまった。きっと気恥ずかしくなったのだろう。


 それは前世での話。アリスの奴、自分が具合悪いのをおしてまで、俺のことを殺しに来たことかあった。それで介抱をしてやった。その頃にはもう、俺の方には彼女に対する憎しみはなく、ほのかな恋心が芽生えていた。


 そのベッドのそばで、たくさん言い合いをした。……かなり恥ずかしいことを言ったことを思い出して、俺まで顔が火照ってくる。


「改めて言っておくけど、俺は今のアリスを好きになったんだ。昔のことなんて、もう関係ない――って、完全に割り切れるわけじゃないけど。それでも、今さらそんなことで嫌いになるわけない」


 記憶を取り戻した今だからこそ、それは言っておきたかった。ここ最近の、俺が記憶を求める姿勢を、彼女があまりよく思っていないことは薄々気づいていた。その謝罪の意味も込めて。


 アリスはようやく顔を上げてくれた。その顔には未だ悲痛さが残っているものの、端々に嬉々とした感情が読み取れる。


「……で、それだけじゃないだろ。さっき言ってた、って言うのはなんだ?」


 一緒にいられない、その言葉がずっと胸に引っかかっていた。


「――照明」

「え?」


 あまりにもぼそりと言ったので、つい聞き逃しそうになった。照明……それはきっと――


「劇があと少しで終わろうとする時、落ちてきたじゃないですか」

「別にあれはアリスのせいってわけじゃないだろ」

「いいえ、わたくしのせいなのです! わたくしが、分不相応にあなたのそばにいようとしたから。幸人さんがプールで足を攣ったのも、車に轢かれそうになったのも、カッターで手を切ってしまったのも、全部、全部――」


 せっかく少しだけ元気を取り戻したのに、アリスの顔がまた泣き崩れそうに。あまりにも必死で痛々しいその様子に、俺もまた悲しい気持ちになっていく。


「あんなの、ただの偶然だ」

「偶然なんかじゃありません!」


 強くテーブルを叩いて、彼女は立ち上がった。涙を浮かべながら、やや怒りのこもった眼差しを俺に対して向けてくる。


 突然のことにやや驚いたまま見つめていると、アリスは申し訳なさそうな顔をしてまた腰を下ろした。そのままカップに口を付けると、黒い液体を飲み込んで少しだけ顔を歪める。


「やっぱりわたくしたちは一緒にいてはいけないのです。世界がそれを拒んでいる。わたくしたちに、幸せに暮らせる運命など待ち受けていない。前と同じように、これから色々な災厄が降りかかる。そしてまた同じことを繰り返す。それだけは、絶対に嫌なんですっ!」


 堰を切ったように、彼女はまくし立てた。叫び終わると、ふるふるとその目からまたしても涙があふれだしていく。


 ――なるほど、アリスの言うことも確かにわかる。だからといって、はいそうですかと引き下がったら、それこそ前世の二の舞を踏む――いや、それ以上に悲惨な結末が待ち受けるだけだ。


 少なくとも、俺はそう思っている。もう、運命だとか世界だとか、そんな不確かなものに振り回されたくはない。


 そして、そのことをアリスにもわかってほしい。俺が達した結論を、彼女にも共有してもらいたい。もしかしたら、間違いだと一蹴されるかもだけど。


「俺のことを心配してくれたんだな。ありがとう、アリス」


 そっと彼女の頭に手を伸ばした。そのままゆっくりとその髪を撫でていく。本当に奇麗な銀髪だ――これは前世の時と変わらない。こうして彼女の髪を触って、穏やかな時間を共に過ごす。前世では敵わなかったことの一つ。


「でも、大丈夫だ、アリス。俺たちはもう、そんなことを気にしなくてもいいんだ」


 幼子に言い聞かせるように、優しく甘く言葉を紡ぎ出していく。


「世界はさ、俺たちが感じていたほど厳しくない。いや、そもそも運命とかそういう考え方が間違ってる。全部、俺たち次第なんだよ、アリス」

「幸人さん……」

「俺はアリスとこれからも一緒にいたいと思っている。――アリスはどうだ? もう俺とはいられない。俺のこと、嫌いになったか?」

「そんなわけないです! 今もわたくしは、幸人さんのことが――」


 彼女は慌てた様子で言葉を引っ込めた。だが、それはもう遅い。それは、俺がずっと聞きたいと思っていた答えだ。


 きまりが悪そうに、身体を縮こまるアリスが微笑ましい。つい笑みをこぼしてしまう。


「俺たちが互いに互いのことを想ってる。それでいいじゃないか。他に難しいことなんか、考える必要はないんだ」

「……わたくし、本当に幸人さんのそばにいていいんですか? もしかしたら、今度はもっと悲惨なことが――」

「だから平気だって」


 俺は力強く言い切った。本当のところ、これからのことはよくわからない。でもそれは、誰にも確証が持てないことだ。


「だって今、俺たちは一緒にいる。それでも何も起きてないだろ? だから、絶対大丈夫さ」


 アリスはようやく笑みをこぼした。それは俺の言葉のおかしさに気付いたような笑い方だった。自分でも、全く根拠のない自信だと呆れる。


 でもそれでいいんだと思う。世界とか、運命とか、前世の契りとか、そんなことは些細なことだ。今俺たちが惹かれあっているのは、間違いなく自分たちの意思で、それをいけないものだと断じることは当事者以外にはできないんだから。


「一緒に帰ろう、アリス。俺、まだお前とやりたいことがいっぱいあるんだ」

「はい! わたくしも、まだまだたくさんあります!」


 満面の笑顔、アリスはこうでなくちゃいけない。どんな時でも、基本明るくひたむきな彼女に、俺は強く惚れたのだから。


「それじゃあ、幸人さん。早速、一ついいですか」

「ああ」

 

 現金だな、と思いつつ、俺は特に考えず頷いた。ゆっくりとコーヒーを口に含む。


「このまま、わたくしの家に結婚のあいさつに来る、っていうのは」


 ぶっ――思わず、口の中の液体を吹き出しそうになった。


「またそうやってお前は、階段をすっ飛ばすような真似を……」

「だって、いい機会だと思いますし。……ずっと一緒にいるって、そういうことじゃないんですか?」


 やや怒ったように、アリスは頰を膨らませた。そして上目遣いをする。それ大人びた彼女の容姿とは不釣り合いな子どもっぽい振る舞い。


 すっかりいつも通りだな、と変わり身の早さに驚きつつも、俺はぐっと彼女の色鮮やかな瞳を見つめる。


「ゆっくりやっていこう。俺たちにはまだたくさん時間があるわけだし」


 前世から思い続けていたかもしれないけれど、俺たちの関係はまだまだ始まったばかり。この恋は、運命的でも必然でもない。そこらにありふれた、ただ普通の恋だ。


「なんだかはぐらかされたような気がします」


 でも、アリスちょっと不満そうだ。目を半開きにして、片方だけ頬を膨らませながら、いじけたような手つきでコーヒーを改造し始める。


 たが、突然はっとしたかも思うと、ぐっと背筋を伸ばした。その顔はキラキラと輝いている。


「幸人さん、不束者ですがよろしくお願いします」

「本当に結婚の挨拶じみてるな。……まあこちらこそ、末長くよろしく」

「健やかなるときも、病めるときも一緒ですよ?」


 死が二人を別つまで、というのは俺たちにとってはさすがに縁起が悪すぎると思う。


 同じことをアリスも考えたのだろうか。俺たちは互いに笑い合った。


 これもまたありふれた恋人同士の一幕だろう――

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