第八十五話 邂逅

 久々に地面に降り立った時、微かに安心すると同時に、かなりくたびれた気持ちになった。人生において、数えるほどしか飛行機に乗った経験はない。身体が全く慣れていないのだ。


 それでも気分が悪いというほどでもない。問題なく、人波に続いてターミナルを闊歩する。到着した空港は、飛び立ったものよりも遥かに立派で巨大。なんとなく、自分がひどく場違いな場所にいると錯覚させられる。


 人の多さに、軽くげんなりしつつ、駅を目指す。ことある毎に、きょろきょろとあたりを見回す自分を田舎者だと感じながら、案内板だよりに進んでいく。気を付けていないと道に迷いそうに……いや実を言えば、とうとうさっき道を尋ねてしまった。


 ともかく、色々あったが何とか駅に辿り着いた。券売機の前でスマホを開く。いくつか来ている通知を無視して、路線図を検索する。もしこの素晴らしい文明の利器がなければ……この未知なる場所を脱出するのにもっと手間取っていたことだろう。


 結局、俺は交通系ICカードを買うことにした。元々、地元の物はもっている。だが、残念なことに互換性はなかった。さすが陸の孤島、本州から切り離されているだけのことはある。


 たぶん、今回の旅でしか使うことはないだろう。そう考えれば無駄かもしれない。だが、自分がこっちにいつまで滞在するか決めていないこと。さらに、これからどこに行くかもわかっていない今、買っておくことに損はないように思えた。


 たっぷりとチャージをしてから、改札へと向かう。キャリーバッグをころころと転がして。エスカレーターがあってよかった。こいつは平地を歩くときは便利だが、階段に面するととても苦労させられる。もう少し身体を鍛えた方がいいかもしれない。俺は、眼鏡の親友の顔を思い浮かべた。


 プラットホームには車両が一基、停まっていた。乗り込むと、中は比較的すいている。空の座席を見つけて、そこへ腰を下ろした。つい、ため息を漏らしてしまう。ここまでで、もう疲れを感じ始めていた。


 発車まではまだいくらか時間があるようだ。バッグの方に注意を向けながら、俺はスマホを取り出した。暇つぶしもそうだが、やらなければいけないことはいくつかある。


 メッセージアプリを起動して、母との会話画面を開く。『無事についた。これから叔父さんのところに向かう』と送った。東京に住む叔父は、父の弟で未だ独身。正月、親戚の集まりで顔を合わせるくらいの付き合いだ。それでも小さなころは、よく遊んでもらったことを今でも忘れていない。


 次に先ほど通知が来ていた部屋をタップする。どうせろくな連絡じゃないことはわかっているが、一応確認しておこうと思った。


『おう、サボり魔。首尾はどうだ?』


 ……いきなりこの調子である。メッセージの送信時刻を見ると、ちょうど昼休みの時間帯。そして俺が機内にいた時間でもある。


『まあぼちぼちだ』


 返してみたものの、今向こうは授業中。絶対に返事が来ることはない。そう思っていたのだが――


『いいなぁ~、東京。しかも学校サボって、とか』


 別の友人からメッセージが来た。これは剛、学との三人のグループだ。その名称は度々変わる。今は『女子を追って学校休む奴がいるらしい』というとても不名誉なもの。


『意外だな、お前がそんなこと言うなんて

 サボったら部活出れないだろ』

『幸人も剛も、何だと思ってるのかな、俺のこと』

『……とりあえず、お前は真面目に授業受けろ』

『わかってるってば

 お土産、忘れないでよ!』


 それには何も返さずに、俺はスマホをポケットにねじ込んだ。心がほっこりした。一人で心細いと思わないこともなかった。


 電撃作戦のような行程。我ながら無鉄砲だったと思う。昨日の今日で東京に来るなんて。アリスがどこにいるのかもわかってないのに。


 旅費と滞在費は父から借りた。アリスを探しに行きたいんだ、という俺の身勝手な願いに、父は一言だけわかった、と応じてくれた。猛反対されることも覚悟していたのに、ずいぶんとあっさりしていて、俺は少しばかり拍子抜けしてしまった。


