第三十六話 変わった朝

「……さん、ユキトさん! あーさでーすよー」


 耳元で囁くような女の声がして、俺の意識は覚醒した。ゆっくりと瞼を開く。すぐそこにあったのは、よく見知った女性の顔。こいつ、まつげも長いんだな……と、寝ぼけ頭に思い浮かべるが――

 かすかに感じていた眠気なんて吹っ飛んだ。目を大きく見開いて、慌てて身体を起こす。わけのわからない現状に、ただただ驚くばかり。心臓はあり得ない程にバクバク言っている。


「よかったぁ、起きてくれた。おはようございます、ユキトさん」

 女の方は、そんな俺の動揺など知ったことではないらしい。至極落ち着いて、いつもと変わらないニコニコ顔を見せている。

「ど、どうして、お前がここに!?」

「どうしてって、起こしに来たんですよ、ユキトさんのこと。迎えに来たら、まだ寝てるっていうから。お母様と麻理恵さんがぜひって」

 彼女は優しく微笑んだ。


 この期に及んでもまだ、理解が追いつかない。寝起きに加え、明城が俺の部屋にいるという衝撃。俺の思考回路はショート寸前だった。

 それでも、落ち着いて息を整えながら考える。迎えに来たと奴は言っていた。ということは……俺は机に置いてある時計に目をやった。


「は、八時五分……? やばい、やばい、遅刻する!」

「ええ、そうですねぇ」

「なんでお前は落ち着いてるんだよ!」

「そういう慌てたお姿を見ていると、なんだか微笑ましくって、つい」

「つい、じゃねえよ。お前も遅刻するだろ」

「別にわたくしはそれでも構いませんよ。それとも、このまま二人で逃避行の旅にでちゃいますか?」


 くすりとたおやかにほほ笑む姿は、とても冗談を言っているようには見えない。むしろ思わず頷いてしまいたくなるほどに魅力的……つい息を呑んでしまう。こういう感じを色っぽいだとか表現するんだろうか。心の奥底をくすぐられたような感じがして、落ち着かない。

 この胸のどきどきは朝起きた瞬間とは別の種類のもの。俺は時間停止の魔法をかけられたみたいに、ただただ彼女の顔を見ていた。


「……いいんですか、準備?」

 その声でようやく我に返る。

「え、いや、誰がお前と逃避行なんか――」

「そっちじゃなくて……いえ、わたくしにとってはそちらの方が喜ばしい話題ですけれど」

 彼女は揶揄するように口元を緩めて、ちょっと首を傾げてみせる。


「お、お前なあっ!」

「うふふ、冗談ですよ。それは後のお楽しみとして、取っておきますね」

「そんなこと永遠にないと断言しておくがな」

「ええ、ええ。貴方様はそうお答えになるでしょう」


 久々に、そんな反応を見た気がする。俺を見透かしたような口振り。あなたのことは全部知っています、そんな優越感が滲み出ているような話し方。

 前はそれがものすごく嫌……というか、気持ち悪かったが、今はなんとも思わない。むしろ、何か少し安心さえするんだ。その理由は、よくわからないんだけど。


「とにかく、すぐに学校に行く準備するから。あれだったら、先行ってもいいぞ?」

「いいえ、大丈夫です。アリスは、貴方様のこと、ずっとお待ちしております」

 ずいぶんとまあ、大げさである。永遠の別れじゃあるまいし。

「そんな時間かかんないと思うけどな……というか、早く部屋出てってくんない?」

「へ? どうしてです?」

「いや、どうしてってなぁ……」


 俺はちらりとラックにかけられた制服に目をやった。はっきり言うのは、なんとなくむず痒かったというか……。

 彼女も合わせてそちらの方に目を向ける。しかし、きょとんとした表情は変わらない。


「着替えたいんだよ、き・が・え!」

「ここで待ってたらダメですか?」

「ダメに決まってんだろうが!」


 俺はベッドから起き上がると、無理矢理彼女を部屋から追い出した。ばたんと、きつく扉を閉める。鍵が付いていないのが惜しい。

 ったく、何言ってんだか、あの女は……。時々、本気であいつのことがわからなくなる。なんで、俺の着替えを近くで見たがるんだよ。

 俺は呆れながらも、とりあえずパジャマの上を脱ぎ捨てた。





        *





「おー、同伴出勤ですか? いいねぇ、高校生。青春してるじゃあないの!」


 教室に入るなり、溝口が冷やかしを浴びせてきた。おちょくるように俺たちに気持ち悪い笑顔を向けている。とても教師には思えない態度だ。教育委員会に文句言ってやろうか。


 大声でそんなふざけたことを言うもんだから、教室全体が一気にざわつき始めた。厳粛な朝のホームルームの時間はどこへやら。ほんの数秒前は担任の声しか聞こえてなかったのに。


