第七十話 夢から醒めるとき
『ここに勇者ユキトと我が娘スノーの結婚を祝おう!』
国王は高らかに杯を天に突き出した。よく晴れた青空の下集まった観衆たちが高らかに歓声を上げる。その号砲は強く空気を震わした。
高い位置に設けられた壇上で、俺はたった今妻となったばかりの女と顔を見合わせる。話したのは数度。だというのに、なぜか彼女はとても幸せそうだった。
その顔は、雪江にとても似ていて――
「――さーん。幸人さん! 起きてっ!」
身体を強く揺すられて、ぼんやりと目が覚めた。うっすらと瞼を開けると、そこにはよく笑った今の恋人――明城アリスの姿がある……だというのに。
「ゆきえ……?」
「………………寝ぼけてるんですか?」
ぱちくりと大きな瞳をまばたきした後、彼女はちょっと頬を膨らませた。そして顎を引いてぐっと目を細める。明らかに不機嫌そうだ。
恋愛経験ゼロの俺にも流石にわかる。今のがまずい発言だったのは。彼女を他の女と間違える、なんて絶対にあってはいけないことだ。
ちゃんと識別はついているのに、それでも見ていた夢のせいでついその名前が出てしまった。……あれは、あの夢はいったい何なのか。
「ごめん、アリス。ちょっと頭がボーっとしてた」
ふわぁ、とわざとらしいあくびをつける。ぎゅっと強めにまばたきをして、あくまでも寝起きでつい言い間違ったことを強調する。もちろん、顔の前で手を合わせることを忘れない。
すると、アリスは少しだけ頬を緩めた。眉が八の字に曲がる。そしてあきれたように、一つ可愛らしいため息をついた。
「仕方ないですねぇ、幸人さんは……。下で待ってますから、なるべく早く来てくれたらなぁ、なんて」
ふふっ、と子どもっぽい笑みを残すと彼女はくるりと踵を返した。そのまま軽やかな足取りで、部屋を出て行く。今日も俺の彼女は絶好調らしい。
一人になって、改めてさっきの夢を振り返ろうとする。さっきの映像はなぜか鮮明に蘇った。まるで元々自分が持っていた記憶のように。
同時に、今日までにも同じような夢を何度も見てきたことを思い出した。そうなると、なぜ忘れていたのだろうと、不思議になる。しかしそれらもまた、しっくりと俺の身体に馴染んだ。
もしかすると、あれが前世の記憶、というものかもしれない。絶対に経験がない筈なことなのに、主観的な映像。そして、自分が今の自分とは違う存在だということがすんなりと理解できる。
あの世界で、
(……あの劇の話とどこか似ているじゃないか)
奇妙な偶然。だが、そうした
以前、あいつは前世の記憶についてこんな風に言っていた。『強く主人公に感情移入できる』と。今ならそれがわかる気がする。あの没入感は、はっきりいって、かなり異常だった。
底知れぬ心もとなさを覚えて、いつの間にか呼吸が浅くなっていた。動悸は激しく、少し嫌な汗が流れている。
ふと時計を見ると、八時を回って久しかった。そりゃ、アリスが起こしに来るわけか。自虐的に頬を歪めながら、意識を無理矢理に自分がすべきことに向ける。それ以上、
ぐっと立ち上がる。そのままのろのろとクローゼットの方へ。いまいち意識を切り替えられていない。でも、そのことについて、アリスに相談しようとはなぜか思えなかった。
――だって、まだあいつが夢に出てくることはほんの一度もなかったのだから。
*
その日の放課後。三階の水飲み場で、俺たちはダンスの練習をしていた。大きな鏡があって、動きの確認がとてもしやすい。……そういう人気の場所だから、他のクラスと話し合って割り当てを決めていた。
一心不乱に手を、足を動かしていく。頭の中に理想形をぼんやりと描きながら。本番まであと三週間――覚えた振り付けは全体の半分程度。進度は順調といえるが――
「――白波?」
葛西の鋭い声が飛んでくる。
「悪い、ちょっとよろけた」
尻餅をつきそうになったところを、慌てて踏ん張ったのた。
すると、音楽が止んだ。キュキュッと上靴のゴムが床を擦る音がまばらに響く。仲間たちが、心配そうに俺の方を見てきた。
「集中できてないね~。なんかあった?」
