決断

津田梨乃

決断

 目を覚ますと、そこは見知らぬ部屋だった。


 まるで手垢のついた冒頭だな。男は辺りを見回しながら吹き出しそうになる。


 古びた木小屋のようだが、辺りは薄暗かった。窓や、扉がないのだ。夜だとしても月明かりの恩恵は見込めそうもない。部屋の中心でたゆたう蝋燭の火だけが頼りだった。

「まさか出口までないとは」

 男は、冷静に呟く。すると返事があった。


「そうさ。お前は選ばなければならない」

「誰だ」

「俺か。俺は悪魔だ」

 悪魔と名乗る男は、黒いボロ布を纏い、痩せこけた頰をニタリと吊り上げた。その様は、悪魔というより死神をイメージさせた。


「まさか、この蝋燭が俺の寿命とでもいうのか?」

 男は、前に聞いた落語の話を思い出しながら言う。

 そんな男の発言を悪魔は一笑に付した。


「寿命? 当たらずとも遠からずだな。だが、蝋燭は関係ない」

 よく見ろ、と悪魔が指差す先には、二つのボタンがあった。ボロ小屋に似つかわしくない、やたらと近代的なデザインが異様さを際立たせている。左のボタンには数字の一が、右のボタンには二が印字されている。


「このボタンがなんだっていうんだ」

 男の問いに悪魔はニヤリと笑った。

「言ったろう。お前は選ばなければならない」

「何を」

「お前は、恋人を愛しているか?」

 男の発言を無視し、悪魔が場違いなことを聞く。当然、男が真面目に答えるはずもない。


「そんなこと、お前には関係」

「あるんだ。それが」

 悪魔は、男の言葉に被せるように言った。


「お前が世界で一番恋人を愛していると思うなら、一番目のボタンを押せ。そうでないなら、二番目のボタンを押すんだ。同時にお前の恋人も同じことをする」

 わかったか? ケタケタと悪魔は笑った。当然、はいわかりました、とはならない。話の内容よりも、どこかで恋人も監禁されている。その事実に、男は膝から崩れ落ちそうだったのだから。


 男は、これが夢でも、タチの悪い冗談でもないとわかり始めていた。


 悪夢は続き、悪魔は続ける。


「もし、お前が一番を押し、恋人が二番を押したら、お前は死ぬ。逆なら恋人が死ぬ」


 悪魔は、だが、と殊更愉快そうに人差し指と中指を立てた。


「俺は悪魔だ。お互いを信じて、二番を押すなら、どちらも助けてやろう」

 悪魔は、ついに堪え切れないといった体で腹を抱え始めた。愛は素晴らしいなあと、涙目で言った。


「知っているぞ。知っている。お前が密かに隠している結婚指輪の存在を」

 なぜ、それを。とは驚かない。相手は悪魔だった。きっと人知を超えた力があるのだ。男は努めて冷静に分析する。そうしないと、気が狂ってしまいそうだった。


「いいじゃないか。指輪を渡すために、愛を否定してみてはどうだ? もっともお互い生きてたらの話だがな」

 悪魔は、目尻を拭いながら肩で息をしている。愉快で愉快でたまらないらしかった。

 男は、黙ってその様を眺めながら、もう一つの可能性に気がついた。きっと悪魔はわざと言わなかったに違いない。男は拳を固めながら問いかける。


「……もしもだ。もし、どちらも一番を押したなら?」

 悪魔は笑うのをやめ、まじまじと男を見つめた。

「なんだって?」


「俺と彼女、どちらも一番を押したらどうなると聞いている」

 きっと男の望む答えは返ってこない。わかっていても聞かずにはいられなかった。


 悪魔は、しばらく部屋の隅を行ったり来たりし、やがて男の前に立った。


「お前、俺を誰だと思ってるんだ?」

「悪魔だろう」

「ならば、それが答えだ」

 ひは、ひははははははは。悪魔は、気が狂ったように笑った。もう男がなにを言っても聞こえていないようだった。



 悪魔の声が遠くなる。

 どこかで聞いた話だ。

 男は思い出していた。

 これは、まるで。



「囚人のジレンマ?」

「そ。知ってる?」

 彼女が得意げに、胸を張る。本当は、言葉くらいなら知っているが、わざと知らないふりをしてやる。

 彼女は、子どものように偉ぶりながら説明を始めた。


「ある事件で、二人の囚人が牢屋に入れられるの。そして、互いが話せない状況下で、ある取引を持ちかけられるわけ。なんだっけ、ほーりつじゃなくて、みんぽーとりひき……」

