第四十話 午前授業の最終日

 高体連期間の午前授業は金曜日まで続いた。今日まで俺は、明城アリスの家に毎日通い詰めた。三日間、昼飯をお世話になって。数学、生物、英文法――それぞれ種類を変えて教わって。


 正直な話、一日目――水曜日の突然の誘いからそのことをぼんやりと予期していた。しかしそれは確実に自惚れであって、なるべく考えようにしていた。


 しかし――


『ユキトさん、今日は何が食べたいですか?』


 木曜日の放課後。あいつの発した第一声がこれである。俺の気持ちなどお構いなしに。その前日の反省を生かした見事な先制攻撃で会った。

 それはゲームのおどかし攻撃のようだった。その言葉を耳にしてしまった二人の友人は、蜘蛛の子を散らしたように逃げて行った。俺だけが耐性があったせいで逃げ損ねたわけである。


 たぶん断ることもできただろう。しかしその時脳裏に浮かんだのは、うまい言い訳ではなかった。寂しそうに食事をとる彼女の姿。あの広い家の――いい言い方をすればよく片付けられた、しかし実のところは殺風景でもある――あのリビングに一人佇む銀髪の少女に思いを馳せてしまったのである。


『親子丼』


 結果、俺の口は自分の意思とは勝手に動いた。なぜ、だったのかも永遠に謎のまま。

 しかし、そんな他愛ない俺の返答はその後の運命を決めた。――ちなみに、料理はとても美味しかった。ダシがよく聞いて、卵はトロトロで、鶏肉は柔らかくジューシーで……すみません、考えただけでお腹減ってきちゃいました。


『青椒肉絲』


 今日の返答はこれだった。明城は和洋中、全ての料理に精通しているらしい。シャキシャキの筍、味の染みたピーマン、旨味の詰まった細切りの豚肉。だから、思い出すのを止めろ! 今は夕方、口の中に唾液が満ちる。お腹減ってきた……。


「ユーキートさん! 手が止まってますよ!」


 その声でようやく俺は現実に立ち返った。いかんいかん、空腹状態と疲れで意識が旅立っていた。ぱんぱんと頬を軽く叩く。気合が入った、ということにします。


 彼女はとても心配そうな顔して手元を覗き込んできた。予想以上に近い場所に彼女の顔があって、どきりとする。慣れたはずなのに、不意打ち気味だったせいで動揺を隠せずにいた。


「大丈夫ですか?」

 なおも追い打ちをかけてくるので、つい俺は身体を反らす。

「――ああ。どうして、小文字のビーとディーは似ているのか、考えてた。そうじゃなかったら、俺の気のいい水泳が得意な友人は不幸なことにならずに済んだのに」

「……小峰さん、間違えて書いたことあるんですか?」

 明城は気の毒そうな顔をした。

「『bed』が『deb』になっていた。それを思い出していたんだ」


 私はベッドを五つ持っているが、そのうちの一つはスウェーデン製です。俺が手を止めていたのは、ちょうどその問題を英訳する問題だった。

 しかし、それを見たとはいえ、よく咄嗟にそんなろくでもないことを口走れたものである。今のは中一の頃の記憶。ちなみにこの間まで、寝ぼけてたのか間違えていたのを俺は知っている。


 そんなことより、この問題だ。関係詞について深く教わった今となっては、この程度恐るるに足らず。さらさらとルーズリーフに英文を記していく。

 

「はい、正解です!」


 パチパチパチと、彼女は大げさに拍手をしてくれた。これまた過度に強調された笑みまで浮かべて。勢い頭まで撫でてくるんじゃないか。そんな雰囲気である。


 俺は子どもじゃないんだ。冷めた気持ちでそれを受け止めて、俺は次の問題に取り掛かる。またもや、英訳問題。


「そういや夕飯なんだけど」

「あっ、もしかして今日こそは食べて行ってくれます?」

「いや、それはない」

「そんなにすげなく否定しなくとも――そこ、スペル間違ってます」

「あ、ほんとだ……母さんが夕飯ご馳走するって」


 俺はぱっぱと消しゴムで消して該当箇所を直す。『government』はどうして変な位置にがあるんだろうか。永遠の謎である。

『流石に三日も昼食を世話になっちゃ、何かお礼をしないとね』と言うのが母の言い分だった。明城が一人暮らしだから、たまには大勢で食卓を囲むのもいいだろう。口論(はなしあい)を経て、そんな共通見解に至った。


 と、そのいきさつに思いを馳せていたら、急激に沈黙が訪れたことが気になった。ふと顔を上げる。真正面にいるあいつの腕組みをしながらじっと目を閉じていた。そうして、静かにしている時が一番になっていると思う。

