恋人たち

第六十一話 新しい日

 月曜日。いくつかあるうちの学生の試練である定期テストも終わり、俺はすっかり解放感に包まれていた。暫くは平穏な日々が続く。母の作った味噌汁に舌鼓をうちながら、しみじみとそれを噛み締める。

 食卓には白波家の人間全員が揃っていた。あのだらだら大学生も今日は一限があるらしい。大学に行く準備をすっかり済ませ、ちょこんと俺の左隣に座っている。


「そういえば、あんた、テストの結果はどうだったの?」

 正面にいる母さんが興味なさそうな目を向けてきた。

「文系四位だった」

「へ~、それってすごいの?」

「なんで俺は朝っぱらから従姉に煽られないといけないんだ……」

「頑張ったじゃないか、幸人。何かあったのか?」

「別に、突然勉強に目覚めてもいいだろ?」

 俺はぶっきらぼうに答えながら、最後の一口となった白米を口に放った。


「アリスちゃんね」

「アリスちゃんだわ」

「アリスちゃんなのか」

 俺以外の三人が順繰りに声を出す。こいつら、変に息を合わせやがって。


 ピンポーン! その時、チャイムの音がリビングに鳴り響いた。ほぼ同時に立ち上がるは母さん。軽やかな足取りで、インターホンの受話器の方へ。


「アリスちゃんだわ!」

 嬉しそうに言うと、母は部屋を出て行った。


「噂をすればってやつね」

「へー大学生らしく難しい言葉知ってんだな」

「ちょっとおじさん! 息子の教育どうなってんの?」

「それをそっくり俺の姉にも言っておくよ」

「失礼ね、誰が息子よ!」


 変な揉め方をしている叔父と姪をよそに、俺は関係ない顔しながら味噌汁を飲み干した。他の皿もすでに平らげてある。俺はそのまま席を立った。


「行ってきまーす!」


 返事がなかったのは、未だにくだらないコントを繰り広げているからだった。後始末はうちの母に任せよう。……というか、なんですぐ戻ってこないんだ。その答えはすぐに明らかとなった。

 玄関では母さんとあいつが談笑している。その恒例となった日常風景に、今さら驚きを覚えることはない。当たり前のものとして、処理する。

 しかし、あの土曜日ぶりに会うものだから。少しだけ、変な感じはしていた。彼女の姿を見ると、ちょっと心がふわふわとする。むず痒い感じ。一つ太く息を吐いて、俺は二人に近づいていった。


「あ、幸人さん、おはようございます」

 俺に気が付いて、彼女は深々と腰を折る。こいつは普段と変わらないらしい。

「おう、明城。お変わりないようでなによりだ」

「こらっ、ちゃんとあいさつしなさい! あんたを気に入ってくれる子なんて、もう二度と現れないかもしれないんだから」

「……それを自分の息子に言うのはどかと思う。――あと、テーブルヒートアップしてるから早く戻った方が良いぞ?」

「あらあらまあまあ」

 コミカルな言葉を吐くと、ようやく母親はリビングに戻っていった。


 その姿をが消えるのを待って、俺は階段のところに置いておいた二つの鞄を持ちあげた。そして、一度あいつの方を見る……なぜか不機嫌そうな顔がそこにあった。さっきまであんなに晴れやかな顔してたのに。


