第5話 大魔法使いの名前

 

 ―― その時、俺の顔をのぞきこんできたのは、大きな瞳を困惑の色に染めた

 ”バスタイム中の女の子”だった ――


「あんた、誰っ、ここ、どこっ!」


「お前こそ、ここで何してんの。ここはおおやけの道だぞ。バスタブを持ち込む場所じゃない」


 とは言ってみたものの、この眺めはそう悪くもない……けど

 

「うわぁ、そんなに堂々と見ないで! この痴漢っ」


「……痴漢って、イカれてんのか。道のど真ん中で、風呂に入ってる奴が」


 ガン見してくる青年の漆黒の瞳と、戸惑った甘茶色の瞳とがバッティングした時、バスタブから浴びせかけられた大量のお湯。


「あつっ、止めろっ」


 お湯をかけられた青年は、いい迷惑だと眉をひそめた。

 ほのかなレモンライムの香りは嫌いじゃない。よく見ると、バスタブに首まで浸かっているのは、すごく可愛い女の子だ。だけど、こんな騒ぎを皇宮の近衛隊にでも気づかれたら、後で痛い目に遭うに決まってる。


 しゃーないか。

 

 青年は、記憶の中から、まだ使ったことのない呪文を一つ選び、それを唱えた。


 「Bubbleバブル!」

 

 百合香が入ったバスタブが、純白の泡で満たされたのは、その10秒後のことだった。


* *


「こっちに来ないで!」


「ここは一本道! それでもって、俺の家は、そっちの方向! 自覚しろよ。お前は俺の帰り道を邪魔して風呂に入ってんの!」


 こんな風に言い合っていても、一向にらちがあかない。

 百合香と青年は、とりあえず名乗り合う。


「私の名前は、相良あらい百合香ゆりか、17歳。 の高校2年生、多分、弟が作ったジオラマの国に飛ばされてきた……と思う」


「俺の名前は、シーディ。の魔法使い。へぇ、お前はって名前か。 けど、日本? ジオラマの国って何?」


「日本は日本っ! ジオラマは、専門店から買ってきたキットで組み立てた、森とか、王宮とか、家とかがある小さな模型の国よ」


「……言ってる意味が全然わからねぇよ」

 

 とにかく落ち着こうと、百合香は思った。夢か地震のショックで自分の頭がおかしくなっちゃったのか。それでも、ここがジオラマの国であることは疑いないのだ。

 それに、見た目は私と同じくらいの歳に見えるけど、敵か味方かも分かんない男を変に刺激するのもマズいかも。百合香は、多少語気を和らげて言った。


「……で、シーディは歳は幾つなの?」


「歳? そんなの知るもんか」


「そっか……じゃ、17歳くらいってことで。けど、 魔法使いだなんて、すごいわねぇ。でも、呪文を唱えて発動するのが、遅すぎるんじゃないの。しかも、呪文が安易~。”Bubble”なんて言葉は、”英単語帳”にだってあるし」


「うっせぇな。魔法書にはその文字で書いてあるし、俺はその言葉で魔法を覚えたんだから仕方ないだろ。それに、お前ユリカの”ハダカ”が見えないように泡風呂にしてやったんだから、文句たれるな」


「あの……そのことでは度々、ご迷惑おかけして申し訳ありませんが」

「何だよ、気持ち悪い。急に、しおらしくなって」

「ちょっと後ろ、向いててくれる?」

「心配しなくても、風呂泡でもう、”ハダカ”は見えないよ」

「じゃなくって、のぼせた」

「はぁ?」


「お湯でのぼせたから、外に出たいの! 後ろ向いてて!」


 ああっ、本当に面倒臭い奴っ!


 そうは思っても、いつまでも、裸のままの少女を放っておくのも、後々、色々と誤解を招きかねない。


 青年は、羽織っていたマントを脱いで、くるりと空に翻し声をあげた。


 「Alterationオルタレーション! (変化)」

 

 百合香の上に真っ白なファーコートが落ちてきたのは、その直後だった。


* *


 24時間湯沸かし機能付きのバスタブの縁に腰かけて、体をファーコートで包み、足だけ風呂につかった百合香は、今は寒くはなかったが、こんなおかしな場所で、怪しげな男を前にして、雪見の露天風呂状態の我が身が信じられなかった。


 一方、シーディは、仕方なしにバスタブに背を向けたものの、はぁぁ……と、何とも悩まし気な声を背中ごしに聞いて眉をひそめた。気をつけろ、俺。可愛い顔をしているくせに、この風呂娘はとんでもない食わせ物かもしれないぞ。


 彼が後ろを向くと、脱いだマントのフードで見えなかった一つに束ねた長い黒髪の毛先がさらりと風に揺れた。

 コスプレが趣味で、衣装や髪型のスタイリングには興味津々の百合香は、その眺めがけっこうイケてると瞳を輝かせてしまう。


「こんな不思議な魔法のマントを持ってるなんて、やっぱりシーディって、(ポンコツでも)魔法使いだったんだ。なら、一つ聞きたいんだけど、シーディは”灰色猫グレイ・マウザー”っていう大魔法使いを知ってる?」


「は? 今、何て言った?」


「グレイ・マウザー! 京ちゃんがこの国には、その名のすごい大魔法使いがいるんだって自慢してたのよ」


「……」


「何で黙ってるのよ」

「だって……」

「だって、何?」



 ―― それって、俺の名前だから ――



 けれども、シーディは、その名を口にすることを躊躇ちゅうちょしていたのだ。



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