「まあ不純異性交遊もほどほどにな。一応、校則の読み聞かせでもした方がいいか?」

「結構です。第一そんなんじゃないです。たまたま玄関であっただけで――」

「え? ユキトさん、やだなぁ。家から一緒――」

「せ、先生! 席についてもいいですか!」

「いや、もちろんだけどな。それよりも、明城。今、家から一緒――」

「何も言ってない。何も聞いてない。いいですね?」


 俺は二人の顔を交互に見やった。片や面白そうににやつくおっさん。片や不思議そうに首を傾げるお惚け小娘。

 ちょっと視線を外して、教室を見渡すと、ほとんどの視線が俺と明城に向けられていた。そして、いつもより空席が目立つ。遠くで見えるよく見知った顔は好奇の色で染まっている。


「とにかくほら、行くぞ。先生もホームルーム続けなくていいんですか」

「ま、確かに一理あるな。じゃ、さっさと着席してくれ」


 だったら止めんなよ。と思ったが、素直に俺は自分の席へと歩いていく。じろじろと眺められるのが辛い。

 それでもなんとか自分の席に辿り着いた。同時に、担任が話を再開する。俺はそれを恥ずかしい思いをしながら聞いていた。


「――ということで、ホームルームを終わるぞ。号令はいいや。時間きたら授業始めるから」


 閉まらない感じで、とても短い休み時間がやってきた。クラスメイトたちは窮屈さから解き放たれて、騒ぎ始める。

 そうか、一時間目は現代文だったか。今日から三日間高体連期間で午前授業。さらには、色々と科目が変更になっているんだった。


「よっ、幸人。珍しいな遅刻なんて」

 俺が準備をしていると、剛が話しかけてきた。学もこちらを振り向いてくる。

「俺が寝坊した」

「まあ、明城さんが原因ではないとは思ってたけど。もしかして、夜遅くまで勉強してたとか?」

「……まあな」


 意外な奴に図星を突かれて、俺はぶっきらぼうに言葉を返した。放課後勉強した内容の復讐と、学校のワークに手をつけていたら、つい日付を超えてしまった。

 あれだけ集中してやったのは、高校受験の追い込み時期以来かもしれない。


「へー、珍しく本気なんだね」

「遅くまで起きてるのは効率悪いぞ。俺は早起きをお勧めする」

「そうそう、朝のランニングは気持ちいいしね」

「待て、学。お前の理由はなんかおかしい」

「有酸素運動だから、案外良さそうな気はするがな」

「そうそう、ユーサン・ソウンドー」

「人の名前みたいだな……」


 俺は呆れて首を振った。そして、つい笑みをこぼす。二人も同じように笑いだした。いつもと変わらない日常がここにはあった。

 ……それなのに、俺は何か落ち着かない心地がしていた。朝から変なトラブルが起きたせいではない。というのも――


「今朝変な夢見てさ。それで起きれなかったのかも」

「夢見るのと起きれないことに因果関係はないと思うけどな」

「いいじゃない。どんな夢だったの?」

「中世ファンタジーみたいな……周りの人、それっぽい格好しててさ」

「ゲームのやりすぎじゃない?」

「でもリアルだったんだよなぁ。俺、勇者って呼ばれてた」

「本当にゲームみたいだね。俺も見たいなー」


 魔王を倒して祖国に帰るところだった……みたい。周りの人間がそう言っていた。なんか薄暗い夜、荒野を歩いているみたいだった。そしたら、いきなり誰かが――


「またあの女が現れた、って叫んで――」

「ユキトさん! 教科書忘れちゃったんで見せてください~」


 いきなりブレザーの袖を引っ張られた。仕方なく会話を中断して、相手をしてやる。目だけ彼女に向けると、、うぅ、と申し訳なさそうにくしゃっと歪めていた。

 

「へいへい。ったく、今二人と話してんだから邪魔すんなよなー」

「それはすみません。でもほら、授業が始まるみたいですし」


 そう言って彼女は教壇の方を指さした。釣られて見るが、溝口が退屈そうに、自分の生徒を眺める姿がそこにはあった。とても、今から授業が始まるような雰囲気ではない。


「どこがだよ!」

「あれ、そうですかね?」

「まったく……」

 

 いいところで水を差されたせいで、これ以上話をする気は失せてしまった。とりあえず机をくっつけて、真ん中に教科書を置いてやる。

 しかし、本当に不思議な夢だった。とはいったい誰だったんだろう。その姿は、いつの間にか朧げになっていた。

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