第六十九話 スイミングトレーニング そのに

 バシャバシャバシャ――アリスが軽快に水を蹴り飛ばしていた。その飛沫は、傍らに立つ俺の下にまで届いてくる。頭にかかり、あるいは着水し。とにかく、その速度はとても緩やかなものの、彼女は着実に前方へと進んでいる。


 あれから二時間。彼女は水に顔を付けることができるようになった。結果として、形の上ではここまで泳げるようにもなったわけだ。……ビート版という便利なもののお陰で。

 無論うちの学校にも、一応用意されている。最後のテストまでの授業の間に、それを使うことは可能だ。だが、計測の時には当然使用不可。つまりアリスは、その補助具なしで泳げるようにならなければならない。


 そんな俺の憂鬱感など、あいつにとってはどこ吹く風。徐々に俺と奴の距離は広がっていく。……というか、本当に遅いな、あれ。こんなんで大丈夫なんだろうか。


 ベストなのは今日中に片を付けること。今日のような事が二度も三度も起こったら、俺の身が持たない。水着姿の明城アリスはただの毒だ。今も俺を確実に蝕んでやがる。

 見た目だけならいいんだ。最悪見ないようにすればいいから。しかし、これは一応水泳の手ほどきを行っているわけで。そういうものには、当然、が伴うわけである。


 例えば――


 ありとあらゆる手段を講じた結果。アリスの水に対する恐怖心を薄めることには成功した。素潜りだって自由自在。となれば、今度は水に浮かぶことを目標とする……しかし、これがうまくいかなかった。


『ダメです、幸人さん。何度やっても沈んじゃいます……』

『ビビんないで身体をまっすぐ伸ばせって。それで案外何とかなるもんだ』

『そ、そう言われても……そうだ! ちょっと押さえててくださいませんか?』

 名案を思いついたかのように彼女はポンと拳で掌を叩いた。


 これで相手が男子だったら、まあいくらでもそうしてやる。浮かぶうえで一番大事なのは姿勢。変に身体が曲がっていたりすると、浮力がうまく働かない……意気揚々と解説してくれた大男は自分がそれをできるようになるまで、かなりの時間を要したが。


 ともかくも、はいそうですか、とはならない。気軽にボディタッチが行えるほどの勇気を俺は持ち合わせていなかった。


『ダメ、でしょうか?』

『いや、それは……お前は平気なのか?』

『何がです?』

『俺に触られて』

『まったく』

 彼女は平然とした表情で首を振った。


 まあそうだろうな。その答えは聞かなくてもわかってた。たまにある無意識の内に恥ずかしいことを口にしているパターンだと、期待してはいたんだが。

 こうなってくると、意を決するしかないわけで――


『ちゃ、ちゃんと支えててくださいよ……?』

『わかってるって』


 彼女はスーッと前に向かって身体を伸ばした。瞬間、その身体が見ずに浮かぶ。すかさずその脚を俺は掴んでやる。なるべく余計なことは考えないように。

 ある程度、落ち着いたところで、俺は手を離した……たちまちに彼女の身体が沈みそうになる。まっすぐとした姿勢を保てていないからだ。

 仕方なく彼女のお腹の辺りへ。さっとその下に手を入れるけれども――


『く、くすぐったいです、幸人さん!』

『仕方ないだろ、我慢しろって』


 すぐさま彼女は立ち上がってしまった。以降この繰り返し。いったい何度心臓が破裂することかと思ったことやら。


 その果てにこうしてビート板のお陰で、一応形になったわけだった。


 気が付けば、アリスはこちらに向かって真っすぐに進んできている。そのまま見ていると、ビート板の先がプールの壁に触れる。


「どうですか、幸人さん! 往復できました!」

 パーッと笑って彼女が近づいてきた。

「そりゃそんな便利なものがあったらなぁ」

「どうして素直に褒めてくれないんです? 怒りますよ、拗ねますよ……」

 子どもっぽく膨れて彼女は下を向いた。


「へいへい……わー凄い、凄い。よく頑張った」

 ぽんぽんと彼女の頭を叩く。

「冷たいなぁ、幸人さんは。イジワル……」

「はいはい、イジワルで結構。さ、次はそれなしでやるぞ」

「ダメです! わたくしとビート板さんは、運命共同体というか――」


 わけのわからないことを言っているあいつから、補助具を取り上げた。些細な抵抗にあったものの。しかし、心を鬼にするしかない。道のりはまだまだ果てしないのだから。





        *





 プールから上がり着替えを終えて、俺たちは二人並んで座っていた。エントランス部分に設置されたベンチ。辺りは閑散として、外から入ってくる光はすっかり弱くなっている。なんだかぐっと寂しい気分になった。


