第八十六話 アリスの独白

「殺してやる――!」

 

 滾る憎悪を、わたしははっきりと覚えている。


 それは向こうも同じだった。全力で、こちらを殺そうとしてきた。


 闘いの終わりは呆気なく、わらわらと虫のように湧いてきた兵士どもに興を削がれた。それがファーストコンタクト――厳密にいえば、私の方は一方的に向こうの様子を窺っていた。まあでも、互いにとって最悪だったことには変わりない。


 その後も、私たちは幾度となく殺し合った。先に折れたのは、奴――あの人の方だ。それを彼は決して認めないけれど。


 そんな始まりだったのに、愛が芽生えてしまった。言葉にすると至極単純になってしまうが、その裏には多くのドラマがある。私の胸には、どれもはっきりと取りこぼしなく胸に刻まれている。


 結局、私たちが一緒に入れた時間はごくわずかだった。あの馬鹿王が差し向けた追手がやってきて、大規模な戦闘が起こる。


 でも、私も彼も運命を受け入れた。元々この恋が実らないと、確かにわかっていた。私は世界の弾かれ者だったから。


 それは抗いようのないで、だからこそ願ったのかもしれない。。来世なんて、夢見る子どものような戯言。でもあれは、心から出た祈りでもあった。


 ――だからこそ、心底驚いている。本当に二度目の生があったことを。いや、これは少し違う。正しくは、自分の中にもう一つ別の人生の記憶があることが。


 初めてそれを実感したのは、物心ついてすぐのことだった。ぼんやりと、今の両親とは違う人の顔が頭の中に浮かんできた。後は夢を見るようにして、次々と不思議な実感のある記憶が事ある毎に脳を過っていった。


 前世の恋人のことも、早い段階で知っていた。当然のように、私は彼に恋心を抱いた。でもそれは、同年代の子がアイドルやフィクションの人物に抱く、憧れとあまり大差はない。


 だって、彼もまたこの世界にいるとは限らないのだから。私はこうして、別のアリスとして存在するけれど、あの人までそうだと決まったわけではない。


 でも、その存在が私の心の大部分を占めていたことに変わりはなかった。ぼんやりとだが、彼にもう一度会いたいとは思っていた。それが叶うことはなく、願うこと自体身の程知らずだとわかっていても。


 だからこそ、初めて彼を見かけた日には、内なる衝動を抑えきれなかった。この間の冬、家族でスキー旅行に出かけた。昼ご飯を食べるのに寄ったロッジで、ちらりとあの人を目撃した。


 彼は友達と来ているらしかった。今から思えば、一緒にいたのはは大力剛と小峰学という彼の大切な友人だろう。私はすぐに、彼のことを追った。困惑する家族を置いて、外に飛び出た。一瞬だったけど、はっきりわかった。頭に電流が走った。


 ……でも私には見つけ出すことはできなかった。だから決めた。この街に住むことを。


 それはどうしようもないほど愚かだというのは、わかっていた。でも自分の――の気持ちを抑えきれなかった。


 前世からの宿命、あまりにも長い年月を経た結果純化された想い、身体の内側を突き破ろうとするほどの衝動。そんなものに、私はただ突き動かされていた。


 予想以上に時間がかかったけど、無事に彼の住む町に、彼の通う学校に転入することができた。意外と、お金の力で何とかできることは多いことを知った。これは完全に、余計なことだけれど


 あの交差点でようやく再開を果たした時、またしても私は自分のことを止められなかった。ああ、あの人だって、ようやく実感が持てた。彼もきっと私のことを覚えているはず――そんな自分勝手さを持って、彼にぶつかっていってしまった。


 あれは失敗だったと思う。でも他にやりようを知らなかった。恋愛経験などまるでない。私にできるのは、自分の想いを彼にアピールすることだけ。


 彼は常に一歩引いていた。無理もない、前世の記憶を持ち合わせていなかったのだから。彼の目から映る私は、とても変な女だったでしょう。


 それでも構わなかった。私にとっては、彼が前世の運命の人だということだけで十分だった。


 何も覚えていないことは、逆に好都合でもあった。私のマイナス要素を知られることはない。それは至極自分勝手な話だけれど。


 そして私たちは正式に結ばれた。あの日の気持ちは一生忘れることはない。胸の中が幸福感で一杯だった。ずっと抱いていた願いがようやく成就したから……ではなく、その頃にはもう、私は白波幸人という人自体のことを好きになっていた。


