第七十一話 違和感

 空はすっかり、夜の闇が支配していた。星々は妖しく輝き、ほっそりとした月は大地に淡い光を注いでいる。


 誰もいない静まり返った王宮の中庭で、俺はあの女が来るのをじっと待っていた。今日こそ全ての因縁に決着をつける、そんな覚悟を秘めて。

 近頃は宮中も物騒になった。あの女、一度バレてからというもの、なりふり構わず俺の命を狙ってくる。そのせいで、国王――義父が余計な気を回すのだ。まあ、それも今日までのこと。


 後ろから誰かが近づいてくる気配を感じて、俺はゆっくりと振り返った。


 そこには――


「――どうして君がここに?」

「それはこちらのセリフです。あなたこそ、なぜこのようなことを!」


 彼女がここまで感情を顕わにするのを、俺は今まで見たことがなかった。果たして、彼女は何に対して気を荒らげているのか。そもそもその感情の正体は。自らの妻なのに、向き合うことを避けてきた俺にはわからない。


 ふん、と強く鼻を鳴らしたのは当てつけだった。今さら語ることは何もない。今宵、俺は自らの死を覚悟していたのだから。

 強く激しく俺は彼女の顔を睨む。そこに相手を思いやる気持ちは少しも籠めない。事ここに至っては、彼女との別れは不可避なのだ。一切の城をかけるつもりもない。


「よもや、あなた様がかの邪悪な魔法使いの娘を宮中に招き入れていたとは……。どうしてですか? あなたはこの国に平和をもたらした英雄ではないですか!」

「……それについては誤解があるようだな。俺はあの女に手を貸した覚えはない」

「ではあの手紙は? 『皆が寝静まった夜半、中庭にて待つ』その言葉の意味は何なのですか!」


 なぜ彼女がそれを知っているのか、そんなことはどうでもよかった。俺には彼女の様子がとても必死なものに映った。しかし同時にそこに空虚さを感じてしまう。やはり失敗だった。このは。

 たぶん彼女は俺のことを心配してくれているのだろう。だが、それはいったいなぜか。その源が俺に対する愛なのか。答えは出ない。これは向き合うことを避けてきた罰だ。自分と、彼女と。


 だから告げる。この場において、最も紡いではいけない言葉を。俺は一つ息を吸い込んで――



 決別の言葉代わりに。ありったけの冷淡さを込めて――


「待って、待って!」


 すると、いきなり演劇部部長が俺と雪江の間に割り込んでくる。とても困った顔をして、小刻みに頭を揺らしている。


 それで俺も我に返った。今自分は何を口走った……?


「今のセリフは何かな、白波君?」


 それは怒っているわけではなかった。ただただ、瀬田は困惑しているみたいだ。珍しく腕を組んで、ぎゅっと眉間にしわを寄せている。普段は俺たちがどんなミスをしても大らかなのに。

 目の前にいる雪江もまた似たような顔をしている。少し眉間に皺を寄せて、かなり怪訝そうだ。あたかも

『あなた、大丈夫?』とでも言われているかのよう。


 ダンス練が終わって、ここ最近の日課になっている演劇練習に移った。今日は四階の部室近くの人気のない廊下を、一つの舞台としている。

 出っ張った壁の陰に隠れていたアリスも出てきた。俺たちの異変に気が付いたらしい。こいつの出番はもう少し先だった。俺と雪江が言い争ったところに水を差すのがその役目。


「いや、悪い。ちょっとボケッとしてて」

「……まあ確かにあんまり身が入ってなかった感じだもんねー」

「瀬田君、一旦休憩にしないかしら?」

「うん。そうだね、じゃあ僕はほかの人たちに声かけてくるから。先に部室に戻ってて」


 ひらひらと手を振ると、その姿は廊下の奥へと消えた。部長はまだ俺に対して、不安がぬぐえていないようだったけれど。


 まだ本番までは時間があるので、俺たちは場面ごと、グループごと作業をしていた。演技練習メインと裏方作業組。瀬田がよそから人を集めてきたので、結構な大所帯になっている。実は何年か前はこれが当たり前だったとか。


 瀬田はメインキャストである俺たち三人にほぼ付きっきりだ。彼自身は、総監督という立場だった。舞台にも端役で出る。何役か兼任して。

 他のキャストは、適当な場所で練習していた。剛のやつも文句を言いながらも一生懸命にやっている。どことなく楽しそうに見えるのは気のせいではないだろう。


 裏方作業組は道具係と衣装係が忙しいみたいだ。美術部や手芸部にも協力を要請するという気合のいれっぷり。彼らはよその活動場所でお世話になっている。


「幸人、大丈夫?」


 階段そばの少し広い空間を使っていたから、意外と部室までは距離があった。静かな廊下に雪江の声がよく響く。隣を歩きながら、俺の顔を覗き込んできた。


 さっきの無様な失態から、とてもその顔を見る気にはならなくて、視線を少し遠くの方に固定する。脳裏では、豪華なドレスに身を包んだこいつと瓜二つの物静かな女性の姿が浮かんだ。さっきは、彼女と雪江が完全に重なってしまった。――それは前世の俺の形式上の妻である女だった。

