第六十八話 スイミングトレーニング そのいち
まさかこの年になって、こんなところに来ることになるとは……全く予想していなかった。最後にここを訪れたのは、たぶん小学校の時だと思う。
人はそんなにいない。果たしてそれが土曜日の午後一時という時間のせいなのか。それとも普段からこうなのか。俺には判断がつかなかった。
とにかく壁際に立って、あいつが来るのを待つ。やっぱり家族連れが多いなぁ、というのがぱっと見の印象だ。子ども用のスクールでもやっているらしく、レーンのいくつかは使用が制限されている。
しかし、今週はイベント盛りだくさんだ。昨日までは、学祭に向けてのダンスと演劇の練習が毎日あった。今のところは、亀のような歩みながらも順調。これがあとひと月近くも続くわけだが。
そして今日は――
「幸人さーん! お待たせしました」
俺たちは地元のプールを訪れていた。以前頼まれていた、泳ぎを教えるという約束を果たすために。
「おう、アリ――」
聞きなれたふわっとした女性の声が耳を撫でた。ゆっくりとその方を向く。目に入った彼女の姿を見て、俺は思わず言葉を失った。
身に着けたるは、学校指定の水着。だから、いわゆるスクール水着と呼ぶべきもの。紺色の張りのある生地が彼女の太腿部分までをしっかり覆っている。故に、露出は極度に抑えられていた。さらに赤いラインが横腹の部分からぐねぐねと伸び、胸元右上には古井戸高校の校章。あの自慢の銀髪は同系色のスイミングキャップにすっかりと収められている。
彼女の瑞々しい四肢はひたすらに眩しい。改めて見ると、本当にスタイルが良いな、こいつ。かつてない程に胸元の膨らみは主張が激しく、腰はきゅっとクビレて。過度に肌が曝されているわけでもないのに、とても目を惹かれてしまうというか……。いつもとは違う雰囲気で、すごい緊張する。
思えば、同級生の水着姿を見るのは高校に入ってからは初めてのことだ。授業は男女別だから。学のようにそれを惜しむ奴や、毎年のようになんとか女子のプール授業に潜りこもうとする奴がいる理由がよくわかる。これは確かに、心揺れるものがある。
「ゆ、幸人さん?」
その口調はどことなくぎこちない。
「……どうした、アリス?」
「あ、あの、あんまりじろじろ見られるのは、その……」
彼女は手を前に回してもじもじし始めた。とても恥ずかしそうだ。実際その顔はかなり赤いし、唇を少し口の中に巻き込んでいる。
しかし、その姿がまた、こちらの何か危険な感情を煽る。おおよそ、ここがプールという公共機関でなければ、俺はとても理性を保てていなかっただろう。……なんで、こいつはこんなに可愛いのか。
「……悪かったな」
俺は顔を逸らした。
「いえ、別にその、いいんですけど。やはり、時間と場所を弁えるべきではないかというか……」
めちゃくちゃに気まずかった。俺もだが、向こうもかなり照れているらしい。やはりプールデートは俺には荷が重かった。もう今すぐにでも逃げ出したい気分だ。
「とりあえず向こう行くか」
こくりと、彼女は頷いた。とても、神妙な顔つきだった。
ここは子ども用のプール。向こうのガラガラなところが大人用の場所。そちらのプールサイドを目指す。渇いた床はやがて、湿り気を帯びていく。後ろからペタペタという音が絶え間なく追いかけてくる。
「さてと、まずはちゃんと準備運動しなきゃ、だな」
依然として、アリスは黙ったまま。いつも底なしに明るいこいつが、そんなにしおらしいと調子が狂う。そして、同時に尚更愛おしく思ってしまう。
とにかくそのまま身体をほぐしていく。準備体操の最中、俺は決して彼女のことをなるべく見ないようにしていた。その、色々と危ない感じが多かったからだ……。
*
手で水をかく。足で水をはじく。ぐんぐんと身体が前に進んでいく。この感じは気持ちがいい。心の底から楽しいと思えた。