 もし違っていても構わない。前世の想いは大事だけれど、それがすべてではなくなっていた。今の好きな人と恋人同士になれたんだ。嬉しい以外に抱く感情なんかない。


 皮肉にも、潮目が変わったのは、私たちが結ばれた以降。彼は次第に前世の記憶を取り戻しつつあった。それは逆に、彼が私の前世からの想い人だったことの証でもあったけれど。私にとっては、別の意味を持っていた。

 

 やっぱりあのお芝居に参加したのは間違いだったかもしれない。あれはあまりにも私たちのみに起こったことに似すぎている。細部は違うが、本質は相違ない。


 稽古の日々は楽しかったけれど、不安の方が大きかった。私のしでかしたことを思い出して、彼に嫌われるんじゃないか。正直、気が気でなかった日もある。


 極めつけは――彼の身に、危険なことが起こり始めたこと。初めは些細なものから。でもそれは段々と大きくなってついに、この間はあわや大惨事に繋がりかねない事故に発展した。


 その瞬間、やっとわかった。やはり自分は彼のそばにいてはいけないのだと。


 ――そうではなく、再び気づかされただけかもしれない。だって、あんな終わり方をしたんだ。なのに、今回がうまくいくなんて、それは甘い考え。


 あの時と同様、世界は決して彼と私が一緒になることを許しはしない。このまま一緒にいたら、彼が命を落とすことは明確。


 だから、いなくなることにした。


 未練がないと言えば嘘になる。でも、あの人をもう一度失うことに比べたら全然マシだ。たとえ短い間でも、彼と恋仲になれたこと。その想い出があれば、私はこの先もやっていける。


 遠いこの空の下で、彼のことをずっと想っていよう――




        *





 映画を観終わった私は、友達に断って一人で帰ることにした。これ以上、誰かと一緒にいられる気がしなかった。


 せっかく誘ってくれたのに、本当に申し訳ないと思う。彼女とは小学校からの付き合い。いきなり私が地元に戻ってきて、心配になって会いに来てくれた。


 こんなことならば、初めから外に出なければよかった。しっかりと、自分の行く末を見定めたはずなのに、まだ覚悟がついていない部分がある。


 こっちに戻ってきてからというもの、部屋にこもりがちになっていた。この大きな喪失感を、どう呑み込んでいいかまったく見当がつかない。


 一緒に観たのがラブロマンスだったのもまずかったのかも。それは泣けると評判の悲恋もの。いっぱい泣けばすっきりするから、というのは友人の弁。確かにそうだと思うけど、やっぱり今の自分にはちょっとあまりあった。


 映画館の入った商業ビルを出て、足早に液を目指す。この街は本当に人が多い。一度離れたからこそ、なおそう思う。


 だからこそ、ここで生きていくのがふさわしい。私は私ではない誰かとして、この場所に溶け込む。そうすれば、彼に見つかるはずはない。彼が好くような、特別な女性ではないと自分自身を思い込める。


 大きな交差点で、足止めを食らった。あの時のことが鮮やかに蘇る。


 雑踏の向こう、制服姿の男子高校生がよく目についた。輝いて見えた。記憶にある姿とはだいぶ違って見えたけど、彼がその人だという確信を疑う理由はなかった。


 周りの景色がモノクロに。唯一彼だけが色を持つ。遮るものが亡くなった途端、強い光に導かれるように、私は彼を求めて走り出した。


 ――ああ、ユキト様。幸人さん。わたくしは諦めたはずなのに、どうして焦れて仕方がないのでしょう。あの温もりを、決して忘れることはできない。薄れるどころか、日を追うごとに濃くなっていく。


 初めは幻覚だと思った。あまりにもあの人のことを考え過ぎて、頭がおかしくなってしまったんだと。


 だから反応が遅れた。第一、彼がここにいるはずはない。木曜日は学校がある。わたくしの友人は、わざわざ休んでくれたけれど。


 もしかすると、そこまで想われている感覚はなかったのかもしれない。彼のもとから離れたのは、その愛情に自信が持てなかったから。


 だとしたら、自分のことを強く嫌悪する。徹頭徹尾、わたくしは自分本位でしかなかった……


 だからわたくしは、茫然と見ていることしかできなかった。その夢のような存在を、決して確かな実感を持てずに。


 集団が動き出してもなお、わたくしの身体は動かない。金縛りにでもあったように、ただじっと一点を見つめていた。


 胸の中はぐちゃぐちゃで、今自分がどう思っているのかもよくわからない。


 たくさんの疑問符が積もっていく。無秩序に絡み合って、わたくしの感情を奪っていく。こうしてただ立って、息を続けることすら苦しい。


 わたくしがどこまでも自分勝手な女なのは、百も承知。それでも想わずにはいられない。彼のことが、やっぱり好きなんだ、と。

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