第五十八話 下る神判

 最後の科目は日本史だった。テスト終了まで、あと二、三分。俺は何度目かの見直しを終えた。正直な話、社会科目のテストはいつも時間が余る。暗記事項を思い出し、忠実に答案にそれを再現する。考えればわかる、という問題は基本的にはない。

 だからか、目の前の親友小峰学は早々に白旗を上げていた。ずっと机に突っ伏して、ピクリとも動かない。教師たちもわざわざ注意したりしない。諦めているからだろう。どの科目もこんな感じだから。まあ、こいつには水泳があるからいいのかもしれない。先の土日にあった大会もぶっちぎりの成績で優勝したし。


 俺の解答欄は全て埋まっている。いつもよりも丁寧に字を書いた。漢字の間違いもない。俺は確かな手ごたえを感じていた。最終日、ということはそれだけ勉強に時間がかけられる。おかげで、試験範囲の内容は隅々まで覚えた。ただし、文化はちょっとだけ怪しいものがあるけど。仏像ってどれも同じように見えますよね?


 さらにいえば、今までの科目もかなりのできたと思う。周りと終わった科目の答え合わせをしても、そこまでのずれはなかった。ここまでできた、と思えたのは人生初めての中間テスト以来かもしれない。受験の時ですら、あんまり自信はなかった。

 

 とりあえず、俺はペンを置く。教室の時計を確認すると、あと十数秒もしたらチャイムが鳴る。俺は一つ静かに息を吐くと、ぐっと背もたれに身体を預けた。そしておもむろに腕を組む。

 教壇に立つ監督の教師と目があった気がした。溝口先生だった。前から二列目だから距離は近い。勝手に気まずさを覚えて視線を外したら――


「はい、終了! 手を止めて、後ろから答案用紙を送れよー」

 ぱんぱんと二回彼は手を叩いた。


 間を置かずして、後ろの席のやつ――瀬田に紙束で背中を触られる。ちょっと背中を回して、その一番上に自分の答案を重ねて、同じように学の背中を叩いた。

 だが――


「起きろ、学。回収」

「ずずずず~」

「溝口先生! 前の席のやつが起きません!」

「……小峰、終わる時ぐらいはしゃきっとしような」


 あはは、とテスト終了後の教室が、場違いな笑い声で包まれた。


 ようやく目を覚ました水泳バカに答案を押し付ける。担任が気怠そうにそれを受け取って、次の列へと動き出した。


「お前、大丈夫かよ」

「へーき、へーき。かすり傷程度の致命傷で済んだよ」

「軽傷なのか、重傷なのかどっちだよ……」

「白波君は大変だねぇ、心中お察しするよ」

 

 いつも通りの頭が痛くなるやり取りをしていたら瀬田に慰められた。テストの時は出席番号順の座席になるから、彼ともよく話す。

 顔を向けると、とても気の毒そうにしていた。眼鏡をかけて、ちょっと垂れ目。鼻はべたっと潰れているが、人懐っこい柔らかい印象を与える顔立ちだ。これで演劇部部長だというのだから、人は見かけによらないというか。いよいよ来月に迫った学祭でも何かやるらしく、ちょっと忙しいらしい。


 そのままの流れで、帰りのホームルームが始まった。担任が試験監督だと、話が早くて助かる。他のクラスに行っていると、こうもスムーズに事は進まない。

 内容は取るに足らない注意事項くらいだけ。みんな、テストが終わったという昂揚感からかあんまり真面目には聞いていないみたいだったけど。


 号令係が終わりのあいさつをして、ようやく下校時間になった。今日からは部活動も再開。目の前の男はさっさと片づけを済ませると「じゃあね幸人、また明日」と言って、教室を出て行った。机には椅子が掛けられている。俺に下げろ、ということらしい。


「はぁ、小峰君は本当に部活ガチ勢だね」

「でも瀬田もそうだろ? 今日演劇部、あるんだろ?」

「まあね。そろそろ劇の内容を決めないと――それじゃあ白波君、また」

「おう、じゃあな。部活頑張れよ」


 手をひらひらと振って後ろの男が去っていくのを見送った。そして、俺も立ち上がる。


「ユキトさーん。一緒に帰りましょー」


 机を下げ終わった後に、明城がやってきた。吉永も後ろにちょこんと控えている。まあいつも通りのことなので、今更どうということはない。


「あいよ」

「大力くんは……」

「先帰ったかもな」

 

 その姿は教室にはなかった。廊下側一列目後方、そこが奴の席。俺たちを待つようなタイプでもないからな。昨日までは、俺と学がさっさと帰る準備して急いで捕まえに行く、というのを繰り返していた。そして明城たちは後から遅れてやってくる感じだ。