 そこから先はもう大変だった。急いで荷物を詰め込んで、航空チケットを手配して。幸い、父が叔父さんに連絡を取ってくれたから、宿の心配はしなくて済んだ。


 そして今日、木曜日という平日に、俺は東京にやってきたというわけだった。明城アリスという最愛の女性を求めて。


 やがて電車が動き出した。がたがたと、車内が揺れ始める。じっと窓の外を見ていると、やがて無機質な暗闇に変化が現れた。見覚えのない風景が次々に流れていく。


 アリスは今、何を考えているのだろうか。俺は彼女に会って、何を話したらいいのか、電車の揺れに身を任せて、静かに目を瞑る。

 

 ただ一つ、俺の胸の中にあるのは、もう一度アリスに会いたいという想いだけだった――




       *




 その駅で降りたのは、完全に気まぐれだった。次の駅のアナウンスを聞いた時に、そういう気分になった。


 叔父さんと合流するまでまだ時間はある。どうせどこかで暇をつぶす必要はあった。だから、この寄り道も完全に無駄なものではない。


 駅構内はえげつないくらいに人が多かった。そして内部構造も複雑。地元で一番の駅なんか、比べ物にならないほど。知識として持ってはいたが、改めて目の当たりにすると、とても驚かされる。


 この間、アリスと一緒に見たアニメ映画を思い出した。作画はとても奇麗で現実に即しているもの。この駅も、作中で出てくる。だからこそ、駅名が強く記憶に残っていたのかもしれない。


 駅を出て、改めてその光景が映画そのままなことに感激した。のろのろと歩く視線の先には赤信号。たちどまりながら、辺りにぐっと視線を巡らせる。願わくは、隣にアリスがいたらよかったのに――そう思うが、それは叶わないことだ。


 とりあえず、どこかファーストフード店で休もう。この大荷物を持ったまま、街を練り歩く気分にはならない。


 ――そういえば、俺とアリスが初めて出会ったのも交差点だった。向こう側からじっと見つめられ、すれ違いざまに話しかけられたんだったか。


 あの時は、本当にびっくりした。あまりにも突然、しかもあんな美人となれば、平常心でいる方が無理がある、


 人ごみはあの時とは全く違う。とても厚みがある。こうして、やや後方に立っていると向こう側はかなり見えにくい。恐るべし、東京。建物も高いし、これが本当の都会……


 やがて集団が動き出した。向こうからくる人と肩がぶつからないように気を付けながら、横断歩道を渡っていく。果たしてこの先に、いい感じの店はあるんだろうか。ちょっと不安を覚えながら。


 …………またしても信号に捕まった。街中に信号が多いのは、どこも変わらないんだな。うんざりしながら足を止める。


 今度は集団の前方。視界はかなり開けている。ぼんやりと、俺は反対側に立つ集団を見ていた。


 何かを期待しているわけではない。あんな偶然がもう一度起こるなんて、あまりにも都合がいい。


 それでも、その時はそれは奇跡と呼ぶべきだろうか。世界が俺たちの後押しをしてくれている。あの時には、決して感じなかった感覚。


 やや強い風が吹きこんできた。視線の向こう側で、キラキラとした何かが宙に舞う。束ねた糸が、さらさらと風に流されるように。それはとても綺麗で、なんだかとても懐かしい気持ちになって。


 ——いた。視線の先に、長い銀髪をなびかせる、長身の女性が。黒を基調にした、シックなワンピース姿。


 思わず、手からスマホを落としてしまった。その音で、現実に引き戻される。


「――っ!」


 彼女の表情はよくわからない。身体はこっちを向いているが、俺のことを見ているのかどうか。


 慌ててスマホを拾い直す。早く、早く信号が変わってくれ――目の前を行き交う車がひどく鬱陶しい。周りのに人々がいたく煩わしい。今すぐにでも走り出したい。


 青のランプが灯るのと、俺が踏み出したのはほぼ同時だった。一斉に動き出した時間、人混みをかき分けて進む。人の迷惑など鑑みず、自分が奇異な視線に晒されているのを気にかけることなく。


 人の流れが滞っていた場所に、彼女は立っていた。目を見開いて、今にも泣き出しそうな、不安定な表情で——


「アリスっ!」


 俺は叫ぶようにして、彼女の名前を口にした。

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