第三十九話 募る気持ち

 昼食後。俺たちはそのまま食後のお茶を楽しんでいた。前の時とは違って、今日は緑茶。パックのやつじゃなくて、急須を使って茶葉から淹れたやつ。明城の好みは洋風なのかと思いきや、立派な湯飲みがキッチンから出てきた。


「ユキトさん、お茶のお代わりは?」

「いや、いいよ。これくらいにしとかないと、本来の目的が記憶の彼方へと消え去ってしまう」

 

 そう。忘れちゃいけないのは、俺は別にこいつの家で寛ぐために来たのではない。勉強会は決して大義名分ではないのだ。


 その返答に、彼女はどこか残念そうな顔をする。彼女の魂胆としては、このまま有耶無耶にしてしまおうということだったのかもしれない。以前から気づいてはいたが、この女、その清楚な見た目に反して意外と打算的である。他のクラスメイトはそんなこと決して知りもしないだろうけど。

 俺しか知らない彼女の一面がある。それは、明城だけが俺たちの前世の出来事を把握していることと同義……ではないだろうなぁ。やはり、まだまだ簡単には割り切れない自分がいる。そんな器の小さな自分にうんざりする。


「ん、どうかしましたか、ユキトさん?」

「ああ、いや別に。何の科目やろうかなーって」

「ユキトさんは頑張り屋さんですねぇ。ますます好きになっちゃいます」


 明城にしては珍しく軽い口調で、さらにウインクのおまけまでつけだした。


 もはや慣れてきたのでこんなことで動揺したりはしないが。


「じゃあちょっと片付けてきますね」

「手つだ――」

「勉強したがりさんは、単語カードでも見ててくださーい」


 軽く微笑むと、彼女は湯飲みを二つ持って立ち上がった。そのまま、キッチンへと向かっていく。有無を言わさぬ強引さがそこにはあった。


 その後ろ姿を見送って、俺は鞄から単語カードを取り出した。昨日の放課後、『コミュ英で点取るなら、本文の単語、熟語もしっかり覚えた方がいいですよ』と明城は俺にアドバイスをくれた。未使用の単語カードを差し出しながら。それをありがたくいただいて、その場で作り上げた、という代物である。


 彼女が洗い物をする音をBGMにして、一語一語俺は単語をチェックしていく。昨日よりも、覚えている量は確実に増えていた。だが、先はまだ長い。


「ユキトさん、朝の話なんですけど」

「朝? 寝坊したせいで寝込みを襲われかけた話か?」

「そ、そんなことしてないじゃないですか! さすがにわたくしもそこまで大胆では……じゃなくって、あのゆ――ううん、やっぱりなんでもないです」

「なんだよ、気になるなぁ」


 俺は単語カードから目を上げた。ちょっと目を細めて彼女の方を見る。一体何を言おうとしたのか。よく聞き取れなかった。


 しかし、彼女は下を向いたまま、洗い物の手を止めない。あえて見ないようにしているのかもしれない。


 自分で話を振っといて、と思うが。やはり気になるものの、話す気がないんじゃ仕方ない。俺は再び、単語の暗記という退屈な作業に戻る。


 水の流れる音、食器がこすれる音、とても小さな彼女の鼻歌が絶え間なく響いている。緩やかな平日の午後、ともすれば眠くなりそうなほど。

 追い打ちをかけるように、今俺のしていることはひどく単調。カードを捲って、英語の羅列を眺めて、意味を浮かべて、カードを捲って。うとうとして目は滑るは、頭がこっくりこっくりするは、なかなか楽しいことになってきた。


「お昼寝でもします?」

 いつの間にかすぐそばに明城の姿があった。

「しない!」

「ですよね、聞いてみただけです。じゃあお勉強、始めましょうか。場所を変えましょう」

「ここでやるんじゃないのか?」

「リビングですよ、ここ?」


 彼女の認識ではリビングは勉強する場所ではないらしい。まあ俺も、目の前いある高そうなガラスのテーブルの上で、自在にシャーペンを走らせようとは思わないけど。


 荷物を纏めなおして、俺は席を立った。それを見て明城も歩き出す。一緒にソファの裏にある扉の前へ。そこが勉強部屋兼寝室だ、と以前彼女は言っていた。彼女は躊躇うことなく、その入口を開いた。そのまま一人中へと入っていく。

 しかし、俺はつい足を止めてしまう。なかなか踏ん切りがつかなかった。この向こうに広がるのは女子の部屋。そうやすやすと入ることは気が引ける。


 カーテンが開いていて、窓から入ってくる陽光だけで十分に部屋は明るい。足元にはベージュのカーペット。床には余計なものは一つも転がっていない。扉の正面に大きな学習机があって、その両脇に一つずつ本棚が。参考書、小説、漫画――こいつもそんなの読むんだな、少し意外だった。上には小さな引き出しがそれぞれ載っている。家具はどれもシンプルなデザイン。

 左奥はクローゼットだろうか、左右開きの扉はぴたりと閉じられているからその中を窺い知ることはできない。右奥には白を基調としたベッドがあって、ホテルの部屋みたいに奇麗に整えられている。

 女子の部屋にしては、些か殺風景なような……身近にして唯一の例であるまり姉の部屋を思い浮かべる。結構物は散らかってて、謎の小物類があちこちに溢れていた。おいてある家具も工夫が凝らしてあったり。


「どうしたんです?」

「いや、やっぱりリビングで――」

「あっ、もしかして、気を遣ってくれてます? 大丈夫ですよ、わたくし気にしてませんから。ほら――」

 