 俺の返答に、吉永はどこか残念そうにした。俺と明城に一人混ざるのが気まずいのかもしれない。剛もよく苦々しい顔をしているのを思い出す。そこはあいつに自重してもらうしかない。


 やはり、剛の姿は廊下にもなかった。そのまま三人で階段を下りていく。二人が女子特有の話題で盛り上がっているので、疎外感を覚えながら玄関へ。かなり混雑している。


「あの、一応聞きますけど、今日も……」

「ああ、悪いけど。結果が出るまで待って欲しい」

「わかりました!」

 明城は別に落ち込みはしなかったようだ。


「何の話?」

「ユキトさんが構ってくれないっていう話ですよ、唯さん」

「……喧嘩でもしてるの?」

「そういうことじゃあないけどな。一人でのんびりしたい時もあるんだよ」

「ふうん。――そうだ! アリスちゃん、私と遊びに行こうよ。今日でテストも終わったんだし」

「はい、いいですよ。どうします?」

 そのまま、またしても女子だけで盛り上がる。


 今日までの間、土日も挟んだし、早帰りの日も挟んだ。つまりはどちらかの家で勉強する機会があったんだが。明城にはテストの結果が出るまでちょっと距離を置きたい、と頼んであった。

 これ以上ふわふわした関係を続けるつもりは、俺の方にはなかった。意図は説明しなかったけど、明城もすんなり納得してくれた。あとはその日を待つだけだ――





    *





 一週間後の金曜日。テストは順当に返却され、つい昨日申し立て期間も終わった。どの科目もとても結果はよかった。平均点は九割にちょっと届かないくらい。過去最高得点なのは確かだ。

 競争相手である明城の結果は知らない。あえて聞かないようにしていた。吉永が答案用紙が返ってくる度に興奮してたから、かなりの高得点なんだろうが。


 さらに、中間テストが終わった、ということでいよいよ校内全体が学祭に向かって動き出していた。うちのクラスでも前日のステージ発表と当日の模擬店の内容が決まった。そして、別の問題が発生していたが、それはまた別の話だ。

 音頭を取っているのは柳井一派。昼休みや放課後、わいわいやっている姿を度々目撃している。クラス委員と実行委員も混じっているため、順調に色々なことが決まりだしているらしい。近々のところでいえば、来週からダンス練習が始まるとか……面倒くさいが、全員参加なので仕方ない。


 とりあえず、今日がいよいよ待ちに待った順位発表の日。帰りのホームルームが終わるなり、三階の中央掲示板までやってきた。うちの高校では学年で上から五十番目までが張り出される。知ってはいたが実際にこうして目にするのは初。

 しかし――


「文理別だからか」


 三階の中央掲示板を前に、隣に立つ剛がぽつりとつぶやいた。他のメンバーは明城と吉永。そして部活に向かう道中の学。五人横並びになって、順位を見に来た集団の真ん中あたりにいる。

 やはりたくさんの人間が順位に関して気になるらしく、あらゆるクラスから生徒たちが集まっていた。かなりざわざわしている。


 掲示板に貼ってあるのは二枚の紙。右が文系、左が理系クラス。今回はそれぞれ三十位までしか掲示されていなかった。まあどっちだってかまわないんだけど。

 俺は右の紙を緊張の面持ちで上から視線を下げていく――


「うわっ! また剛が一位かよ!」

「素点も理系クラスの人より上だね。すごいなぁ、大力くんは」

「まあ別にこれくらいは」


 三人、文系一位もとい学年一位の話で盛り上がっている。逆にそうじゃない方が想像がつかないから、驚きはない。俺は心の中で、その勤勉な男のことを称賛していた。


 目的の文字列を発見して、俺はたまらず視線を外した。それぞれ上から三つ目と四つ目。愕然とした。その瞬間に周囲の喧騒が遠のいていく気がした。胃と腸がキューっと縮む。心臓の鼓動は嫌なくらいに速い。全身から力が抜けていく。

 その感覚に俺は覚えがあった。中学一年生の時に二度。地に足がついていないような、ふわふわとした感覚。しかしそれは紛れもない現実で――


「先、戻ってるな」


 四人にそっと声をかけて、俺は一人集団から抜け出す。誰かが俺の名前を読んだ気がしたが、よくわからなかった。友人たちの表情すら記憶にない。

 自信はあった。手応えはあった。だから、俺はこの事態を想定していなかった。これからどうすればいいんだろうか。失意のまま、俺は一人賑やかな廊下をぼんやりと歩いていく。

 やはり手の届かないものはあるのだろうか――

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