俺がミスったのはこれで三度目。彼女の言う通り、あんまり身が入っていないのは事実だ。ふとした瞬間に、余計なことを考えてしまう。
それはこの場に限った話ではなくて、どうも日中から頭がボーっとして仕方ない。水泳の時間なんか特に酷くて、練習タイムはガタガタだった。
「ま、ちょっと早いけど終わりにしよっか」
リーダーは特に気にした風もなく、そのまま片づけを始めた。それで俺たちも思い思い楽な姿勢をとる。そんな中、アリスが真っ先にこちらに近づいてきた。
「幸人さん、どうしたんですか? どこかお身体の調子が悪い、とか」
彼女の顔は少し強張っていた。眉間にしわを寄せて、ちょっとばかり目を細めている。
俺はまともにあいつのことを見れなくて、すぐに視線を外した。少し廊下の方を振り返る。彼女……というか、今朝見た夢が俺の心を未だに落ち着かなくさせていた。
ずっとふわふわした感じが続いている。過度に気を張っていないと、つい自分の今いる場所が遠く思えてしまった。
「……いや、そうじゃないよ。ちょっと疲れがたまってるのかもな」
「お前なぁ、今日が週初めだぞ? そんなんじゃ先が思いやられるぜ」
「体育でいつも限界まで疲れ切る剛が言えたことじゃないよね、それ……」
俺はそんな友人のやり取りに、少しだけ唇を緩めた。
「休日はちょっと出かけてたから」
「あっ、デートでしょ!」
悪戯な笑顔を浮かべて、今度は吉永が会話に乱入してきた。
「もう二人とも、羨ましいなぁ。どこ行ったの?」
「ええと、土曜日はプールで、日曜日は――」
「プール? まだマイオカプールはオープンしてないよね?」
真島が口にしたのは例のレジャー施設の名前だった。この夏アリスと遊びに行くと約束した。そんなものを真っ先に思い浮かべるあたり、こいつとはやはり住む世界が違うと感じる。
「市民プールだよ。およ――」
「プール授業の前に身体を動かしておきたくって。ですよね、幸人さん!」
こちらを見てくる眼差しはとても力強い。奥底に、滅多なことは言うなという要求が潜んでいた。その勢いに押されて、俺は首を縦に振る。
「へ~、いいな~、楽しそ~」
「あっそれじゃあ、唯さん。今度遊びに行きますか?」
「でも泳げないからなぁ、わたし……マイオカだったらいいよ~」
「別にわたしが泳ぎを教えるのも――」
盛り上がっている女子をしり目に、なぜかぐっと学が近づいてくるのが見えた。眼鏡の奥の瞳は妖しく光っている。どことなく鼻が膨らんでいるような――
「……ねえどんなだった? 明城さんのみず――」
「さぁ教室戻ろうか、みんな」
ゲスな質問をしようとした学を制したのは、葛西だった。とてもタイミングがいい。
「全く小峰って、意外とスケベだよね~」
などと言ってる辺り、きっと密かに彼女も俺たちの話を聞いていたのだろう。そのまま彼女は、学の腕を引っ張っていってしまった。
ということで、葛西グループはぞろぞろと廊下を進んでいく。俺とアリスは集団の
「しかし幸人がプール、ねぇ」
「どういう意味ですか、雪江さん?」
「てっきり水泳は嫌いになったのか、と思ってたから」
声の主は薄く笑った。
、 アリスの左隣には幼馴染がいた。それは、やっぱりどう見ても朝見た夢の中の女性と顔がそっくりで――
「あの、あなたに言ってるんだけど?」
「……あ、ああ。悪い」
「大丈夫? 人の顔ジーっと見るなんて、趣味悪いわよ。――彼女さん、凄い顔をしているけれど?」
見ると、アリスは初めて見る怒りに満ちた表情でこちらを睨んできていた。その後ろには、真っ赤なオーラが燃え上がっている。
「今朝も、わたくしとゆき――」
「アリス、俺はちゃんとお前のことが好きだから、心配すんなって」
「……もうっ、幸人さんってば。――でも嬉しいです、ありがとうございます」
「はいはい、ごちそうさま。お邪魔虫のわたしは、先に行くわね」
雪江は長い髪を振り乱しながら、足早に前の連中を追っていく。隣で幸せそうにしている自分の恋人と同じくらい、その背中が俺には気になっていた――
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