KAC4 「紙とペンと〇〇」 '\0'

はざまカガリは天才だと思わないかい?」


 中学の卒業式。早朝。僕しかいない教室。窓際。無聊を慰めるためひたすらペンを回していた僕に、いつの間にかやってきていたクラスメイトの能登が言い放った。

 一応あたりをぐるっと見回してみるけれど、やっぱり教室には僕しかいない。僕に話しかけていると考えるのが自然だろう。


「……ちょっと話が見えないんだけれど」


 能登は爽やかとも陰湿ともとれる微妙なにやけ顔で、教室後方入口、ドア枠に体を預けていた。


「おや、池谷いけやナル。君は間カガリと仲が良いのだろう? 随分と冷たいじゃないか」


 やれやれ、というジェスチャーを本当にするやつがいたもんだ。

 しかしまあ、勝手に話を進めるやつだなと僕は思い、唸った。あまり僕の得意なタイプではない。今更のように得意不得意の判断をしたのは、僕が彼と話したことがほとんどないからだ。

 能登ヒロキ。教師やクラスメイトから「神童」と持てはやされ、成績はいつだって学年1位の要するに優等生だった。

 立ち居振る舞いからして正しい礼節を弁えていて、教師からの信頼は厚い。絵に描いた、を通り越してもはや古今東西の学園物語にいつだって登場するテンプレート人間だった。

 そして、そういう優等生には二種類いる。皆まで言わずとも分かると思うが、つまり能登はそういうやつだ。

 能登はドアから離れ、机の間を縫って僕のもとへとやってきた。僕を見下ろして口を開く。


「間カガリは天才だ。僕よりね。成績こそ取り立てる部分はないし、直接カガリと話したことがあるわけじゃないけど、僕にはわかる。類は友を呼ぶのさ」


 カガリと能登が友であることは初耳だった。カガリには友人が少ない。友人という関係があまり得意ではないと言っていた。ところで、話したことはなくとも友という関係は築けるものなのだろうか。


「カガリはすごい。カガリはどんな問題だって解ける。なんでも知ってる」


 彼はわざとらしい動作で両手を頭の上に掲げた。うっすら恍惚とした表情は率直に気持ち悪かった。 

 さて、と話を戻した彼は、変わらないにやけ顔で続けた。


「君には何がある?」


 どうだ、と言わんばかりの地震に満ちた彼の表情を、僕はなんとも思わなかった。

 くるりとペンを回す。

 彼の言わんとすることを理解した僕は、まず誤解を解くことにした。


「僕とカガリは一般的に言って親しいのかもしれないけれど、恋人という間柄じゃない。付き合いたい、告白したいというなら好きにするといい」


 一瞬、彼は面食らったような表情をした。やがて僕の返答を理解してムッとし、しかしすぐに元のにやけ顔に戻った。


「誰もそんなこと言ってないさ。理解力のないやつだな。簡単言わないとダメかい? 僕は、君が天才である人間と接点を持つために弄した策を聞いているのさ」


 策。策?


「君のような人間がカガリと親しくできるなんて、普通ありえないだろう。何か弱みでも握っているのか?」


 彼のにやけ顔はもはや悪意を隠そうとしなかった。威嚇のつもりか、僕の机の隅に手をドスンと置いた。


「彼女の知識の深淵を覗けるのは、僕のような一部の人間だけだ。君には無理だ」


 結局、策なんて方便だった。言いたいことはこっちだろう。

 なんだか気が抜けてしまった。おかしくて、多分、不覚にも口角を上げてしまったのだろう。当然、彼のような人間がそれを指摘しないわけがない。


「おい、何がおかしい?」


 他人に笑われるのがとにかく嫌なのだろう。彼は憤慨し、みるみる赤くなった。将来苦労しそうなやつだ。


「なんでもないよ。僕は口角が引きつる病気なんだ」


 能登は間カガリのことを何も分かっていない。僕はそう思った。

 カガリは確かに天才だ。散々、天才と言ってきたけれど、どんな天才かと言えば能登の言うように「カガリはどんな問題だって解ける」。

 しかし、それは知識に裏付けされたものではない。彼女は何も知らない。何も知らないのだ。

 ところが彼女は何も知らないのに、問いを解くことができる。彼女には、問題が言葉に依らない本来の姿で見えている。彼女自身はまだ自覚していないようだけれど、いわく「絡まって糸をほぐしているだけ」らしい。

 彼は何もわかっていない。物事を正確に見ようとしない。だから、自分の理解が及ばない現象をなんでもかんでも模糊とした暗闇のままにしておく。それは深淵なのだと決めつける。物事を過剰に大きくしているだけだ。彼は深淵と相対する自分に酔っているだけだ。深淵はそんな彼を認めないだろう。覗き返そうともしないはずだ。彼はその程度の人間だった。

 窓の外には、ちらほら人の姿が見え始めている。これ以上彼と会話を続けるのも億劫だ。


「ところで、そろそろ他の人も来るんじゃないかな」

「ふん」


 能登は鼻を鳴らすと僕に背を向けた。もはや誰が聞いても優等生のものではない、どす黒い声色で、こう言い残した。


「間カガリの邪魔をするな、池谷ナル」


 そして彼は教室から出て行った。君の教室はここだ。どこへ行く。

 一際大きな音を立ててドアが閉められる。僕は苦笑した。改めて、手元のペンを回し始める。

 実のところ、能登の言うことには一理ある。彼のカガリに対する評価ではない。彼の僕に対する評価に、だ。

 ――君には何がある?

 僕には、何もない。彼の言うように、天才と並び立つための素養が何もない。

 回したペンが指の上を滑り、遠くへ跳ねていった。それを横目でみながら僕は思う。

 ペンというものは、どれだけ上等なものだろうと、書かれる紙がなければ意味をなさない。そのうちインクは固まり、いよいよただのゴミだ。

 池谷ナル。

 ナル。あるいはヌル。

 Null。

 ドイツ語でゼロを意味する。

 '\0';

 プログラミングの世界でいえば、「何もないこと」。

 椅子にもたれ天井を見上げる。そっと目を閉じ、耳を澄ませる。

 誰かが廊下を歩く音。おはようと言う声。校舎に満ちていく騒々しさが、僕の胸をざわつかせる。心が冷えていく。

 ドアが開く音に薄く目を開いた。そこには、隣のクラスであるはずの間カガリが立っていた。


「ナル、おはよう。早いね」


 僕は椅子から立ち上がり、カガリに気づかれないようにそっとペンを拾いポケットにねじ込んだ。フクロウのイラストが描かれたペン。カガリからもらったペン。


「おはよう、カガリ。一番だったんだ」

「珍しいね」

「カガリは、卒業式、楽しみ?」

「うん、楽しみ」

「そっか、よかったね」

「うん。高校も楽しみ」

「そっか」


 僕は、紙にはなれない。

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