「司法取引?」

「そうそれ!」

「日本でもあるのかなあ」


 互いが自白したなら、どちらも罪が重くなる。

 互いが黙秘したなら、どちらも罪が軽くなる。


 片方が自白し、相手が黙秘していたなら、自白した方は無罪放免。黙秘した方は、罪が重くなる。逆も然り。

 要は、そんな話だった。


「悪いことはしちゃだめって話だろ」

「違うよ! これはそういう話じゃなくて」

「じゃあ、どういう話?」

 そう言うと、彼女は難しい顔をして黙り込んでしまった。真剣に考えているらしい。特に着地点も決めずに話し始めるのは、いつものことだった。やれやれと男が助け舟を出す。


「もしも僕らが同じ状況になったらどうする?」

 彼女は飛びつくように即答した。

「自白する!」

 一切の躊躇のなさに男は苦笑するより他ない。

「即答だなあ」

「臆病なあなたが黙秘なんてできるわけないし」

「うーん。確かに、ごーもんでもされようものなら、ペンチ見ただけで自白するね」

「始まってすらないじゃない。やってない罪まで認めそうだよ?」

「違いないね」

「違いないよ」


「いや待って待って。そもそも彼氏のために黙秘を貫こうってしおらしい心遣いはないわけ」

「ないない。すぐに自白するよ。それは、もうすーぐに」

「僕がやってない罪まで証言しそうだ」

「違いないよ」

「違いないね」

 穏やかな昼下がりだった。こんな日常が続けばいい、なんてあの時思っていたかもしれない。


「そしたら一緒の牢屋に入りましょうね」

「一緒は、無理じゃないかなあ」

「大丈夫よ」

 彼女が急に大人びたような顔で、男を見つめる。

「たとえ会えなくたってずっと一緒。あなたと、私。おんなじように、歳は取っていくんだから」


 ——そうでしょ?


 彼女はそう言って朗らかに笑った。

 そんな笑顔を見て男は思ったのだ。

 どんな状況に置かれても、きっと彼女と一緒ならば……


 そんなわざとらしいモノローグを付け加えてやると、途端に男は愉快になってきた。



「覚悟は決まったか?」

 悪魔は、笑うことに飽きたのか、それとも男に飽きたのか、貧乏ゆすりを始めていた。さっさと押して楽になってしまえ。暗にそう言っている。


 男は、無機質な二つのボタンを見つめた。彼女もどこがで同じように見つめているのだろうか。男は出口のない天井を見上げ、目を閉じる。


「なあ。お前は、どれくらい生きるんだ?」

 男は、悪魔に問いかけた。それは悪魔にとっても不意打ちだったらしい。訝しげに男を眺めながら、とうとう気が狂ったか? と、哀れみの表情さえ浮かべる始末だった。


「悪魔に寿命はない。ゆえに、歳も取らない」

「そうか」


 案外真面目な回答に、男は小さく笑った。

「それを聞いて安心した」


 男の姿は、悪魔の目にすら不気味にうつったらしい。少しの距離を置いてから、再び男に囁くのだった。

「さあ、ボタンを押せ」


 男は、そっとボタンに手を置く。ひんやりと冷たかった。あとは、体重を乗せるだけ。迷いはなかった。

 それは、きっと彼女も同じに違いない。そう確信している。



 男は、また小さく笑い、ゆっくりとボタンを押し下した。



(了)

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決断 津田梨乃 @tsutakakukaku

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