 結局腕を引っ張られ、半ば強引に部屋に連れ込まれてしまった。芳香剤だろうか、リビングとはまた違ういい香りが鼻を刺す。


 ドア付近で立ち竦む俺のことなど気にする素振りはなく、彼女は左手にある引き戸を開けた。そこはクローゼットと収納スペースを兼ねている場所だった。

 そこから折り畳み式の木製テーブルを取り出すと、それを床の上に設置する。再びクローゼットのところに戻ると、今度は白い布のクッションを二つ抱えて扉を閉めた。


「さあどうぞ、座ってください。」

 

 明城は奥側にクッションを置いて腰を下ろした。そして、その向かいにもう一つを置くと、掌でそこを指示した。

 断る理由はなくて、俺はかなり緊張しながらもクッションの上に座る。とても柔らかくて、座り心地はよかった。


「さあ、始めましょう!」

「……そうだな」


 傍らに鞄を置いて、俺はしっかりと中身を見ながら道具を引っ張り出していく。なるべく彼女の方を見ないように――さっきまでも二人きりだったのだが、こうして彼女の部屋でとなると、また気まずさがぶり返してくるのだった。

 しかし、なぞこうもこの女は平気なのか。明城の顔にはいつもと変わらない笑顔が宿っているのが、本当に不思議だった。





        *





「あ、ユキトさん。そこの計算間違ってます」

「まじで? ……あっ、ほんとだ。一段上の符号から違うじゃねえか」


 俺はその小問の自らの解答に、上から大きくバツ印を付けた。その下に改めて、問題を解きなおす。今度はゆっくり丁寧に。


 あれから結構な時間がたった。明るかった外の様子はどこへやら。照明器具が、その役割を一生懸命に果たしている。


 今日は数2をやることにした。学校で配られた対策プリントと格闘中。書き込み式で後に提出する必要があるのだが、一週目はノートにやることにした。繰り返しやった方が勉強になるからだ。

 しかしこの分野はひたすらに雑多な計算が多いな……気を抜くと、すぐに答えが合わなくなる。解き方が全くわからないわけでもないから、どうも面倒という感情が先行しがちになってしまう。


「はい、オッケーでーす」

「これでなお間違ってたら、さすがにやる気が消え果てるけどな……」


 俺はうんざりしたようにペンを置くと、床に手をついてぐっと背すじを伸ばした。ぽきぽきとどこかしらの骨が軋み声を上げる。強張った筋肉をほぐしながら、何度か深呼吸を繰り返した。

 ところどころ休憩はいれたものの、三、四時間もぶっ通しだったから流石に疲れた。これで終わったのは半分程度……しかも標準レベルだけ。改めてその先の長さを思い知る。


「だいぶお疲れみたいですね」

「明城もそうだろ?」

「いえ、わたくしは見ていただけですから」


 そう、この女、今日もまたしても俺のことを見守るだけだったのだ。飽きもせずニコニコと、さながら家庭教師の如く。そんな体験はないから、イメージの話だけど。合間合間でお茶を淹れてくれたり、おやつを出してくれたりもした。明城アリスはかなり尽くすタイプらしい……知ってたけど。


「プリント的にも時間的にもちょうどいいですし、今日のところはお開きにします?」

「そうだな」

 俺はテキパキと机の上のものを片し始める。


「晩御飯、どうします?」

「いや、普通に帰るぞ」

「えー、いいじゃないですかー! 夜は長い、ですよ?」

 流し目、口角は少し緩ませ、誘うように彼女は首を傾げる。

「お前は本当に相変わらずだな……」


 バンバンと豪速球を投げ込んでくるスタイルはどうにかならないものか。大抵の発言は慣れたものの、それでもたまにどきりとさせられて、心臓に悪い。

 呆れながらも、俺は鞄を持って立ち上がった。もはや気持ちは我が家への恋しさでいっぱいである。肉体的にもだが、精神的にもかなり疲弊していた。さすがにこれ以上、この女と一緒にいると心が持たない。


「じゃあまた明日、学校でな」

「ああ、待って。下まで送ります」

「いいよ、別に」

「そうしたいんです!」


 ということで、俺は彼女と一緒に部屋を出た。暗いリビングを抜けて玄関へ。さっと靴を履いて、ようやく彼女の家から脱出することに成功した。

 マンションの廊下部分の空気はひんやりとして、少し新鮮だった。エレベーターのボタンを強めに押して、じっとやってくるのを待つ。


 エレベーターに乗ってからも俺たちは無言のままだった。明城はそこまでお喋りなわけでもない。必要がないと、黙っていられるくらいの分別は持ち合わせているらしい。

 前進に気怠さを感じながら、ぼんやりと上部の表示板を流れる。数字が順番に光っていく。やがて、その箱は減速をする。


 誰もいないひっそりと静まり返ったエントランス。真新しいはずなのに、どこか不気味でもある。

 俺たちは静かに自動ドアを通過した。そして、外へとつながるドアを押す。


「すっかり暗くなってますね」

「そりゃこの時間だとな」

「それじゃユキトさん、また明日」

「ああ、また明日」


 素っ気なく別れの言葉を告げて、俺は彼女に背を向けた。そのままマンションの自転車置き場へと歩いていく。

 なんとなく寂しい気持ちがするのはどうしてだろう。ずっと明城と一緒だったからか。


 足を止めて、ふと空を見上げると星がまばらに輝いていた。一つ息を吐く。そっと後ろを見てみると、あいつはまだマンションの前にいた。気づかれないように、再び歩き出す。


 家に帰れば、誰かはいるだろう。一人の時間は自転車で走っている時間だけ。でもあいつは違う。部屋に戻っても、一人。

 寂しくなったりしないのだろうか。そもそもどうして一人で暮らしているのだろう? もう十分に彼女との時間を堪能したはずなのに、次々とそんな想いが湧き出してくる。俺はそれを一笑に付して、自転車のロックを外すのだった――

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