 この劇と同じように俺たちの中に愛情はなかったようだ。現に、その姿に心惹かれることはない。別にいつも通りの雪江にしか思えない。夢の中の王女様だって同じだ。ただの一介の登場人物に過ぎない。


「……ああ。悪いな、迷惑かけて」

「別にいいのだけれど……」

「いいえ、絶対大丈夫ではありません! 思えば、今日一日心あらずでした!」


 珍しくアリスは声を荒らげた。きりきりと俺の顔を睨んでくる。それなりに憤っているらしく、眉間に刻まれた皺は深い。口はへの字に曲がっている。


「何かあったのですか? アリスにお話しくださいまし!」

「……いや、別になにもねーよ。誰かさんに気持ちのいい朝の眠りを邪魔されたせいかもな」

 おどけてみせる俺の一言に彼女は一瞬虚を突かれた顔をした。

「ご、誤魔化さないでくださいよ」

「だから何ともないんだって。強いて言えば、週初めだからテンションが上がらない。――でもそんなこと言ったってどうしようもないだろ?」

「そうですけど……」

 アリスはまだ釈然としていない様子だ。


 しかし、たとえこいつに何を言われようとも、俺は本当のことを話すつもりはまだなかった。朝見た不思議の夢のことを、自分の中でもう少し咀嚼したかった。あまりにも理解が追い付いていない。

 本音を言えば、今日一日学校を休みたかった。それほどまでに、目覚めの出来事は衝撃的だったと言える。ふとした瞬間に、現実ではありえない光景が差し込んでくるのだ。謎の実感を伴って。


 いずれはちゃんとアリスに話すつもりでいる。でもそれは前世の記憶を完全に取り戻した、と言えた時だ。今はわからないことが多すぎる。


 未だに小難しい顔をする恋人アリスの頭を俺はそっと撫でた。柔らかい感触が指の間を抜ける。前世の妻と雪江が重なるのは気になったものの、今俺が好きなのは明城アリス――そこに一切の迷いはない。ようやく、彼女の顔が少しだけ綻んだ。


 無言のまま俺たちは演劇部室に入った。シナリオ班が何やら熱い討論を交わしている。しかし、すぐに侵入者の存在に気が付いて話し声が止まる。わざわざ座る場所を開けてくれた。

 班といっても、そんな大層なものではない。ここにいるのは唯一の女子部員中谷なかやと一年生副部長の大垣おおがき。二人はまだ練習に入っていない物語後半部分を検討している。もちろん、瀬田も関与しているが、俺たちの演技指導で手いっぱいなところはあった。


「お疲れ様です。もう終わりです?」

 中谷は時計を見上げながら声をかけてきた。

「いや、休憩だ」

 大垣の隣に腰を落ち着けながらさっと答える。


 中谷の近くにはアリスが座った。雪江は手慣れた様子で、畳まれたパイプ椅子を適当なところに設置する。それはここ数日の中で、持ち込まれたものだった。


「で、何を話し合ってたんだ?」

「先輩と明城さんの逃避行中の行動を洗い出してました」

 机の上にはA4のコピー用紙がいくつか散乱している。


「ここが説得力がいる部分ですから。だって、命を狙う立場と狙われる立場ですよ? 生半可なことじゃ、ここから恋愛感情には変わりません」

 中谷は黒い液体が入ったマグカップに口を付けると、少し顔を歪めた。

「そうだ。ちょうどいいから、アリスさんと雪江さんの意見も聞きたいです!」

 いきなり話を振られた二人はちょっとだけ驚いた顔をした。


 俺は大垣と顔を見合わせて、互いに肩を竦める。なかなかこの中谷史奈ふみえという眼鏡の少女は、その大人しい見た目とは裏腹に中々苛烈だった。何事もとことん詰めようとする。


「うーん、そうねぇ……」


 雪江は少し悩んでいるようだった。しっかり整えられた細い眉が歪む。かすかに漏れる吐息は悩める乙女そのもの。お転婆時代を知っている幼馴染の頃からすれば面白い。

 姿はそっくりでも、彼女と前世の妻とされる女は内面は全く違った。いや、あの人のことを俺は何も知らないんだ、と思い直す。あれはただの政略結婚で――


「恋のきっかけなんて、案外些細なものですよ」

 よく響くアリスの声が、俺の思考をかき消した。

「侍女さんは、そこまで幸人さんのことを恨んでなかったのかもしれません。自分の行いが八つ当たりだとわかっていたのかも」


 そう語るアリスの目はどこか遠い。かすかな笑みを浮かべているものの、それはどこまで行っても儚かった――

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