第三十七話 早帰りの誘惑

「さて、連絡事項だが。今日は珍しくある!」

「溝口先生……いつもより張り切ってらっしゃいますね、ユキトさん」

「昼前に学校終わるのが嬉しくて仕方ないんだろ」

「そんなわたくしたち学生じゃないんですから……」


 今は帰りのホームルーム。時刻は十二時四十五分を過ぎたところ。今日は四時間授業だったから、いつもよりもかなり早い。

 今日は一時には帰れるぞ。心の中でほくそ笑む。部活をやっていない身としては、この高体連期間ほど嬉しいものはない。特に何の縛りもなく早く家に帰れるのだから。


 それをこの溝口とか言う男が水を差す。いつもならば、連絡事項は少なめ。さっさと解放してくれるというのに。周りの同級生たちもちょっと不満そうだった。


「一つ目。完全下校時刻は一時半だからそれまでに帰るように! ただし部活動の許可があれば別」


 はーい。誰かが返事をした。ムードメーカーの磯村君だ。途端漏れる苦笑。溝口もまた、眉を顰めて少し呆れている。


「次行くぞ~。あまり寄り道すんなよ。遊びに行くんならまず着替えてから。特に一番後ろのバカップル! なに後ろ向いてんだ。お前らだ、お前ら!」


 にやにやしながら、担任は俺と明城の方を指さした。咄嗟の判断で後方確認してみたものの、無駄だったらしい。クラス中の視線が一斉にこちらを向いた。みんな、ニヤニヤと軽く笑ってやがる。


 朝の失態で、すっかり俺と明城に関してあることないこと噂になってしまった。尾びれがついて、勝手に泳ぎ出しそうなくらいまで成長している。

 俺は元から弁解の機会はそう与えられず。辛うじて、絡んできた男子連中に情報の訂正を入れるくらい。

 あいつの方は、そもそもそんなことをするつもりはないらしい。むしろ、女子が話を聞けば聞きに行くほど、どんどん噂は実体を獲得していくわけである。


「恋が盛り上がって、遊び呆けないように。テストも近いんだからな」

「先生、俺と明城はそんな関係じゃないです。あんまりうるさいと、教育委員会に苦情入れますよ?」

「おう、やれるもんならやってみなってんだ!」


 はっはっは、とまるで意に介していないように堂々と笑い声を立てる溝口。それがただの脅し文句に過ぎないことは、とてもよく見透かされているらしい。

 ムカつくが、それ以上に返す言葉はなくて、俺は忸怩たる思いで黙り込んだ。それで、より冗長する担任M。その笑みが勝ち誇ったものに変わっていく。


 しかし――


「セクハラ問題として、地元の新聞社を焚きつけるというのはどうでしょう。新しい切り口として、話題になると思いますけども」

 右斜め前の生徒が、ぴんと真直ぐ腕を上げた。

「……うん、止めような、大力。お前が言うとシャレにならん。ともかく誰とは言わないが早く帰れるからって、節度は守りましょうね、みなさん」


 彼はすっかり大人しくなっていた。なぜか溝口は大力に弱い。相性が悪いのかもしれない。授業中も、変なことを言うとすぐに噛みつかれてる。まあ、それ含めて周りの俺たちは一種のショーとして楽しんでるわけだが。

 

「で、最後はちゃんと勉強すること」

「先生、さっきも似たような事言ってなかった?」

「それは気のせい、森のせい」


 シーンと静まり返る教室内。言った張本人も、すまなそうに目を伏せる。それで、よりみんなの居た堪れなさが加速した。

 いったいなんなのだろう。この意味のない空白の時間は。俺たちは、帰りのホームルームをやっていたはず。それがどうしてお通夜みたいな感じに。


「それじゃいいもついて、ところで解散!」


 不死鳥の如く、蘇った国語教師はくそくだらないギャグをどや顔で放った。しかし、すぐに教室の空気に堪えきれなくなったのだろう。主席簿を持ってそそくさと逃げだしていった。


 残された俺たちはただあぜんとするばかり。お寒いギャクで、空気ばかりか俺たちの時間まで凍り付いたみたいだった。やがて、だれかれともなく物音を立て始めると、ようやく日常が帰ってきた。


「全く、なんなんだ、あの人は……」

「あれが、の平常運転っしょ。じゃあ俺、先帰るね~」


 学は俺たちに手早く挨拶をすると、うきうきした足取りで部活に向かった。水泳バカの彼としては、たくさん泳げることが嬉しくて仕方がないらしい。

 真剣に打ち込めることがあるのが、俺はちょっと羨ましかった。かつては、俺もそうだったんだよな……。中学に上がってすぐのころは、あんな風に部活に打ち込んでた。

 今の俺にはとても信じられないけれど。あんなに好きだったのに、その熱はあっという間に冷めてしまった。熱意は、とびきりに冷えたプールに沈めてきた。


「どうした、学のことが気になるのか?」


 そんな意味のない物思いに耽っていたら、上から低い声が降ってきた。

 