 やがて瞼を開けると同時に、その顔が一気に上気した。ぐっと身を乗り出してくる。


「実家にご挨拶、ということでしょうか!」

「すぐにステップを吹っ飛ばそうとするのは止めろ」


 俺はそっとその頭を押し返した。滑らかな髪の感触を指に感じる。少し退いたのを確認して、すぐに手を引っ込めた。


 全くこいつは相変わらずだな……。なんともいえない想いを胸に抱えつつ、俺はまた次の問題へと狙いを定めた。





        *





「お邪魔します」

「はい、いらっしゃい、アリスちゃん」


 玄関を開けると、嬉しそうな表情のエプロン姿の母さんが待ち受けていた。リビングの入口からは、占い大好き女子大生がニヤニヤしながら顔を突き出している。

 全くそういう悪趣味なところが、いまいちその歳になっても彼氏いない歴=年齢たる原因だと思う。とりあえず、きつく睨みつけてやった。


 明城は俺の提案に二つ返事で乗った。そして一緒に我が家へと帰還したわけである。昨日一昨日と感じていた帰り道の寂しさなど粉みじんに消え去った。

 しかし、こうして一緒に帰ってくるという体験は新鮮で、俺の心を落ち着かなくさせた。しかもこの後晩御飯を一緒に食べるということで、心臓が張り裂けそうなくらいにしんどい。


「本日はご夕食にお招きいただき、本当にありがとうございます」

 

 堅苦しい言い回しに、丁寧極まった所作。彼女はスカートをちょこんと、優雅にたおやかに腰を折ってみせる。

 明城は制服姿ではなかった。お呼ばれするなら、と謎の気合を見せて、私服に着替えた。黒のシックな感じのするスカートの上は、白の無地のトップス。他の装備アイテムは小さなハンドバック。大人びていてお淑やかな雰囲気。いいとこのお嬢さんっぽい……あんなところで一人暮らしをしているわけだから、実際その可能性は高いけど。


「あらあら、これはご丁寧にどうも。ほんと、不思議よね~。どうしてこんないい子がうちの子なんかと。これからも仲良くしてあげてね」

「ええ、それはもう是非に! 死がふたりを分か――」

「二人して変なことを言うんじゃない! それより、母さん。お客人をこんないつまでも玄関に止めてよろしいので?」

「あら、あんたにしてはいいこと言うじゃない。ささ、どうぞ、アリスちゃん」

 明城が口走ったあの余計なことは、母の頭からはすっかり吹っ飛んだらしい。


 ようやく、母さんを先頭にしてリビングへと向かうことに。例のゴシップ好きの従姉は、俺たちが動き出したのを見て慌てて首を引っ込めた。亀みたいなやつだな、あいつ……。

 しかし、俺の疲労感はもはやピークに達しようとしていた。こんなものまだ前座だというのに。明城はいつも通り絶好調。俺の母も、おばさん特有の余計なおせっかい心を全開だし。ここに、まり姉まで合流したら――俺はもはや逃げ出したくなってきた。


「適当なところに座っちゃって。すぐに準備できるから」

「はい、ありがとうございます!」

「ほら、幸人。案内してあげて。そういうのは、男の仕事よ」

 ぽんと軽く肩を叩かれた……痛い、体罰だ!


 しかし、案内ってもなあ……リビングの入り口のところから、奥まったところにある食卓はよく見えるわけで。釈然としないながらも、今度は俺が明城を連れたって歩く。


「こんばんは、アリスちゃん」

「こんばんは、麻理恵さん。今日はお邪魔いたします」

 

 ソファの近くを通る時、だらしなく寛いでいたまり姉が声をかけてきた。さっきまで入口近くにいたはずなのに、恐ろしいまでの早い身のこなし。そして、誤魔化しぶり。俺じゃなきゃ見逃しちゃうね。

 彼女は部屋着姿ではなく、しっかりとした服装をしている。大学から帰ってきたばかりか。あるいは、客人が来るとしってあえてそうしているのか。思えば、母さんもいつもよりしっかりした格好をしている気がする。

 

 そんな彼女に対しても、明城はしっかりと挨拶をした。そんな丁寧にお辞儀を繰り返して疲れないのかと、ふと思う。俺だったら適当に会釈して終わりにする。


「今日はゆっくりしてってね」

「はい。お世話になります」


 そのままソファの後ろを通って食卓へ。どこが上座とか、そういうことはわからなかったので、奥側に座ってもらって俺もその隣に腰を下ろす。まもなく、まり姉も俺の正面にやってきた。

 空いた席は一つ。俺はここであることに気が付いた。


「父さんは?」

「今日も遅いんだって」


 であれば問題はないのか。食卓は四人掛けだから、その点が気になった。家庭内ヒエラルキー最下位の自覚がある俺はソファに追いやられるのでは、と気が気ではなかったが。

 父親がいないのは、いくらか気が楽だ。ただでさえ、この二人のやかましい女性陣相手に生き恥を晒しているというのに。ここに父さんまでいたら、ストレスはマッハ、食事はろくに喉を通らないことになるだろう。


 やがて、俺たちの目の前に料理が並んでいく。やはりいつもより、気合が入っているようだった。品数も多い。

 そして、ようやく母さんが最後の席に座った。リビングはおいしそうな匂いで一杯だった。空腹感はとうの昔に限界突破している。


「いただきます――」


 四人そろって声を上げた。待ちに待った食事。そして、それは地獄の幕開けでもあったのだ――

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