去年までは、多くの生徒と同様、プール授業はどこか憂鬱でしかなかった。成績の稼ぎどころだと割り切って、機械的にタスクをこなしたものだ。しかし今はその気持ちもすっかりどこかにいってしまっている。
こうして水に浸かって、自在に身体を動かしているのが本当に心地よい。そして、思う。なんだかかんだいって、俺は泳ぐのが好きだったんだなと。
プールの壁に指が触れたのはこれで四度目。溝になっている縁を掴んでぐっと身体を引き寄せる。そして、底の部分に足をついた。
「すごいです、幸人さん!」
プールサイドに脚だけ浸けて座るアリスの声が降ってきた。パチパチパチという拍手のおまけもついて。とても盛り上がっているのが伝わってくる。
「……これくらい大したことねーけどな」
俺はあえてあいつの方は見ずに言葉を返した。
「いえ、もう、わたくしからしてみれば、考えられないくらいの偉業です!」
それは流石に大げさすぎるんじゃないかと思ったが、悪い気はしなかった。これが皮肉屋の友人とかだったら、素直にその言葉を受け取らない。しかし、アリスは心の底から言ってくれていると思った。
誇らしいと同時にちょっと気恥ずかしさを覚える。タイムは現役水泳部員の足元に及ばないほど。自己ベストからもほど遠い。しっかり測ったわけじゃないから正確な数字じゃないけど。決して、速いものではないからだ。
何とか準備体操を終えた俺たちは、いよいよ泳ぎの特訓に入っていった……わけではなかった。アリスのやつ『ちょっと泳いでみてくれませんか』と頼んできた。なので、こうして今、百メートルほどクロールを披露してみた次第である。
ゴーグルを外して、彼女の方に身体を向ける。思った通り、満面の笑みがそこにはあった。しかし、何度見ても水着姿には慣れない。もうほんと、どこ見ていいかわからなくなる。
「……ほら、アリス。お前も入ってこいよ」
「は、はい……あの、手を握っててもらってもいいですか?」
「いや――ああ、わかったよ。ほい」
なんでそんなことを、と思ったが、きっと苦手意識みたいなものがあるんだろう。その心中を勝手に察して、その言葉に従うことに。
俺はアリスの方に腕を伸ばした。そろそろと、彼女は手を掴んでくる。ちょっとだけ力強い。しかしやわかい感触がある。そして、彼女はおそるおそるプールに入ってきた。
軽く水飛沫が上がった。そして、アリスはちょっとその身体を俺に近づけてくる。もはや手を握るじゃなくて、俺の腕にしがみつく、になっていた。
「あの、アリスさん? 近いんだけど……」
胸のどきどきを必死に抑えながら、窘める。
「す、すみません、つい……」
それで少しだけ離れてくれた。しかしその手は握ったまま。
「で、どの程度までできるんだ?」
「ここまでです……」
「……いや、あの、まだ何もできてないと思うんだけど」
「浸かるのだけで精いっぱいなんです!」
その響きは悲痛さに満ちていた。
「わたくし、本当に水は苦手で……」
「猫みたいなやつだな、お前」
どちらかといえば、普段の身の振る舞い方は犬に近い気はするけど。たまに彼女の背後に尻尾が見える、というのはここだけの話。
「というかさ、今までプール授業なかったのか?」
「小学校の時はありました。でも結局、苦手意識は克服できずじまいで……」
彼女は悲しそうに首を振ってしまった。
これは思ったより骨が折れるかもしれない。果たして、俺の手に収まりきるのかどうか。いっそのこと、向こうのスイミングスクールに送り込むことを真剣に検討するのも、ありかもしれない。
「とりあえず、水に顔を付けてみてくれるか?」
「無理です!」
「……お帰りはあちらです、お嬢様」
俺は堪らず更衣室の方を指さした。ため息をしながら、強く首を左右に振る。始まる前から、クライマックスというやつだな、これは……。
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