「一口ください」

「ああ――はいよ」


 自販機でアイスを買って食べていた。円柱状のやつ。俺は抹茶、あいつはバニラ。頼まれて、俺はあいつの口元にそれを突き出した。


 小動物みたいに小さくかぶりつくアリス。食べる姿はとても愛くるしい。どこか、その頬が上気して見えた。


「ありがとうございます。――わたくしのも食べますか?」

「いや、いい」

 よ、とは言えなかった。見る見るうちに悲しそうな顔をしたからだ。

「じゃあ貰おうかな」

「はい! ――あーん」


 彼女もまた自身のアイスを俺の口元に差し出す。同じようにして、俺は小さくかじりついた。


「サンキュー」

「いえ、わたくしの方こそ……」

 照れたように顔を赤らめて、あいつはまた自分のを食べ始めた。


 アリスの水泳は、まあ形にはなった。体育の授業ではたぶん困らないレベルだと思う。泳げなくても、何とかはなるから。流石に顔つけれなかったり、潜れなかったりだとあれだけど。もう少し補足しておくと、まだ二十五メートルは無理。


 しかし、アリスに俺が何かを教えることがあるなんて。テスト前とはすっかり立場が逆転だ。彼女の力になれたのならば嬉しい。恩返し、というわけではないけれど。


 すっかり食べ終えて、やがて彼女は俺の方に顔を向けてきた。俺ももちろん正面からその顔を捉える。


「幸人さん、今日は本当にありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げると、奇麗な銀髪が宙を舞った。

「気にすんなよ。楽しかったし」

「そうですか? でもずっとお暇だったでしょう?」

「全然。お前と一緒だったら――って、アリスのセリフだな、これは」


 顔を見合わせたまま、俺たちはどちらともなく笑い合った。――人生で、今この瞬間が一番幸せだ。俺は胸を張って言える。こうして休日に恋人とどこかに遊び行くなんてこと、今まで考えたこともなかった。しかし、実際に経験してみれば、こんなにも楽しい時間はないと思わされる。


 そのまま軽く唇を重ねた。周りには誰もいない。すぐに離す。時間にして、数秒だろうけど、俺にはそれで十分だった。


「えへへ、またしちゃいましたね……」

「……それもこんなところでな」

「幸人さんって、意外と積極的なとこ、ありますね」

「お前には負けるけどな」

 その言葉に彼女はくすりと笑みをこぼした。


「帰りましょうか」

「……だな」


 手を繋いだまま立ち上がる。俺はすっかり明城アリスに夢中になっていた。こんなに奇麗な子が自分の彼女だなんて、たまに信じられなくなる。


 出口を向かう途中、掲示板を通りがかった。一枚の張り紙が目についた。アリスも同じようで、ふと足を止める。――市内で唯一の屋外プールのポスターだった。


「今度はこういうとこ、行きたいなぁ、なんて」

 意味ありげに彼女はこちらを見上げてくる。

「……ちゃんと泳げるようになったらな」

「知らないんですか? こういうとこなら、泳げなくても問題ないんですよ?」

 ちょっと揶揄うように彼女は微笑んだ。


「流石に知ってるさ。ご褒美、ってやつだよ」

「うふふ、頑張らなくては!」

 張り切った様子を見せるアリスを俺は微笑ましい想いで見つめていた。


「それ用の水着を準備しないと、ですね。……それとも、幸人さんは学校のの方が好みですか?」

「……お前なぁっ!」


 アリスは悪戯っぽく笑う。俺がちょっと怒ってみせると、キャッと小さく叫んでたちまちに走り去ってしまうのだった。


 完全にバカップルだな、これ……。ちょっと冷ややかに自分の行動を顧みながらも、俺はあいつを追った。その自由に踊る髪の毛に、俺は奥底の記憶が揺さぶられる気分だった。

 ――この時が永遠に続きますように。ふとそんなことを想ってしまったのは、どうしてだろうか。悪ふざけだとわかっていつつも、なぜか彼女の背中に寂しさを覚えてしまう。

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