第三十二話 募る違和感

「し、しぬかとおもった……」


 ようやく剛がゴールした。彼が最後だった。そのタイムは……いや、止めておこう。武士の情けというやつである。


 肩で思いっきり息をついて汗だく姿の友人に、俺は学と一緒に歩み寄った。一足先に走り終えた俺は、誰よりも早く到着していた彼と話をして暇を潰していた。


 本当ならば、あの女に文句の一つや二つ言いたかったんだが。あいつ、俺が目の前に通る度に呼びかけてきやがって。スポーツ由来の爽やかな汗以外に、変な汗が出て仕方がなかった。

 とにかく、その明城だが次に走る女子の一団に混じっている。そうでなくとも、こんなクラス混合授業であんまり仲良くはしたくない。そういうこともあって、その件についてはスルーした。


「おーつかーれさん!」

「おうふっ! た、叩かないでくれ、死ぬほど疲れてる」

「大丈夫か?」

「ふーっ、ふーっ……なんとかな」


 剛は必死に息を整えている。膝に手を突いたまま、何度も深呼吸を繰り返す。


 俺はそれを気の毒そうに眺めていた。昔取った何とやら。昔やってた水泳のお陰か、俺はそこまで披露することはない。それでもつらいけれど。

 学は彼を一瞥すると、すぐにこちらの方を見てきた。やれやれといった表情をして、肩を竦める。


「スポドリ買ってもらう予定だったからあげるよ」

「……できれば、今すぐにでも欲しいんだがな」

「それは無理さ」

 あはは、と学は楽しそうに笑った。


 それを恨めしそうに見上げる剛。今度は彼が俺の方を見てきた。うんざりした顔がそこにはあった。


 対照的な二人のそんな姿を見て、俺が苦笑いをしていると――


 バンっ! 女子一組目の協議開始の合図が鳴った。俺はぼんやりとトラックの方に視線を向ける。


「うちのクラスだと、葛西さんが一番早いんだよね~」

 学もまた同じ方を向いていた。

「へ~、よく知ってんねぇ」

「彼女、バスケ部でさ。同じ運動部だからたまに話すんだ。活動の合間とか」

「プールと体育館じゃ、接点ないと思うけどな……」

「ほら、外周とか中練とか。ま、帰宅部の君にはわからないだろうね」

 ふんと鼻を鳴らして、呆れたように首を振る水泳バカ。


 釈然としないながらも、俺は視線を外した。すでに、何グループ化に分かれている。先頭集団には、こいつイチオシの葛西が確かにいた。そして、見覚えのあるクラスメイトの姿。大まかな傾向として、髪が短いのはそれだけ運動部の女子が多いということだろうか。だが――


「あれ、明城さん、いるね」

「……そうか?」

「またまた~、あんなに目立つ髪色。見逃すわけないでしょ」


 学はニヤニヤとしたからかうような笑みをこちらに向けてくる。俺はそれをなるべく見ないようにした。


 こいつの言う通り、明城の姿はひときわ目立って見えた。背が高いから、頭が高い位置にある。それで、あの奇麗な銀のロングが日光の下にキラキラと輝いているのだ。

 その足運びは素早い。他の運動部女子に負けてないくらいに……あいつ、ずっと帰宅部だって言ってたのに。とてもそうは思えない。


「しかし、あれはなかなかですな~」

 隣の男が少し作り物めいた声を出す。

「何の話だ?」

「胸だよ、胸! 揺れてる!」


 ……こいつ、気にしないようにしてたのに。近くにいる、他の男子連中からもひそひそ声で下品なことを話す声が聞こえてくる。


 普段のブレザー姿だと少しわかりにくいが、今彼女が着ているのはTシャツ。だから、それはものすごく強調されていた。

 おまけにハーフパンツ姿で、いつもよりも(奴のスカート丈は膝頭くらい)太ももが見えている。そしてその奇麗な白い脚がすっと伸びているのがわかりやすい。

 ……待て待て、なんだか俺が変態みたいじゃないか! もうやめよう。あいつの方を見るのは。


 俺は露骨に顔をそむけた。とりあえず、さっきから音沙汰のない友人の方を見る。


「剛、生きてるか?」

「紙一重だ」


 ぐっと、奴は親指を立てた。そして、そろそろと腰を下ろす。ようやく落ち着いてきたらしい。胡坐をかいて、前のめりになるその姿はどことなくおっさんチックだった。


 それを見て、俺も近くに座り込むことに。気遣いながら、適当に会話をする。もっぱら、体育に関する恨み辛みだったけれど。


 ――件の明城さんは、全体三番目くらいのタイムだったらしい。クラスメイト中心に騒いでいるのが、後から聞こえてきた。






        *






 五時間目、というのは一番つらい時間である。ご飯をたっぷり食べた後だから、身体がぽかぽかとしてつい眠くなる。おまけに、肉体的な疲労はピークに達しているわけで。

 例に漏れず、俺の目の前の男は寝ていた。まだ号令がかかってすぐなのに。


「さて、初めにこの間の小テストを返す。一列ずつ取りに来るように」

 アフロ頭の数学教師は厳かな口調でそう述べた。


 廊下側からぞろぞろとクラスメイト達が動き出す。結果を受け取った生徒が増えるにつれて、少し教室も騒がしくなっていく。


「おい、起きろバカ」

 うちの列の番が近づいたので、俺は少し強めに前の椅子を蹴っ飛ばした。

 机に突っ伏していたワイシャツ姿の背中がビクンと動く。


「テストの返却だと」

「別に要らないのに……」

 ぼそりと文句を言いながらも、奴は席を立った。

 俺も併せて動き出す。


 三十三点……それが俺の得点だった。満点は五十。ちらりと見えた、学の点数は五点。おそらく最初の小問しか合ってないことになる。


「ふぅ、なんでテストなんかあるかなぁ……」

「そりゃ学生の本分だからな。体育よりよほど有意義だ」

「さっきと立場が逆転してんな、お前らな」


 着席して、友人と少し言葉を交わす。剛の点数は訊かない。どうせ、すぐにわかるから。


 最後の明城が席に座ると、パンパンと二つ教師が手を叩いた。それで室内の喧騒が一瞬にして収まる。


「簡単な講評だが、平均点は六割弱。満点は二人……大力と明城だ。最後の大問、入試問題を仕込んだんだが、よくできたな。他クラス含めて、完答したのはお前らだけだ。――ということで、そこの解説から始めよう」


 いつものように、力強く数学教師は黒板に文字を刻んでいく。不等式の証明問題だ。俺は手も足も出なかった。

 そして、目の前の男の頭が視界から消える。睡眠学習の始まりらしい。


 ノートを開きながら、俺はそっと左隣の姿を窺った。彼女はくるくるとスムーズにシャーペンを回している。無表情ともいえる涼しい顔つき。何を考えていることやら。


 先ほどの体育もそうだが、明城はかなり優秀な生徒だった。文武両道……勉強もよくできる。今の数学もそうだが、英語も教師が感心するほど完璧な訳出をする。


 ……はあ。俺は心の中でため息をついた。俺とこいつはほんと釣り合っていないと思う。日を経るにつれて、どんどんその差というものを意識せざるを得ない。

 前世のことがなければ、きっとここまで距離が近づくことはなかっただろう。それを考えると、複雑な気持ちになるのだ。


 これ以上考えても仕方のないことか。気持ちがげんなりして完全に沈み込む前に、俺は授業に全神経を向ける。今ではあいつのことを考える暇がないこと程、気持ちが休まる時はなかった。

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