第三話 美しい花に棘あるが如し
謎の女性は変わらず俺の顔から視線を外さない。その大きな瞳でずっと見られていると、恥ずかしさと一緒に段々とふわふわした高揚感に襲われる。
一つ気付いたことだが、左目に小さな泣きぼくろがあった。それがなおさら彼女の魅力を艶やかに引き立てている。
蛇に睨まれた蛙、という表現を聞いたことがある。俺はまさにその状態だ。はりつけにされたように身動きを取ることができない。
まるで時間が止まったような気分だ。未だに衝撃から立ち上がれない。周囲の人ごみの動きがとてもゆっくりして見える。
「おい、幸人。知り合いか?」
そんな剛の呼びかけで、ようやく我に返ることができた。
ここぞとばかりにまばたきを繰り返す。
彼はきょとんとした顔で、上から視線を浴びせてくる。この女のことを怪しんでいる様子はない。むしろ、俺のことを怪訝がっているところがある。
「――え、あ、ああ。いや、その……」
女性を横目でちらりと見ながら、再び友人に視線を戻す。意味をなさない単語だけが口から出て行きながら。
この状況をどう説明したらいいか、思いつかない。相変わらず混乱は続いていた。しどろもどろ――周りの人からすれば俺はそんな感じに見えるだろう。あるいは、挙動不審。
「ユキト様? どうかしましたか」
一度ならず二度までも、女は俺の名前を口にする。その口調によどみはなく、俺を見る眼差しも優し気で不慣れなところはない。
どうやら人違いではないらしい。女は、俺を白波幸人と知って、話しかけてきている。つまりは、俺はこの女の知り合いなのだ。……今なお、全く思い出せないが。
こんな奇麗で目立つ女性のことを、忘れることなどあるだろうか? 俺はそんなに物覚えが悪い方ではないはずだし、人の顔と名前を覚えることが苦手なこともない。
失礼な話だとは百も承知だが、本人に訊くしかないだろう。うまい言い方を探りながら口を開こうとしたが――
信号が点滅し始めたのが目に入った。ここは道のど真ん中、それも交通量が激しい道路が交差している場所。
「すみません、急がないといけないんで、これで――」
俺は反射的に謝罪の言葉を口にして、さっとその女のわきを走り抜けた。遅れて勇人もついてくる。
タイミング的にはドンピシャだった。向こう側についた瞬間に、車が一斉に動き出す。数歩、余分に進んでから一度足を止めた。そして、ゆっくり後方を振り返ると――
「ギリギリセーフ、ですね!」
はあ、はあ、と少し息を切らしながらも満面の笑みを浮かべる女の顔がそこにはあった。
……軽いホラーである。振り切ったと思っていたのに。
彼女がどうしてここにいるのか理解できなかった。
俺と彼女は先ほど、正面からすれ違った。それはつまり、俺たちの進行方向とは逆ということだ。だから、彼女がこちら側にいるのが本当に解せない。
これは自意識過剰なのは重々承知だけど、俺を追いかけてきたとしか思えない。すでにあっただろう何かしらの用事を差し置くほどの間柄らしい。俺と彼女は。
おかしな沈黙がこの場に出来上がる。たおやかな微笑みを絶やさない女。もはやわざとやってるんじゃないかとさえ思えてくる。
そして、眉間に深い皺を刻み込んで困惑しているいかつい兄さん。偏差値80弱の彼をもってしても、俺たちの関係性は見抜けないらしい。
「で、幸人君。いったいどういう関係だい?」
がっつりと、剛は肩に腕を掛けてきた。威圧的な笑みを浮かべながら、上から圧迫してくる。そしてくるりと彼女に背を向けることに。
「知らない人だよ」
俺は小声で応じた。しっかりと迷惑そうな顔を作っておく。
「でもなぁ、あちらさんは明らかに知り合いじみた雰囲気だぜ?」
ちらちと、背後に佇む謎の女性に目をやる剛。なんとなく揶揄うような笑みを浮かべているのは気のせいであることを願いたい。
俺もつられて、彼女の方を見た。すると、にっこりとほほ笑みかけられてしまった。こちらの気も知らないで、暢気なもんだ。
「いやぁ、まさか幸人にこんな美人な知り合いがいるとはなぁ。つよし、びっくり!」
「だ・か・ら、知り合い違う! そして、謎の小ボケを挟めるな!」
俺は声の大きさは変えずにちょっとだけ語気を強めた。
それでもなお、友人はニヤニヤしていた。こいつ、全く俺の話を聞いていない。俺が、この期に及んでまだ誤魔化しているとでも思ってるのかもしれない。
……はあ。ほんと今日は最悪の一日だ。まり姉のやつ、帰ったら絶対文句言ってやる。空手家の従姉と徹底抗戦する意思を固めながら、うんざりして俺は頭を振った。そのまま、友人の支配から抜け出す。
改めて、この謎の銀髪美女に向かいなおした。何度見ても、本当に奇麗な人だとは思う。今まで出会った中でも一番。
クラスメイトの女子たちよりも何倍も垢ぬけているように見えた。それこそ、ヒエラルキーの頂点に君臨する誰かよりも。
……実際のところは、この人の年齢はよくわからないが。ぱっと見、大学生くらいには思える。まり姉とは違う生き物にも思えるけど。
と、そんな謎の考察を進めている場合ではなくて――
「さっきから何なんですか、あなた。なんだか俺のこと知ってるみたいですけど」