 顔を上げると、帰る準備が完璧に仕上がった剛がそこに立っていた。いつものように、スクールバッグを固い担ぐようにして持っている。


「別に。そんなことより、さっきは助かったよ、ありがとう」

「気にすんな。溝口さんをあのままのさばらせておくのが、我慢ならなかっただけだから」

「なにその、溝口先生絶対に殺すマンみたいな発想は……」

 

 俺はのっぴきならない親友の発言に思わず苦く笑った。そして鞄を持って席を立つ。そのまま帰ってしまおうという算段だ。


「明城は――」

「いいから、行くぞ」

 余計な気遣いのできる男の発言を遮って、俺は前の方を向いて顎をしゃくった。


 ちらりとあいつの方を一瞥したら、彼女の前の席の女子と談笑中だった。その苗字は吉永で、名前は知らない。休み時間とかに、やつと話している姿を最近よく見る。セミロングの地味な感じの女子だ。

 俺も四六時中明城に構ってるわけじゃない。彼女は彼女で、交友関係ができているのがなんとなく嬉しいというか……どこの立場の人間なんだ、俺は。


 なにはともあれ、さっさと帰ろう。腹も減ったことだし。平日に家でご飯を食べるというのは、なんだか新鮮な感じがして好きだった……母さんがいなければ、カップ麺だけど。でも麺類は学校じゃ食べられないから、それもまたよし、である。

 そんな風にまだ見ぬ昼食に思いを馳せながら、俺は席を立った。テキパキと机を下げて、教室を出て行こうとするが――


「お待ちください、ユキトさん!」


 数歩進んだところで見事に捕まった。後ろから鋭い声が飛んでくる。程よい声量で、よく通るはっきりとした声音だった。

 無視するのも心苦しくて、俺は足を止めた。剛も立ち止まり、ほらみろ、と冷やかすような感じの笑みを浴びせてくる。

 そのまま距離を保ちながら、俺は振り向く。むすっとした表情を浮かべる明城。そして、談笑していた名残か、吉永まで俺の方を見ていた。その顔はちょっと不思議そう。


「今日は残れないぞ。完全下校だし、腹も減ったし」

「それはわかっています。なので、よければこの後、わたくしの家で勉強しませんか?」

「俺の言うこと、聞いてた? 腹減ったんだって。食べてから、再合流は面倒くさいというか……」


 言い淀んで、俺はそっぽを向いた。もっともらしいことを言ってみたものの、一番は恥ずかしかったからだ。確かに、こいつと勉強した方が一人でやるよりも捗るのはある。優しく丁寧に、わからない所を教えてくれるし。


 だが、かといって彼女の家で勉強というのは……。以前、訪問したことはあるが、あの時はちゃんとした大義名分もあったし、あんまり長居しなかったし。そもそも、一人暮らしと知らなかったから、そんなに心理的ハードルを感じていなかった。


 しかし、今は違う。奴、一人しか家にいないとわかって、喜んで、と家に訪れられるほど俺は勇者ではなかった。


「いえ、違います。このまま、わたくしの家に来ませんか? 簡単なものでよかったら、作りますので」

「でもそれは悪いし……母さんにも、今日は早いって言ってあるからなぁ」

「それなら大丈夫です! 朝、許可をもらっておきましたから」

「お前、いつの間に……」


 なんという手際の良さ。こいつ、意外としたたかなところがあるよな。容量がいいというか、あざといというべきか……。


「貴方様が着替えている最中にそういう話で盛り上がりまして」

「着替えを待つって……二人って、結構なとこまで進んでるんだね」

「待て待て、盛大に誤解しているぞ、吉永。ただ朝迎えに来てくれただけで――」


 言いながら、俺は失敗に気が付いた。彼女の顔が、はっとしたものに変わったからだ。そして、見る見るうちにとても楽しそうな笑顔に変わっていく。


「やっぱり、明城さんと白波君、そういう関係なんじゃない! 彼氏とラブラブなんて、羨ましいな~」

 どこかうっとりする吉永さん……。

「そうそう、二人の仲は誰にも引き裂けないくらいにアツアツだ! ということで、邪魔ものな俺はこれにてドロンでござる!」

「おい、待て、剛!」


 その逃げ足まで忍者みたいだった。声をかけたものの、あいつの姿はすぐさま扉の向こう側に消えてしまった。

 俺はしばらく友が走り去った方を向いて唖然としていたが――


「どうします、ユキトさん?」


 いつのまにか、あいつはすぐ近くまで迫ってきていた。期待するように大きく目が見開いている。そして、どこか誘惑するような妖しい輝きが――


 この時ほど、意志薄弱な自分を恨んだことはない。俺はその言葉に、力なく頷くことしかできなかった……

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