「どうした?」

「つーん」

 謎の効果音と共に彼女はそっぽを向く。

「また子どもっぽいことを……。なにに怒ってるんだ?」

「自分の胸に手を当てて考えてくださいまし!」


 謎の怒りでぐっと目を細めながら、あいつは俺の胸元に指を突きつけてきた。探偵ドラマの謎解きシーンよろしく、とても様になっている。

 実際にそうしてみたものの、俺にはやはり思い当たる節はなかった。その前の時点で、まだ一言しか話してないわけだし。

 まあいいか。たまたま機嫌が悪い日とかなんだろう。気を取り直して、靴を履くことに。そのまま扉の方に向かおうとしたら――


「あの、どいてくれない?」

 目の前に奴が立ち塞がった。相変わらずふくれっ面のまま。

「なんでわたくしが怒っているのか、わかりましたか?」

 ぐっとその身を近づけて、彼女はなおも下の方から凄んでくる。


「いや、全く」

「じゃあ通せません」

 今度は腰に手を当てて、ふんすと鼻を鳴らしてきやがる。


「何してるの、二人とも?」

 そこへ、食事を終えたと思しき従姉が通りがかった。

「いや、明城が――」

「ほら、また!」

「はっ? ……ああ、そういうことか」

 ようやく俺にも察しがついた。


「朝からお熱いわねぇ。でもほどほどにしないと、ダメだと思うな、まり姉は」

 呆れたように首を振る彼氏いない歴=年齢の二十一歳。

「へいへい、悪うござんした。――ほら、行くぞ、!」


 彼女の名前を呼びながら、強引にその手を取る。そのまま玄関の扉を押し開けた。


 後ろで野蛮な悲鳴が聞こえた気がしたが、気のせいだろう。すぐに扉を閉める。


「は、はいっ! このアリス、どこへなりともお供しましょうとも!」

「いや、目的地は学校だから……」


 たかが名前を呼んだくらいでありえないくらいに嬉しがるアリスの様子に、俺はとても穏やかな気持ちになるのだった。

 




        *





 うちの高校は珍しくプールの授業がある。男女は完全に別。六月は男子。七月は女子。元々、水泳をやっていた俺としては成績を稼ぐいいチャンスではある。

 だから、三時間目の今、俺たちは高校のビニールプールにいた。水泳部の活動場所である。学は授業の始まりからずっと元気だ。


「はぁ。何が悲しくて、男たちとプールでキャッキャしなきゃなんないのさー」

「仕方ないだろ、そういうもんなんだから。そして、そういう言い方はやめろ」

「体育なんていっそのこと、無くなればいいのにな!」

「お前は平常運転だな……」


 プールサイドに立ちながら、友人との雑談にかまけていた。四六時中水に浸かっているわけではない。準備運動をした後はひたすらに、交代交代で泳ぐだけ。そして最後の授業の時の記録会の結果で成績が決まる。正直、他の科目に比べて緩いと俺は思っている。……中には、剛のように泳ぎが苦手な奴もいるが。

 フェンス越しに見える校庭では、女子たちが様々なスポーツに打ち込んでいた。テニス、サッカー、ソフトボールというのもある。体育館はバスケだったかな? 所謂選択科目、というやつだ。ふと、あいつは何をやっているのか気になった。


「でもさぁ、幸人も明城さんの水着姿見たかったでしょ?」

「……お前なぁ、さっきからなんでそんなに邪なことしか考えてねえんだ」

「いやいや、考えても見なよ? 普段の体育の格好からして魅惑のダイナマイト――」


 ボチャン! 皆まで言わせずに、俺は思いっきり友の背中を押した。面白いように、その身体はプールに沈んでいった。

 激しい水飛沫が上がる。空に上がった水滴が、ぽたぽたと俺たちの足元にまで落ちてくる。その余波で、授業が完全に止まってしまった。


「先生! 小峰君が早く泳ぎたくてたまらないそうです」

「お前はマグロか……じゃあ端、使ってていいから。ほら、気にすんな。続けろー」

 体育教師の呆れた声で、再び同級生たちが泳ぎ始める。


 そして、学がこちらに上がってくることはなかった。そのまんま言われた通りに、プールの反対側へ。そして、ゆっくりとクロールを始める。ちなみにあいつの専門はメドレーだ。


 つい、手が出てしまった。ちょうどアリスのことを考えていたこともあって、激しく動揺しただけなんだが。しかし、あいつの水着か……って、何を考えているんだか、俺は。付き合い始めたのは、一昨日のこと。さすがにまだ早い。


「おい、どうした、幸人?」

「いや、あいつの水着姿なんか――」

「ほう。なるほどねぇ?」

 剛の目の奥が光った気がした。

「そういや、朝、お前らの様子なんか変だったよなぁ? 明城のことを名前で――」


 ドボンッ! またしても俺は友人をプールに沈めた。余計なことを言うからそうなるのだ。一応、先生に声をかけておく。


「おいおい、今度はリッキーかい? いいか、お前ら。あんまり勝手に飛び込まないように!」


 手近にいたクラスメイトとアリバイ作りの談笑をしながら、俺はぷかぷかと浮かぶ運動音痴の友人に冷たいまなざしをくれてやることにした――

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