第三十五話 放課後の勉強会

「さあ次だ。『in spite of』――意味は?」

「にもかかわらず。群前置詞」

「じゃあ、同じ意味を表す単語は?」

「……わからん」

「『despite』ですね!」

 その発音はお手本のようにとても明瞭だった。

「いや、明城が答えたら意味ないからな……」


 翌日の放課後。俺たちは廊下で掃除が終わるのを待っていた。暇潰し代わりに、テスト範囲の単語のチェックをしてもらいながら。


 二人は俺の頼みに二つ返事で応じてくれた。それで早速、放課後学校に残って勉強することになったわけである。


「今の習ったっけ?」

「いや、オリジナル問題だ。は色々関連付けた方が覚えやすいと思ってな」


 流石この男の発言には説得力があった。伊達に、全国模試のトップランカーじゃないということか。

 

 やがて、掃除が終わったらしい。中から、掃除係の連中が跳び出してきた。それを見て、俺たちも鞄を持って中に戻る。

 一番廊下側の最後列の席を俺は借りる。その隣に剛が座って、明城は俺の前に座った。椅子をこちらに向けて、机一つ挟んで向かい合う形に。


「で、何やる?」

「うーん、そうだな……」

「あっ!」

 悩んでいると、明城が突然声を上げた。何かを思いついた表情をしている。


「どうした?」

「えっとですね……古文にしますか? 英語にしますか? それとも、ワ・タ・シ?」


 吐息成分多めの色っぽい声。さらにどこか頬を赤らめながら、顎のところに人差し指を当てて、明城は首をちょっと傾げる。


 ……全くときめかなかった。俺は眉間に皺を寄せたまま、腕を組んで冷たい眼差しを彼女に送る。


「あれ、聞こえませんでした? 古文にし――」

「やめろ、やめろ! 全くろくでもないことすんじゃない」

「なあ幸人、俺帰ってもいいか?」

「いや、待ってくれ! ほら、剛も怒ってんじゃねえか。明城も謝れよ」

「お疲れさまでしたー、大力さん」

「ちーがーうーだろーっ!」


 俺は怒りのままに机を叩いた。そして、心の底から強く叫ぶ。


 教室に他に誰もいなくて本当によかったと思う。今日がテスト二週間前だが、さすがにまだ居残り勉強を企む奴はいないらしい。

 我がことながら、気合を入れ過ぎだと呆れるが。万年百番辺りをうろうろしている俺にとっては、やはり相応の準備をする必要があるわけで。


 とりあえず気を取り直して、俺は英語の教科書を広げた。コミュニケーション英語の方。テスト範囲は、『Lesson 1』から入るだろうから、先に内容整理をしておきたかった。


「ふむ、コミュ英か。いいところに目を付けましたね。教科書丸暗記できれば勝利ですぞ」

 くいっと奴はメガネを上げる仕草。かけてないんだけど。

「お前はどこの立場の人間なんだ……。そもそもな、そんなことできりゃ苦労しないんだよ!」

「え?」


 頭のいい二人の声が重なった。きょとんとした顔をしている。それくらい当たり前のことじゃないか、そう物語っているようだ。


 全くこれだから頭のいい奴は……うんざりしながらも、一文一文、訳を確認していく。


「本文を書き写すのはどうですか? しっかりと文構造考えた方が勉強になりますよ」

「うん、そうだな。ありがとう」


 明城のアドバイスに素直に従って、ルーズリーフに英文を写していく。作業的には、いつもの予習と変わらない……退屈に思いながらも黙々と手を動かしていく。


 だが――


「あのいつまで見てんだ?」

「いつまでも!」

「見られてると、やりにくいんだけど」

「わたくしのことなどおきになさら……意識の片隅にでも置いてはください」

「何かやることとかないの?」


 俺はちらりと剛の方を見た。あいつは薄い数学の問題集をやっていた。しかも数B……まだやってないのに。相変わらず、学習意欲の怪物みたいなやつだな

 こいつは俺の勉強に付き合うのをついで、と言っていた。別に学校で次週しても変わらないから、と。てっきり、目の前のこの女もそのパターンだと思ったんだが……


「やることと言えば、ユキトさんを見守ることくらいですかね?」

「……そーですか」

「はい! あ、何でも聞いてくださいねー」


 これ以上構っているのも時間の無駄に思えたので、俺は作業を再開した。まだ半分も終わっていない。


 静かに教室の中に、ページを捲る音とシャープペンシルが走る音だけが響いている。時折、やってくるのは楽器の音色。おそらく吹奏楽部のものだろう。決してうるさいものではなく、むしろ心地よい。

 ここだけ、外界から切り離されているみたいに、時間の流れがゆっくりしている様に感じられた。しかし、俺が残って勉強だなんて、以前から考えれば信じられない。


 英文も写し終わって、次のステップに移る。手早く文構造を確認しながら、俺は和訳を進めて行った。相変わらず、明城の視線に晒されながら。

 順調に進んでいたのだが――


「なあ分詞構文ってどう訳せばいいんだ?」

 剛に向かって呼びかける。

「接続詞に変えろ。以上」

 奴はこちらを見ることなくぴしゃりと答えた。

「あっさりし過ぎだろ……」

「ちょっと見せてください――そうですね、ここは……」


 俺が友人の反応に呆れていると、明城が手元を覗き込んできた。髪を耳にかけて、やわらかな動作で顔をぐっと近づけてくる。

 ほんとすぐ目の前に、奴の頭があった。奇麗な旋毛がそこにあった。蛍光灯の明かりもあって、その銀の髪はいつもより輝いていて見える。


「――状況で訳せば……って、聞いてます、ユキトさん?」


 俺の反応がないことに気付いたのか、ふと彼女が顔を上げた。目を細めて、ちょっとムッとした表情をしている。


「あ、ああ。ちゃんと聞いてるよ」

 見惚れていたという事実が恥ずかしくて、俺はどぎまぎしながら答えた。

 それでも彼女の表情は変わらない。

「じゃあ訳してみてください」

「えっと……すみません、聞いてませんでした」

 いたたまれなくて、俺は視線を伏せる。


 すると、明城はしょうがないなぁという風に頬を緩めた。また視線を教科書に戻す。


「いいですか、ここはですね。付帯状況で訳すと自然です。、とか、、ですね。後で別の意味も出てくるので、しっかり区別して押さえた方が良いですよ」

「……ああ。ありがとな、明城」

「いえ、お役に立てたら何よりです」


 にっこりとほほ笑むと彼女はまた姿勢を元に戻した。手を膝にのせて、背筋をピンと伸ばし、真直ぐに俺の方を見つめてくる。


 ……はあ、これじゃ先が思いやられるな。ちょっと苦々しい思いを感じながらも、俺はその文の訳に取り掛かることにした。

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