ちょっと強気に抗議の意味も込めて言い放つ。
「そんな、ユキト様、酷いです! あんなに愛し合った仲ではないですか!」
彼女はかっと目を見開くと、凄い剣幕で詰め寄ってきた。その瑞々しい艶やかな肌が間近に迫る。
「は? いやあの――」
「おい、幸人! お前、こんな美人な彼女がいたのかよ! なんだよ、愛し合ったって、不潔よ、不潔!」
友人はわざとらしいオネエ口調で詰ってきた。両手を顔に添えて、とても楽しそうである。
「暫く黙っててくれ、死ぬほどややこしくなるから。……誤解だよ、誤解! 人違いじゃないですか?」
「いいえ、そんなことありません。貴方は、貴方こそがユキト様! この、アリスめにはよくわかりますとも」
彼女の表情は鬼気迫り、かっと見開いた目からは雫がのろのろと溢れ出す。そのまま顔を手で覆ってしまった。むせび泣く音が聞こえてくる。その身体は少し震えていた。
「あーあ、泣かせた」
「俺のせいかよ!」
剛は軽蔑するような冷たい眼差しを送ってきた。さらに、不幸なことにここは往来の真中。道行く人々は何事かと、俺に対して好奇な視線を向けてくる。
「うわー、なにあれ、最低!」
「女の人の方、かなり美人なのにね~」
「あんな冴えないやつ、何様だよ、ほんと」
などなど。絶対聞こえるように話してやがる。
さながら別れ話が拗れたカップルにでも見えるだろうか。こんなとこ知り合いにでも見つかったら、溜まったもんじゃない。ここが街の中心部であることを本気で恨んだ。
もう何が何だかわからない。濡れ衣は着せられるわ、遠巻きにひそひそ話を食らうわ、一体俺が何をしたというんだ! ただひたすらにやるせないというか……。
「待て待て待て! 誤解だ、誤解! ちょっと、あんたでたらめなこと言わないでくれよ!」
「おいおい、幸人。それはさすがに男らしくないぞ。この人、こんなに泣いてるじゃないか!」
「そうです、そうです! ああ、ユキト様。あの時交わした約束は嘘だったのですか? 生まれ変わったら、一緒になろうね、と。だから、わたくしはずっと探してきたというのに……」
その言葉は空気を凍りつかせるのには十分だった。俺は口をぽかんと開けてまじまじと、相手の顔を見つめる。
これは、その控えめに言って頭がおかしいというか……。
剛もまた異変を感じとったらしい。目があった時、なんとも言えない表情をしていた。少し口元が引きつっている。
その物言いはまるで、俺とこのヤバめな女が前世から因縁があるとでもいうような……。フィクションの話じゃあるまいし、ありえない。
しかし、この女、馬鹿なこと言っている自覚はないようだ。その顔はいつまでも真剣そのもの。冗談を言っている風ではない。厄介極まりないぞ、これは……。
「あの……どういうことですか?」
「貴方様とわたくしは遥か昔から恋人同士だったんですよ? ユキト様、まだ思い出せませんか?」
至極真面目な表情で答えが返ってきた。
俺は困窮して、救いを求めるようにして剛に視線を送る。俺の手には負えない。とんだモンスターだ、こいつは。見た目はとてもそんなものとはかけ離れているというのに。
彼は腕を組んで苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。額に手を当てて、目をぎゅっと瞑って何かを必死に考えている様だった。
「ええとつまり、あなたは幸人の昔――大昔の恋人だと? 冗談ですよね」
「むっ、何ですか、貴方! わたくしは貴方とお話しするつもりはありません。ユキト様とわたくしの間に割って入らないでくださいます!」
それは冷たい眼差しだった。ムッとした表情をすると、彼女はとても心外そうに剛を一瞥した。
「さっ、ユキト様。せっかくこうして会えたのですから、お茶でもいたしましょ?」
すぐに人懐っこそうな笑みを浮かべると、彼女はぐいっと俺の腕を掴んできた。ほっそりとしている割には、意外と力強い。
だからと言って、このまま屈するわけにもいかず。こお頭のおかしい女にかかわっては、ろくなことにはならないだろう。
一つ、友人に目をやった。がっしりと頷く。
「わかった、わかった。話は聞くから、とりあえず手を放してくれないか?」
「あっ、すみません。わたくしったら、はしたない真似を……」
彼女はちょっと顔を赤らめると、ぱっと腕を放してくれた。いい人だ。
そして――
「逃げるぞ――」
「おうよ!」
俺と剛は一目散に駆け出した。小学校からの付き合いで、初めてよかったと、心の底から思える。
「待ってください、ユキト様!」
後ろから、女の呼び止める声が聞こえる。そこはそれ、昔から言うだろう。待てと言われて、待つ奴はいない。
そのままぐんぐんと、街の中を走っていった。地下鉄めがけて、一心不乱に。
……はあ。どうして、こんなに走らないといけないのだろう。身体が悲鳴を上げるのがわかる。
今日はとんだ厄日――まり姉に一言文句を言わないと、気がすまないぞ、これは!
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